2011-08-14

〔10句競作を読む〕福田若之

〔10句競作を読む〕
あくまでも、個人的な、好みのはなし  福田若之


あくまでも、個人的な、好みのはなしとして、御中虫さんの「おのまとぺ」が、とってもいい。すごい。楽しい。――こんな風に書くと、「月並みな褒め言葉だね」と言われるかもしれないけれど、それでも、楽しいってのは、やっぱりとても大事なことだと思う。もちろんそれぞれの作品にはそれぞれの作品のよさがあって、それは文学的な「高さ」だったり、素材の新しさだったり、伝統的な形式を扱う巧みさだったり、まあ、いろいろあるのは認めるけど、この「おのまとぺ」みたいに、読んでいて、激烈に、これ楽しいっ! と思えた10句連作っいうのは、これまで、なかなかなかった。

  とこぱったむ。とこぱったむ。とことつん雨。 御中虫

  いやあんやんまあええやん猫発情す
ウラハイで行われた審査選考ライブにおいて、whこと西原天気さんが、「破天荒のようでいて、読者サービスのある10句と思いました。俳句を読むときはあまり使わない言語中枢を刺激するというか。」と述べているのが、とても的確な指摘だと思う。とくに「読者サービス」ってことに関して、たとえば上の二句なんか、たぶんしようと思えばもっとぶっ飛んだ作品にすることは可能なのだろうけれど、それはたぶん、作者のしたいこととは違うのだろう。むしろ、「雨。」や「猫発情す」みたいに、最後にわりと納得のいく物を見せてくれるから、余計なこと抜きに、音を、音として純粋に楽しめるようになっているのだと感じる。「猫発情す」の句は特にそうで、もし、これ最後が、たとえば――例はわりと何でもいいのだけど――「伊勢海老の髭」とか「大量の達磨」とか、とにかく訳のわからないところに落ちたとしたら、読者は内容の補完のために「いやあんやんまあええやん」を意味のある言葉として捉える必要が出てきてしまうだろう。「猫発情す」だからこそ、「いやあんやんまあええやん」は最終的に音へ還っていく。

以前に、NHKで放送していた「爆笑問題のニッポンの教養」という対談形式のバラエティー番組の中で、ゲスト出演していた漫画家の浦沢直樹さんが、世間の人の多くは常軌を逸したものを面白いとは感じないけれど、でもコースアウトぎりぎりのハンドル捌きは見たいと思っている、という趣旨のことを言っていたのを思い出した。「おのまとぺ」に納められた十句の楽しさは、ひとつにはそうしたことにあると感じる。急カーブに対しても、まるで怖れを知らないような加速をしておきながら、それでもコースアウト寸前で鮮やかにドリフトを決めてくるのが、この十句だ。

  るららるらてぃららてぃらてぃら新品のすかあと  同

えっ、訳わかんなくなって無い! という驚き。絶対これ落としどころないでしょ、と思ったところに意外な落としどころが示されて、あれほど危うく見えていたはずの言葉の軌跡が美しくまとまってしまうことへの、驚きがある。ただ、この句については、そのまとまり方をうまく説明する言葉がない。だから、思わず口ずさむ。「るららるらてぃららてぃらてぃら……」舌がはたはたと風にひらめくように動く、そこに「新品」の半濁音がピチカートのように弾けて、「すかあと」でふんわりと余韻を残す。

  ちちちちちちちちちちちちちちち膣  同

「おのまとぺ」には、いわゆる「芸術」の目指すような、いわゆる「崇高さ」なんてものは、たぶん、ない。仮に読み手がそうしたものをこの作品に見出すとしても、構わないのだろうが、この作品の楽しみは、むしろその前のところにあるのだと思う。肝心なのは記号的な表面が一人歩きをしている足どりの面白さであって、意味だとか内容だとかは、もしあるにしても周辺的なものにすぎない。たとえば、「ち」が「血」を連想させる、とかいうことは、この「ち」の行列の前にあっては、二の次の話だろう。十五文字の「ち」の連続が「膣」の一文字によって収束するさまを、あるいは十六音の「チ」の連続が「ツ」の一音によって収束するさまを、童心に帰るつもりで、無邪気に楽しみたい。

  郵便受けがすたんきゅうぶりっくと軋んだ

「すたんきゅうぶりっくと軋んだ」のであって、まかり間違っても「すたんりぃきゅうぶりっく」とは軋んでいない。でも、スタンリーさんのことを愛称としてスタンさんと呼ぶことは一般的なことのようだし――実際、スタンリー・キューブリックについても、google検索すると、スタン・キューブリックという名で親しんでいる人もけっこういるらしいことが分かる――、この句を読むときに、キューブリックの名前や、場合によっては彼の監督した映画の一場面とかが頭をよぎるのは、まあ、知っている人なら自然な反応のはずだ。

で、大事なことは、たぶん、「すたんりぃきゅうぶりっく」と軋んだことにしてしまうと、それだけの句になってしまうということ。「すたんきゅうぶりっくと軋んだ」と、あくまでも郵便受けが軋むときのありのままの音により近いかたちで描くことで、郵便受けの軋んだ音から何故かスタンリー・キューブリックを連想してしまうという認知科学的な不思議体験を、読者も追体験する仕掛けになっている。そして、僕は、その追体験をたまらなく楽しいと感じた。

 *

ところで、聞くところによると、この作品の是非については、なにやらいろいろ揉めているらしいので、この10句を、なんで楽しいと感じたのか、その一方で、楽しくないと感じる人が少なからずいるのはなんでなのか、ちょっと考えてみた。ここから先は、結論ではなくて、あくまで仮説として。

これって、もしかすると、最初に「俳句っておもしろい」と感じたときの、その感じ方が人それぞれに違っているっていうことが大きく影響しているんじゃないだろうか。僕がはじめて俳句に出会った頃、中学校の国語の教材を眺めながら、たとえば

柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規
水すまし水に跳ねて水鉄のごとし 村上鬼城
いなびかり北よりすれば北を見る 橋本多佳子
滝落ちて群青世界とどろけり 水原秋桜子

といったような句を、おもしろいと思ったとき、それは意味ではなくて、音の面白さや、字面の面白さからだった。意味という観点からすれば、ある句は中学時代の僕の理解を超えていた――「水すまし」がアメンボを意味することがあるなんて、当時は想像もしなかった――し、ある句は平明すぎるためにそこに意味を見出せなかった――橋本多佳子のいなびかりの句なんかは、まさしく書いてあることがすべての句だ――のを覚えている。

なんだかよくわかんないけど「群青世界」って文字の並びはアクション漫画のヒーローが使う必殺技の名前みたいでカッコいい、とか、当時は頭韻とかリフレインとかって言葉は知らなかったけれど、読んだときに歯切れのよさが小気味いいな、とか。それが僕にとって最初の、俳句の楽しみだった。

「おのまとぺ」の十句は、僕にそのころの俳句の楽しみ方を思い出させてくれた。

それだけに、もし僕があのころ俳句と出会うことなく、もっとずっと年をくって、ひとしきり古文法を齧ったりしてから、たとえば意味の深さなんかに惹かれて俳句を楽しみはじめることになっていたとしたら、そのとき僕が「おのまとぺ」みたいな句を見て、すぐに楽しいと感じたかどうかは、正直わからない。だから、その点、「おのまとぺ」を楽しくないと感じる人がいるのは、当然のことだとも思う。

そして、そういう人たちにこの作品を楽しいものとして捉えなおさせる力なんてものは、もちろん批評にはない。作品の是非を巡る論争は、はじまれば終わることがないし、もしそれで説得するなんてことができるとしたら、それは何かが違っている。好みというのは、論理じゃなくて感覚の問題だからだ。茄子が嫌いな人に、茄子のおいしさを語ったからといって、茄子がおいしく食べられるようになるわけじゃない。ただ、せめて、茄子をおいしがって食べる人が、どういう食べ方をしているのかってことくらいは、知っておいてもらえたら嬉しいなと思う。それは逆に、たとえば、僕は生クリームが苦手だ、ということ以上に、どうして僕は生クリームが苦手なのか、ということを、いっしょに物を食べるような近しい人たちや、あるいは生クリームを作る人たちに、共感してはもらえないとしても、せめて知っておいてもらえたら嬉しいと感じるのと同じように、純粋にそう思う。そして批評は、そうしたことを伝えるための行為なのだと思う。

そういう認識に立ってみると、あらためて、作品について批評で書けることはこれくらい。あくまでも、個人的な、好みのはなし。


週刊俳句「10句競作」第1回
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