2011-07-24

「未来」創刊60周年記念大会レポート・第一部「岡井隆・穂村弘 対談」 僕がメモを取って聞いた所 生駒大祐

「未来」創刊60周年記念大会レポート・第一部「岡井隆・穂村弘 対談」
僕がメモを取って聞いた所


生駒大祐


2011年7月16日(土) 
於・如水会館(スターホール)



先日、歌誌「未来」の60周年記念大会が開かれた。

僕は日ごろ俳句を作る人間なのだけれど、岡井隆さんと穂村弘さんの対談と短歌におけるライトヴァースに関するシンポジウムがあると聞いて、迷わず拝聴させていただくことにした。

本稿では第一部の対談パートについて、特に面白いと感じた部分についてレポートしたいと思う。

以下のお二人の言葉(「」に入っているものも)はあくまで僕というフィルターを介して伝える言葉であり、厳密な文字起しという訳では全くないことを付記しておく。



対談は大きく三部構成をとっており、
①昔の話
②静かな生活
③素朴な質問
から成っていた。



①昔の話は、まずは斎藤茂吉のエピソードから始まった。印象的だったのは、岡井さんが家に帰ったら自分の部屋に茂吉が部屋に寝ており、「坊ちゃんか、君の部屋借りたよ」と言われたというエピソード。

続いて話は岡井さんの性格・性質の話に移ってゆく。岡井さんから、「塚本邦雄さんや近藤芳美さんに対する批判が大きかったときに彼らの側についた」という話からの、「いつも、新しいもの・世間的に悪口を言われ攻撃されているもののほうにつくことが好き」という発言があった。

「叩かれると怖くがしょうがないくせにどうしてそういう風にでてゆくのか。立派な志でやっているわけではないのに、結果としてそうなっちゃったというのかな。見定め方が下手だと言えるんだな。大人気の方につけばいいのにさ」

と言う岡井さんに対する、穂村さんの

「結局は誰よりも叩かれながら誰よりもサバイバルされた」

という発言も印象的であった。

続いて、岡井さんの人間性がさらに堀り深められる。相良宏や滝沢亘などの歌人の遺歌集の編纂に携わったことに関する穂村さんの、

「その人間に対する篤さと、私なんかが普段接しているなんとなく岡井さんのどこか人間嫌いっぽいところが私の中で結びつかないんです」

という発言とそれに対する岡井さんの

「まあ、そう人間好きではないですよね。おつきあいとか上手ではないし。自分がねえ、これはすごいとかこれは素晴らしいとかのめりこんでく時ののめりこみ方は、塚本さんに対してもそうなんだけど、強いですね。」

という発言から伺える人間性。

また、「岡井さんのライバルはいるか」という話において、塚本邦雄や吉本隆明の名前が出た後の穂村さんの「すごい歌を作る女性歌人に対しては?」という質問に対する、

「心から感嘆するのみですなあ。で、自分の競争相手ではない。あれは全然別種の存在かなあ。周りにもいますよ。若いときからだってねえ。河野愛子さんなんてひとは未来でいえばすごい歌人だと尊敬してた人がいますし、でもなんかあの人たちと一緒に競い合ってという歌人ではないんですなあ。女性歌人てのは。やっぱりこちらは崇め奉る対象という感じかなあ。」

という女性観。

穂村さんの「岡井さんは特に不自由なく育ってこられたようにお見受けするんですが、それなのに苛烈な文学的闘争心がずうっとあるということはご自身はどう思われますか」というかなり突っ込んだ発言を受けての、

「(森鴎外、木下杢太郎、斎藤茂吉などの)自分の目標とする、自分よりいい仕事をやった先輩がいると、あの人たちが達成したあの高さにどれだけ近づけるかということだけはやはり考えている」

という作家としての根源的な動機。

最後に、理論と実作という問題に対して岡井さんからの「茂吉は文献学的な理論の知識・蓄積はあったがそれが自分が作品を作る上でどういう指示を与えるのかという理論的なところはなかったのではないか」というような発言を受けて、穂村さんの

「そういう茂吉が短歌界の最大のアイドルであるように、論理的な思考は短歌の力を奪うみたいなね。そういう発想は根強く言語化しないまでも短歌の世界にある。そういう傾向はなきにしもあらずと僕も思うんだけれど、岡井さんが面白いのは、塚本さんはロジカルな性質と傾向と作品が一致してあの世界を作っていると思うんだけれど、岡井さんはご本人がいまおっしゃっているようなロジカルで明晰な思考と作品の独特の非合理性がばらばらというか両極端に存在していると思うんです」

という分析があり、続いて自然な流れで具体的な作品に関する対話に入っていった。



②静かな生活に関して。

穂村さんは

灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ  岡井隆「斉唱」

を指して、上の句で風景や情景を歌い、下の句で感情や観念を表現する「景+情」という現代短歌の強い武器であるパターンの歌だと指摘する。

次に「静かな生活」の歌を見てみると、

自転車に空気を入れてゐる男 行く所があるつていいことだなあ 岡井隆「静かな生活」

という歌があり、これも「景+情」という構造は同じだが、歌の印象は全く違う。「愛恋ひとつ」の歌は非常にスタティックであるという感じがして、下の句を隠すとみなそれぞれの下の句をつけられる構造の歌に思える。すなわち上の句と下の句は言葉同士をぱらぱらマンガのように組み合わせ、最も精度の高い響き合いを見せたものを採用したように見える。

一方「自転車」の歌は非常に衝撃的な歌で、非合理な魅力を感じる。言葉に先立って感情の動きのようなものが優先されている。

と述べる。

この論理性と感性の対立について、岡井さんは

「(『自転車』の歌は)ごく自然だなあと自分では思っていて、実際そういう気持ちが来た。自分ではこの歌は割と気に入っていて、自分でも自分の考えもつかなかったものが出てきた。自分の中のわけのわからないものが下の句に出てきたのかなという感じがする。かといってわかりにくくはない。下の句の韻律も上の句と違うものがでてきている」

と述べた。

そこでさらに穂村さんが

「『自転車』の句の下の句はありえない下の句というか、短歌を書こうとするときに候補から排除してしまう。そこを岡井さんは採用することができる。」

さらに

「先ほどの岡井さんの『そうはいっても自然にマンションの下で…』というのは茂吉の韜晦と全く同じもので、さんざん塚本さんが『それは説明になっていない』と批判したものじゃないですか」

と鋭く突っ込むと、岡井さんは「困ったなあ…まあ次行きましょう」と答えるという一幕も見られた。

続いて3首が提示される。

切りたんぽ来るという日に妻とわれ語り合ひつつ道を歩めり
浮島をみたころからか(いいや)その前からだらう 気付いてはゐた
西へゆく夜の列車に(どうとでもなれとばかりに)葱とろ夫婦  岡井隆「静かな生活」

「これらの歌においては、『切りたんぽ』『浮島』の初句の具体性が一首を支えている。『葱とろ夫婦』も同じく。これらはどこからでてきたのか」
という穂村さんの質問に対して、

「『切りたんぽ』は贈られるものだがどういうものかよくわかっていなくて、困ったなあと。家内は切りたんぽがどういうものかよくわかっているので、説明していくれるのだが、気持ちが休まらない…斎藤茂吉的な解説ですが。」

「『浮島』は実際に見たんですが、それを説明するつもりはなくて、何に気付いていたのかを言わないで、対象物とか『○○を』と言った、主語や目的語を廃して作ったときに、我々はいろいろと考えなくてはならない。短歌というのは単純な詩型でありながら面白いものがあるのではないか」

「()に入れるというやりかたは私が数少ない発明をした、記号短歌のうちのひとつなんですけれども、だんだん普及していきまして…」

「(『葱とろ』の歌は)どちらが葱でもとろでもいいんですけれども、『葱とろ』みたいな夫婦という意味で作ったんですけれども、いくらでも想像できますからそれでいいと思うんですけれども」

「大体我々の生活というものは、『愛恋ひとつ』なんていう風にきれいに行きませんで。ゆくゆくはその、『(いいや)その前からだらう 気付いてはゐた』となったりするように、カオスというのか複雑系というのか、そっちに行かざるを得ない現実があるから、歌の方でもいろいろ工夫してそうなっていると思うんですが…」

「『切りたんぽ』の方はかなり自然に出てきた。『浮島』の方は作業過程があり、のちに出来上がったひとつの機械という感じ。人工的です。」

という岡井さんの心情の吐露(あるいは韜晦に見せかけた躱し)を聞くことができた。

「塚本さんからみたらNGな作り方ではないか。それはそもそもの生理的な違いも大きいし、岡井さんのこの文体はやっぱり許せないのではないか」

という穂村さんの指摘に対して岡井さんは、
「私もそう思いますね」と答え、『マニエリスムの旅』という岡井さんの歌集に対して塚本が20ページの解説を載せたというエピソードを語り、

「あれは叱責の言葉に他ならない。『方法論で歌を作ると言ったじゃない。今度は方法はない。無意識の歌である。』と、塚本さんがああでもない、こうでもないと20ページずうっと言い続けたのはあなた(穂村さん)が言ったことと同じ。方法を捨てたら何があるんだっていうのは塚本さんの強い意識。それが、『意識的に方法に則って歌をつくるというのではなくて、でてきたものをそのまま泳がせればいいと書いてあるのはけしからん』という20ページの叱責を書かせた。いい先輩を持ったものだなあと。塚本さんに一冊の歌集に対して20ページの叱責を書かせた人はいませんよ。」

と述べた。

穂村さんはさらに、

「僕は方法は明らかにあると思う。無意識を湧出してくる方法があると思うんだけれども、我々の目にはそれが見えていない。ひとつ思ったのは、西脇順三郎の晩年の詩を見ると、『切りたんぽ』めいた言葉が非常に日常語であると同時にある聖性を帯びて立ち上がってくる。あれは方法と言えば方法だし無意識と言えば無意識のようにも見えるという、自由度の高いところで無意識を引っ張り出すようなレトリックがあるとおもうんですが。今私がわかる一番近いものはあれかなと思うんですが。」

と指摘し、岡井さんはそれに肯定する。

話は音韻分析に移り、穂村さんの

「音韻分析を精密にできる人がすれば、その面では明らかに(意義が)ある感じはしますね。特に『切りたんぽ』のような歌ほど魅力を支えるウェートがそちらに寄っている。岡井さんは作られるときに口ずさんだりされるんですか」

という言葉には、

「すべての歌は黙読のときでもやはりくちずさんでいるというのが僕の説なんで、おそらく頭の中では暗唱しているんではないかな」

と岡井さんは答えた。



最後に③素朴な質問に移った。

Q:ご自身で一番気に入っている歌は?
A:去年の「X‐述懐スル私」と「静かな生活」に歌集として愛着がある。しかしやはり、塚本さんとやっていた前衛期よりは、復帰したての頃から「禁忌と好色」あたりまで(が気にいっている)。一首あげるならば、

歳月は寂しき乳を頒てども復た春は来ぬ花をかかげて

なんかが自分では好きな歌。

Q:怖いモノは?
A:このごろ悪夢を見る。自分の過去がナイトメアになって現れる。そりゃあ怖いですよ。寝室の中に妙なものがいる。最近ではあれが一番怖い。

Q:大事なモノは?
A:今の静かな生活かな…。葱とろ夫婦かもしれませんけどもひとつの安定だし、一番大事かな。

Q:今までで一番うれしかったことは?
A:たくさんありすぎて選定しにくいなあ…。最近は森鴎外の歌日記を完結した喜び。

Q:もし短歌をやっていなかったら?
A:医学研究者。グループを組んで世界中の学者を相手にしてやっているあの感じ(の楽しさ)は分かるなあ。

とここで時間が来て、対談は終わりを迎えた。



蛇足ながら僕の感想を軽く述べる。

正直に言えば、僕は岡井さんの歌に関して詳しい方では全くないし、その仕事の価値に関してもほとんど知らない身であるので、特に②の中心となっている「方法論から無意識へ」の流れについてはほぼ背景知識なく聞いた。

その上で、方法論というある意味で「定式化された主観から遠いもの」が歳月を隔てることで作家の中で変容し、「『無意識』の方法」という一見矛盾した表現にまで至るのは、僕には非常に興味深く不思議なことであった。しかし、

灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ  岡井隆「斉唱」

の上の句の情景と下の句の情念の取り合わせという方法についても、その取り合わせの「糊」はおそらく「無意識」であるし、

自転車に空気を入れてゐる男 行く所があるつていいことだなあ  岡井隆「静かな生活」

の一首を貫く動機は「無意識」であっても、表現の構成過程においては穂村さんに指摘されているように「愛恋」の歌と同じ方法論が働いている。

思うに、方法が作者の身になじむことによって、水が純度を増すに従って透明になってくるように「方法」のみが一首の中心に成り得なくなるという状況に対し、それまで「糊」の役目しか果たしていなかった無意識が浮かび上がってきた「ように見える」。すなわち、方法を徹底すれば無意識が浮かび上がり、無意識を行おうとすれば方法に頼らざるを得なくなるという循環性が短歌(そしておそらく表現全般)にはあるのではないか、ということを思った。



岡井さん、穂村さん、貴重なお話をありがとうございました。
第二部をお楽しみに。




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