2011-08-14

八田木枯 戦中戦後私史 第5回 兵役不適格、依テ即日帰郷を許ス

八田木枯 戦中戦後私史
第5回 兵役不適格、依テ即日帰郷を許ス

聞き手・藺草慶子 構成・菅野匡夫

承前:第4回 「みちのく」風生選巻頭を飾る

『晩紅』第19号(2004年7月31日)より転載

陸軍の身分証明書

木枯 戦前、普通の人は身分を証明するものを持っていませんでした。健康保険証もないし、運転免許だってそんなに普及していません。でも、私は、陸軍省に勤めていたとき、身分証明書を持っていました。

――少年でももらえたのですか。

木枯 ええ。しかも、憲兵の身分証明書と同じに、赤線の入ったりっぱな証明書です。陸軍省の仕事は嫌で嫌でたまらなかったんですが、これだけはずいぶん役に立ちました。ムーランルージュのレビューを見ての帰りに夜道を歩いていると、かなら警官に呼び止められるんです。あの時代は、不審者に対する警戒がきつかった上に、こちらはまだ少年でしたから。

――まさに、不良少年ですもの(笑)。

木枯 いきなり「おい、君!」とか、恫喝されるんですが、身分証明書を見せると、年輩の警官が急に態度をあらためて、「あ、たいへん失礼しました」と通してくれます。

――ずいぶんいい物を持っていたのですね。

木枯 ええ。軍の証明では、警官もうかつに手が出せないですから。考えてみれば、かなり恐ろしいことです。もっとも、まだ少年でしたから、ただ、得意になっていただけでしたが…。

身分証明書ほどではないですが、学生証の恩恵にあずかったことがあります・夏休みに、従兄弟の早稲田大学生から学帽、学生服、学生証を借りて、旅行したんです。「てんぷら学生」、分かりますか。

――いいえ。

木枯 にせ学生です。学生になりすまして割引運賃で、新宮(和歌山県)まで旅行しました。東京から大阪まで行き、大阪の天王寺から紀勢西線で、ことこと、ことこと行って、終点が新宮です。

――どうして新宮だったのですか。

木枯 家業の材木のことを知りたかったのと、あそこは佐藤春夫の出身地ですから、どんなところで生まれたのか、それを見たかったんです。

ところが、着いて改札口を出たとたん、目の前に早稲田の角帽をかぶった学生がいたので、吃驚しました。当時の新宮は、陸の孤島と言われるほど辺鄙な町なのに、よりによって早稲田の学生と、いきなり出くわしたんですから。もっとも、むこうも「てんぷら」だったかもしれませんが…(笑)。

新宮は鉄道最果ての地だから当然なのですが、えんえんと続いてきた鉄路が終わりになります。あの風景というのは、じつにふしぎで気味の悪いものです。生まれて以来、はるか彼方から来て、はるか彼方へ去っていく鉄路しか見ていませんから。戦後になって、渡辺白泉が作った「終点の線路がふつとないところ」という句を読んで、うまいなあ、と感心したのを覚えています。

――白泉はすごいですね。

木枯 三橋敏雄さんも西東三鬼の弟子だけれども、本当に影響を受けたのは、白泉だと言ってました。

新宮で、まず印象的だったのは、海の違いです。私が生まれ育った伊勢湾の海とは、まったく違って、これは太平洋だな、なるほど地球は丸いな、と強く実感しましたね。新宮へ行ったことはありますか。

――ええ、夕日が沈む風景を見たことがあります。

木枯 もう一つ、印象的だったのは、風土が明るいことですね。なるほど、佐藤春夫が生まれ育ったところにふさわしいな、とそう思いました。しかし、いまになってみると、一方で、中上健二のような野太い作家も生んでいるんですね。とにかく同じ紀伊半島といっても、伊勢と新宮ではまったく風土が違います。距離から言ったら、そんなに離れていないのですが、やはり黒潮の影響が大きいでしょう。

――熊野は、神の崇高さと土俗性の濃さを合わせ持っていて、私には、すこし怖いところに思えました。

木枯 たしかにその通りで、それは、よく分かります。しかし、また佐藤春夫という詩人が、紀伊半島の尖端で生まれたということも、納得できるものがあるんです。なるほど、あの詩は、こうした風土が育んだんだなあ、と思えるところが、たしかにあります。


宇陀の句を百句作る

木枯 前回の「みちのく」より前、昭和十七年、十七歳のときにこんな句を出して、はじめて「ホトトギス」に入選しました。

  奥宇陀の旅籠長者や初桜
まあ、少年が作るような句ではありませんね。じつは、この頃、鰤だとか、宇陀だとか、主題を決めて百句作るということをやっていました。連作とは違うのですが、とにかく一つの題に頭を集中して、数多く作るんです。

――子規が、一つの兼題で、みんなが集まって十句ずつ作るといったことをしていますが、ホトトギスの流れの作り方なのでしょうか。

木枯 おそらく、そうでしょう。一つの俳句鍛錬法ですね。先の入選句は、「宇陀百句」(後掲参照)として作った中の一句ですが、なぜ、宇陀(奈良県)という地名で作ったのかということを、お話ししましょう。

昭和十年頃のことですが、三重県の田端緑樹という人が、いきなり、「ホトトギス」の巻頭を取ったのです。一句入選するだけでもたいへんだったのですから、地元では大騒ぎでした。虚子は、いい句だったら、作者が無名でも巻頭に持ってくるんですね。

  榾負うて宇陀の長者と誰か知る

五句を投句して、四句が取られて巻頭になったんですが、なかでもこの句が有名でした。地元では、お祝いで三日三晩大騒ぎだったというんです。

――三日三晩もですか。

木枯 本当の話です。なにしろ「ホトトギス」に一句入選したら赤飯を炊くという時代の巻頭ですから。じつは事前に長谷川素逝さんに見てもらったところ、「五句ともよくできているから、二つは入るだろう」と言われたそうですが、その素逝さんを追い越して巻頭を取ってしまったんです。それ以来、伊勢一帯では、「とにかく宇陀の句を作れ」「宇陀の句を作ったら、通るぞ(入選のこと)」ということで、私も宇陀の句を作ったんです。

――季語でなくて、地名で作るというところが、おもしろいですね。宇陀に行って、お作りになったのですか。

木枯 実際に行ったのは、ずっと後になってからですね。「炭馬が通りて宇陀の秋まつり」なんかも、見たことはないけれど、たぶんこうだろうと想像して…。こういう作り方は、若いときから得意でしたから(笑)。

  誘蛾燈宇陀の百戸はねしずまり

この句は、虚子先生から誉められました。

――いい句ですね。ほかに虚子に取られた句はどれですか。

木枯 ここに出した句は、みんなそうです。

――投句は何句だったのですか。

木枯 私が投句する頃は、たしか三句だったかな。

――それで一句取られたら、すごいですね。

木枯 なかなか入らないんです。

――それでも、せっせと宇陀の句を出していたのですね。

木枯 ええ。とにかく春夏秋冬、宇陀の句をたくさん作りました。私だけでなく、三重県の連中は、みんな宇陀の句を競って作りましたから、だれでも一句ぐらいは、宇陀の句が入選しているんじゃないですか。

  たもとほる宇陀の血ノ原曼珠沙華

これは、三重県で出ていた「桐の葉」(ホトトギスの傍系誌)の巻頭を取って、みんなに誉められた句です。

――宇陀に、血ノ原という地名があったのですね。

木枯 なにかで調べて、知っていたんでしょうね。それで、いいなと思って句にしたんです。

――行ったことのない土地なのに、特異な地名と、言葉を手がかりに、景を作り上げてしまう、そういうことに、十代の頃から長けていらしたのですね。

木枯 誓子先生は、樺太の句を作っていますが、樺太にいたのは小学校・中学生の一時期だけでした。だから、その場で作ったものではないんです。

――でも、行ったこともない土地の句を作るのとは、違いますでしょう。

  みちのくの淋代の浜若布寄す

という山口青邨先生の代表句を思い出しました。実際の淋代の浜には若布は寄せない、と言われていますが。

木枯 この句は「ホトトギス」の巻頭句だったと思いますが、淋代という地名がいいですよね。ただ、若布がまったく取れない浜というのでは、ちょっとまずいなと思いますが。

――宇陀の句は、一見、写生句、吟行句のようなのに、実際にはまったく違う。このあたりが、木枯先生の原点なのですね。言葉を手がかりに景を作り上げる方法は、どこか「物と物とを関係のおいて捉え、直感的に統一表現する」という山口誓子の構成俳句に通じるところがあるようです。まだ誓子先生に習っていないころですよね。

木枯 ええ、誓子先生にお目にかかったのは、戦後ですから。

――でも、誓子先生とは、どこか通じるものがあったのかもしれませんね。「血ノ原」「曼珠沙華」という非常に強烈な物が、宇陀という地名に配され、意図的にぶつけられています。これは構成俳句と言えるのじゃないでしょうか。


京都の一燈園に住み込む

木枯 ムーランルージュを見たり、陸軍省に勤めたり、ホトトギス系の句会に出たりという東京生活は、じつは二年ほどでやめてしまった、その後、京都に行ったんです。京都へ行って、一燈園に入りました。

――急にどうしてですか。

木枯 私は、一カ所にじっとしていると、だんだん窮屈になってくる性分なんですね。それと、先祖が京都の出でしたので…。

――それにしても、どうして一燈園のような修行道場へ入ろうと思ったのですか。

木枯 父が一燈園の信者でしたので、子どもの頃、夏になると、父に連れられて、毎年のように行っていたことは、前にもお話ししましたが、それでよく知っていたのと、なにか魅力を感じて、住んでみたいと考えたんですね。

――どんな生活だったのですか。

木枯 毎朝、早起きして、きちっと正座して瞑想をしたり…。六万行願と称して、雑巾とバケツをもって、近隣の家の便所を掃除して回るんです。掃除が終わると、お礼を行って帰ってくるという奉仕の生活ですね。

――そんな生活に入るというのは、身近な人の死とか、失恋とか、大きな動機があると思うのですが…。

木枯 別にそう言うことでもなかったんですが、やはり父の影響が大きいかったのかもしれませんね。

余談ですが、一燈園というと、尾崎放哉も入っていました。私の行く五年ほど前のことです。もし、放哉が一緒だったら、放哉についてあちこち放浪していたかもしれませんね(笑)。

――木枯少年だったら、ついて行ったでしょうね。

木枯 しばらくして、津へ戻ってくるのですが、家業の材木屋も、戦争で材木が統制になり、なかなかむずかしくなっていました。中学を出て家業を継いだ兄も召集を受けて、兵隊に取られたりしましてね。

私の方は、肺浸潤や十二指腸潰瘍を患ったりして虚弱ということになっていて、実際に兵隊検査でも「乙の第三」という判定でしたから、召集はないだろう、と思っていました。健康優良の甲に第一、第二があり、丙は、いまで言えば、身体に障害のあるような人たちで、私は、それよりちょっと上、というわけです。もっとも、徴用を受けて、強制的に工場勤めをさせられ、飛行機の部品などを作っていました。ちょうど、「みちのく」へ投句している頃ですね。

ところが、昭和二十年の二月に、なんと私にも召集令状が来ました。自分が兵隊に取られるなんで思ってもいなかったので、まさに青天の霹靂でした。


即日帰郷で命を拾う

――軍隊に入ることになったのですか。

木枯 浜松の航空隊に呼び出されました。もう浜松は空襲を受けて焼け野が原でしたね。そのとき集まったのは約三千人、京都、同志社、立命館などの学生がおおぜい交じっていました。

じつは、その三千人のうち、十名だけが兵役に不適格ということで、即日帰郷を許されたんです。その十人の中に私も入っていたんです。

――ええ、どうしてですか。

木枯 身体検査の時に、肺浸潤だと話したら、軍医さんは胸のレントゲン写真を見て「この程度なら大丈夫」と言うんです。弱ったな、と思いながら、十二指腸潰瘍も患ってると言ったところ、こちらの方は検査のしようがなくて分からないんです。「どういう症状か」と聞かれたので、「空腹の時に、じわーと痛いし、胃の幽門のあたりが朝晩ひどく痛む」と答えたのです…。

――それだけですか。

木枯 じつはもう一つ。浜松航空隊の広い敷地に、県別に分かれて、全員整列させられたときに、私は白いマスクをしていました。すると、係の兵隊から「貴様、なんでマスクなんかしているんだ」と怒鳴りつけられたので、「これをしていないと息苦しい」と訴えたんです。整列のとき、マスクしている兵隊なんかいませんから、これが効いたのかもしれませんね。

――ふだんからマスクはしていたのですか。

木枯 ええ、いつも厚いマスクをしていました。それにしても、軍医さんが、私の言うことを信用して、兵役免除にしてくれたのは奇跡のようです。あのときの三千人は、あまり遠くの戦場には送られなかったそうですが、それでもだいぶ死んだそうですから。私は運よく、命を拾ったんです。

――健康状態はどうだったのですか。やはり、日常的に身体がきつかったのでしょうか。

木枯 健康は、別にどうということはなかったんですが…(笑)。そんなわけで、その日のうちに浜松から津へ戻りました。途中、米軍の空襲を受けたりして、ずいぶん時間がかかって、ようやく家へ帰ってきたのですが、さすがに玄関から入りにくくて…。

――前の晩はお赤飯で祝ったり、みんなから「バンザイ、バンザイ」で送り出されたんですか。

木枯 そうです。こうやって帰ってきてからは、ましてそうですが、じつは以前から私は俳句をやっていることなどだれにも言わず、毎晩、夜遅くまでこっそり俳句を作ったり、小説を読んだりしていました。ぼちぼちですが、新しい俳句も作り始めていたんです。

そのきっかけは、十九年十二月に起きた大地震です。名古屋の三菱重工の飛行機工場が全壊したり、津でも家がたくさん壊れたり、燃えたりして、たいへんが被害が出ました。このときに地震の俳句を作ろうとしたのですが、伝統的な俳句のやり方では、どうにもうまく行かないんです。そこで、はじめて新興俳句のような作り方を試みたんです。十五、六歳の頃、日野草城の「旗艦」を手に入れたことは、前にお話ししましたね。

――たしか、古本屋さんで買ったのでしたね。

木枯 ええ。その「旗艦」で草城や神生彩史(かみおさいし)を知って、それまで作ったり見たりしてきた俳句とまったく違う俳句に非常に惹かれました。それ以来、折にふれて読んでいたのですが、大地震に遭って、はじめて新興俳句のような方法で自分の気持ちが表現できることに気づいたのです。地震の句はずいぶんたくさん作りました。

この頃から「みちのく」のような俳句を作りながら、同時に、新しい俳句も作り始めていたのです。

(第6回に続く)

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