2011-07-10

胡散臭い日本の私  澤田和弥

胡散臭い日本の私
澤田和弥


1.アメリカン

いきなりアメリカンなことをしたい。この場合、話を薄める訳ではない。必要箇所が全くない文章なので、薄めようがない。また「アメリカン」か「アメリキャン」か、どちらが正確かは、本論とおぼしき部分と全く関係ないので、敢えて触れないこととする。最初に結論から言いたい。つまり初っ端に私の薄汚い頭の中をお見せするということである。しかし本当にそれをすると、R18なうえにかなりのマニアック変態もので捕まるか、血が噴き出して死んでしまうかなので、俳句に限定しようか。しかしインターネット上で「卑猥」「性獣」とお呼びいただいている私の俳句です。やはり捕まるか、セキュリティーネットに阻まれるかしてしまうだろう。今、私の駄文が読めている貴方のパソコンはセキュリティレベルがかなり低いに違いない。お上げになられることを推奨する。話をうやむやにするために芸術という大風呂敷について書いてみたい。芸術は胡散臭い。その一言である。正確に言えば、作品を「芸術」と評価することが胡散臭い。ゆえに「芸術」なる、きわめて権威的なものがとても胡散臭い。ただしこれは芸術を否定しているのではない。芸術は美しく、感動的であり、とても面白い。きわめて素晴らしいものである。しかし、権威ではない。常に傍にいて、肩組み合い、励まし、慰め、笑顔にしてくれる親友である。親友が「権威」であるはずがない。それを高尚だの、崇高だのと言うことは馬鹿げている。それこそ胡散臭い。

例えば「本物」とは何であろうか。鑑定士が「本物」「贋物」というが、本当にそうなのだろうか。名工が実験的に作ってしまった駄作もある。偽作者が偶然にも作ることのできてしまった名作もある。こう考えると「本物」とは「作者本人が正真正銘作ったもの」ではなく、「現時点で、専門家と名乗る一部の人たちが作者本人が作ったに違いない名作と言い張っているもの」に過ぎない。その「本物」によって桁外れのお金や、ときには人の命までもが左右されてしまう。ほら、だんだん胡散臭くなってきたでしょ。こんなことを書いている私が一番胡散臭いと誰しもがお思いだろう。残念ながら、皆様はきわめて正常な判断力をお持ちである。私の文章は、もっと判断力の低い方や酩酊状態の方、改行がほとんどないため、字がよく見えないという方にお読みいただけると、わずかながら効果があるかもしれない。その効果とは万引きで捕まったサラリーマンの「正義は常に私にある」という格言と同じレベルである。そんな私が今から俳句について、いだいた感想を少しばかり長々と書かせていただこうと思う。ようやく俳句の話になった。こんな駄文をここまで読んでくださったのである。ここまで来たら、毒を喰らわば皿までも。最後までお付き合いくださるのが人情というものではござんせんか。一次会の途中で帰るなどという、そんな美人セクシーOLのようなことはおよしください。皆様が性善説のもとにお生まれになったことを信じ、次に進みたい。ついでに恋愛も次のステップに進みたいところだが、まだふりだしにコマすら置いていない状態なので進みようがない。誠に遺憾である。

2.分けるということ

評論は感じたことをそのまま書くのではなく、評論家という個人を軸とした一つの学問的体系であるべきと考えている。感じたことをそのまま書いてしまっては感想文か、官能手記になってしまう。後者ならば、ぜひとも読んでみたい。学問の基本は分類することである。いろいろとゴチャゴチャとした現政権のようなものを整頓し、分類することで一つの体系が生まれる。ちなみに私の体型は小太りの「小」を大幅に除いたものである。分類することについては人文・社会・自然科学全てに言えることであろう。まず最初に「立場を分ける」ということを申し上げたい。次に「内容を分ける」ということを申し上げたうえで、まとめさせていただこうと思う。「立場」については、例として「週刊俳句」における震災句を挙げてみたい。

2-1.「週刊俳句」における震災句

寝た子を起こすようで誠に恐縮ではあるが、いつも独り寝の私には起こす相手は年老いた両親くらいしかいないので、このような場ではせめて起こす立場になってみたいのである。西原天気氏のコメントに対し、一個人氏が反論する形で展開しかけて、結局展開しなかった件である。この両者は、違う立ち位置から発言している。それゆえ意見が噛み合わない。つまり、天気氏は選者として、一個人氏は作者として発言している。

大体の流れを記したい。

西原天気氏ブログ「俳句的日常 dome rain or come shine」2011年3月13日16:24記事「週刊俳句・第203号」

週刊俳句203号を非常事態号とした理由を述べた最後に


テレビで見る地震・津波の被害を安穏と五七五にするような、程度の悪い「のんきさ」、どうしようもない「蒙昧さ」。それはまた、まったく別の話。


と記載。その後「週刊俳句」第206号(4月3日)
西原天気氏「よろしく距離 金子兜太×池田澄子『兜太百句を読む』」のコメント欄に「一個人」氏が余談として西原氏発言を批判。

そういったこと、何であなたに決め付けられなければならないのでしょう。
いろいろな思い、立場、真摯な気持ちでこの大災害を自分なりに形にしたいと思われた方もいたはずです。


その後の天気氏のコメントに対して、「台(のちに「館野洋一」氏)」、「匿名」各氏が批判。

「週刊俳句」第209号(4月24日)
五十嵐秀彦氏 週刊俳句時評第28回「弧は問いであり、問いは答えである 樋口由紀子『川柳×薔薇』その他」において、一個人たちの批評は感情的であり、批評・批判になっていない旨を記載する。ただしこの文章について、私の節穴の目で読んだ限りでは一個人氏や館野洋一氏に対して、きわめて好意的に書いてあるように思う。

それに対してコメント欄に、館野洋一氏が反論。一個人氏発言は正当な批評・批判であるというもの。

「週刊俳句」第213号(5月22日)
五十嵐秀彦氏 週刊俳句時評第32回「それは本当にあなたの言葉なんですか」を発表。ここでは前述の流れとは一切関係ないが、「一読者」氏が館野洋一氏と同様の批判をコメント欄に記入。

以上のような流れである。館野洋一氏の質問は一個人氏が書かれたことへの回答かと思うのだが、私ならば「そのとおり」と応える。西原氏のコメントも「そのとおり」だと思う。立ち位置が違うのである。いくら強い力士同士でも東京と大阪で「はっけよいのこった」とやったところで、相撲になるはずがない。作者の立場、選者の立場から考えてみたい。

まずは作者の立場に立ってみたい。できれば彼氏の立場ではなく、彼氏になってみたいところだが、そろそろ「クドい」と言われそうなので、ここでは作者の立場のみに立たせていただく。一個人氏の仰る通り、東日本大震災には誰もが心を痛めた。句作をする者にとって、それを俳句として表現しようと考えることはきわめて当然の流れである。俳句を詠むということは個人的創作活動であり、何ぴともこれを妨げることはできないし、してはならない。勿論、天気氏の発言はその段階に対するものではない。これについては後述させていただきたい。作者側は一俳句作家の発言に敏感にならずに、己れの道を信じ、句作に励むのがよいのではないだろうか。大きなお世話で誠に申し訳ないが、それが俳句を愛するということのように私には思われてならない。私なんぞを例に挙げて誠に恐縮ではあるが、「下品」「俗」「卑猥」「作者が面白がっているだけ」「こんなものは載せないでほしい」等、いろいろなことを言われてきた。作品だけではなく、私個人への人格批判もあった。これらにいちいち敏感になっていたら、句作をやめるどころか、生きていくのもイヤになる。言う人は言わせておくのがよろしい。曽丹やゴッホのように作品が死後、評価されることもある。分かってくれる人は必ずいる。それに評価されるために句作をしているのではなく、つくりたいから句作しているのではないだろうか。ただ一個人氏側はあくまでも作者という立場で発言していたのであって、天気氏の立場とは違っていたから話が噛み合わなかったということだけはなにとぞ御理解いただきたい。

選者側に移る前に一言申し上げさせていただきたい。上司がムカつく。そういうことじゃない。作句と投句についてである。作句は個人的創作行為であり、誰もそれを邪魔することはできない。人生や自身の感情を深く想い、想像の翼を太陽に向け、大いに自由に創作していただきたい。有季定型である必要はないし、俳句である必要すらない。何も制限のないユートピアである。

しかし、それを投句するとなると話は全く違ってくる。投句は評価を求めることである。どのような評価をされようとも、その句をその座に出した自分の責任であり、自業自得である。作句は日記のレベルであり、投句は日記文学のレベルを必要とする。人の目を意識しなければならない。それがどのような評価につながろうとも、甘んじて受けなければならない。それが嫌ならば作句の段階でやめておくのが無難であり、見せるにしても家族や親友ぐらいにとどめておく方がよい。投句するならば、それ相応の覚悟が必要である。以前に國吉清尚について「週刊俳句」に転載していただいた(「週刊俳句」第69号(2008年8月17日)拙稿「覚悟 陶工・國吉清尚を通して」)が、そこでも「覚悟」について触れた。インターネット環境の日進月歩の進化にメディア・リテラシー教育が全く追いついていない。そのためか、公と私の発言がうやむやになり、発言することへの覚悟が見られなくなってきている。言葉は諸刃の剣。救いもするし、殺しもする。投句して、貶されて、怒るくらいならば、最初から投句しなければよろしい。もしくは誰もが褒めてくれる、誰もが自分の良き理解者である句会を探すか、つくるかして、そこに投句すればよい。そうすれば満足のいく結果となり、俳句もより楽しくなるだろう。つまり投句した以上は全てを選者に委ねなければならない。その点で作句と投句は全く別次元の行為なのである。

どうも話が長くなっていけない。酔っている訳ではない。ましてや上司罵るために酔っているのでもない。自分の美貌に酔っ、ごめんなさい。本当にごめんなさい。読むのをやめないでください。こんな過ちはもうしません。すみませんでした。とっとと選者側に移らせていただく。

天気氏のコメントは選者側からの立場のものと考えられる。これについては震災の現状ではなく、震災「句」の現状を見てみたい。前述のように、東日本大震災には誰もが心を痛めた。俳句を愛好する者ならば、その悲しみや苦しみを俳句に昇華させようとすることはきわめて自然なことである。作句する。そして投句してしまう。大震災直後などはどの句会に行っても、震災句ばかりであった。こちらも大震災に心を痛めていない訳では決してないが、一か月の間に目にした俳句の半数以上が震災句ばかりではさすがに辟易してしまう。もちろんそのなかには佳句もたくさんある。しかしそのほとんどが瓦礫である。大震災や被災者を目にして、悲しく、苦しく、心痛むのは当然。その地に住んだことも行ったこともない人が震災前の陸前高田の松原を懐かしがっても、まるで実感が伝わらず、読み手は興醒め。兼題を消化するためだけの震災句もかなりの量あった。こうなると心痛めているのかさえ定かではなくなってしまう。こういった句が巷に溢れた。まるでブームかのように。ブームは単なるブームであり、真実の心痛を伝えるものではない。しかし震災は俳句のうえでまるでブームかのようになってしまった。これは選者にとって苦痛以外の何ものでもない。それは、大量の瓦礫を見なければならないという苦痛と、東日本大震災が俳句の世界のなかでこのような扱いを受けてしまっている現状への苦痛の両者である。この震災句の現状を踏まえたうえでの天気氏のコメントであろう。私自身、かなり辟易していたので、大いに賛同するところである。作るのは勝手に作ればいい。しかし投句するならばもっと冷静な判断で厳選してほしい。さきほどテレビで津波の映像を見たそのままの気分に流されて、投句してほしくはない。ただし天気氏も言葉足らずだったのではないだろうか。捉えようによっては作句の次元にまで踏み込んできたかのように捉われかねないコメントである。月5万アクセス以上にのぼる「週刊俳句」の管理者としては、インターネット上とはいえ、不用意な発言かと思われる。

震災句の問題は例えば「千の風にのって」が流行した際に、「千の風」という上五、下五が巷に氾濫し、今では誰も使わなくなったというような俳句の時事性と関連してくる。多くの命を奪った大震災と流行歌を同列に扱っている訳ではなく、あくまでも「時事性」ということである。時事性は俳句ではなく、川柳のものと辞書ではなっているが、戦災句など時事性のある句は多い。俳句と川柳の違いという非常に曖昧な境界線を考えるうえで、震災句の問題は一つの契機となる可能性があった。しかし両者の立ち位置の違いから、発展せずに終わった。誠に残念である。最後に記しておきたいことは私が書いたことは立ち位置以外はすでに多くの方々がいろいろなところで書いてらっしゃるようなありふれたことである。今回、話を蒸し返したのは、最初のアプローチはどうあれ、問題の核心にいたるためにはどのように論を立ち上げるべきか考える機会となったためである。

2-2.「フェイク俳句」について

「フェイク俳句」の名付け親は上田信治氏である。(詳細は「週刊俳句」第205号(3月27日)拙稿「前略 上田信治様」及び同第206号(4月3日)上田信治氏「拝復 澤田和弥様」を御参照願いたい)俳句ではなく、フェイク俳句という領域を設けることは、俳句において「真」とは何か、俳句は何を詠むべきか、俳句における写生とは何か、つまるところ俳句とは何ぞやという根元的命題にアプローチできる可能性を秘めつつ、結局は信治氏と私の交換日記で終わってしまった。これは天気氏と私の拙句をセットにして「フェイク俳句」としてしまったことに一因があるように思う。自省の意味も込めて、このことに触れさせていただきたい。まずは区分させていただこう。

①天気氏の「フェイク俳句」
天気氏の実人生では現実には起こっていない(と思われる)内容の俳句。俳句=ノンフィクションに対するフィクションの俳句。

②澤田の「フェイク俳句」
単に17音に季語が入っているだけ。俳句作家や俳句愛好者の皆様が共有なさっている「俳句」へのフェイク。ファインアートに対する戯画やポップアートのようなもの。俳句のフィクション。

フィクションを詠んだ俳句と俳句自体のフィクションとでは全く異なる。それをまとめて「フェイク俳句」と呼んでしまったことに、この論の弱さがあると思う。一番の原因は私の反応が遅かったことと、私なんぞが関わっているからということは重々に承知している。この2つを区分したうえで論を展開できればと思い、ここでは区分の指摘のみとさせていただきたい。

と言いながら、あともう1点。「フェイク俳句」論には致命的な欠点がある。それはまず作者ありきの論ということである。俳句は「座の文学」らしい。これは誰もが認めているようである。それならば句座こそ最も尊重されるべき表現の場である。そこではまず匿名で出された句を参加者それぞれが選び、選句後に初めて作者名が明かされる。つまり句があって、次に作者である。しかし「フェイク俳句」論は、「作者が目くばせ」という言葉に代表されるように、それとは逆の論法をとってしまった。好きな俳人は当然いる。私にもいる。私を好きな人はいない。遺憾である。「あの俳人の句だからよい」ではなく、「この句がよい」でなければならないのではないだろうか。その点で山口優夢氏の『新撰21』鑑賞方法はきわめてユニークなものであった。「座の文学」とは何か、無学な私には詳細はわからないが、少なくともそういうことではないだろうか。我々は俳人である前に、俳句至上主義者であるべきではないだろうか。いかがですか、「座の文学」の皆様?


3.むすびにブラック

俳句は評論の時代に入ったと言われているが、それは本当だろうか。私にはどうも胡散臭い。「胡散臭い」「胡散臭い」と思っているうちに空っぽになってきた頭でこの駄文を書いてみた。喧嘩には喧嘩の売り方がある。感情的な発言や本論を外れたコメントは絶対に禁物である。論争には論争の作法がある。誰かが総括しなければ、アウフヘーベンは生じない。出された意見を放置することの危険性は、日本史に興味をお持ちの方ならば梅原猛氏の『隠された十字架』の件を御存知だろう。今でも法隆寺は聖徳太子の怨念を封じるために藤原氏が建立した寺院だと本気で信じている人がいる。

もしも俳句が評論の時代に入っているならば、「週刊俳句」の現状はどうなのだろうか。大体、もうとっくの昔に評論の時代に入っているだろう。優秀な俳句評論は充分に残されているし、有意義な論争もあった。それらを差し置いて「評論の時代に入った」という根拠が私にはさっぱりわからない。

作法も覚悟もない「評論」という名の発言に読む価値はあるのか。

だからこそ評価・評論は胡散臭い。しかし、その胡散臭さが芸術の美をさらに高めていることも、また確かなことである。

「ブラック」と言いながら、全くブラック・ユーモアになっていない点は私の筆力不足である。謹んでお詫び申し上げたい。




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