朗読イベント『言葉を信じる「夏」』の一日 関悦史
すでに旧聞に属するが、去る7月16日、『言葉を信じる「夏」』という朗読イベントに出演してきた。会場は駒場の日本近代文学館。
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震災直後の頃に第1回の『言葉を信じる「春」』というのをやったらしく、今回の「夏」が2回目となる。「秋」と「冬」も続けて開催の予定らしい。
今回の「夏」出演者は、稲葉真弓、伊武トーマ、坂上弘、関悦史、高野ムツオ、高橋睦郎、財部鳥子、天童大人、野谷文昭(五十音順)の9人。
私のところには最初、吉原という未知の人物からメールが来た。1回目の朗読会は詩人ばかりで行なわれたらしいのだが、その後、俳人や小説家も入れて続けなければということになって、高橋睦郎さんが高野ムツオさんと私を推薦したというらしい。
『言葉を信じる』というのもパセティックにも見えるタイトルで、趣旨も今ひとつよくわからなかったが、行って何か音読してくればいいのだろうと引き受けた。来た話はなるべく受けるようにしている。
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当日は叩きつけるような日差しの猛暑で。這う這うの体で文学館に到着。控え室で出演者寄書き色紙というものが出てきたので、下手な毛筆で署名した。
睦郎氏と雑談。睦郎氏、家に溜まった骨董を処分し始め、庭に泉を造ったという(骨董処分の件は「芸術新潮」2011年7月号に記事として載っている)。
朗読は休憩を挟んでの二部制で、その都度アミダ籤で順番を決め、出演者は順番どおりに隊列を整えてからしずしずと入場・着席となる。聴衆は30人くらいで、薄暗い中、壇上ではなく、お客と同じ平面でライトを浴びての朗読。
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私は「ガニメデ」52号に載せた震災詠50句を2度読んだのだが、いかにも真面目で厳粛な雰囲気の聴衆――例えていうなら、この国家的危機に際し、啓示にも近い何ごとかを求めて預言者の言葉を聴くが如き面持ちで、3,000円超の決して安くはない参加費を支払い、集まってきた人々がかもし出す詩的・文学的な言葉への期待――を前にし、そこで震災詠には違いないが、「Eカップ」だの「フィギュア」だのと、ふざけたものが出てくる拙作を朗読するというのが少々やりにくい。俳句関係のイベントとは雰囲気が違うのである。
さらに一般論としても俳句の朗読というもの、短いテクストの中に飛躍や断絶があり、前後の文脈から単語の類推がきかないので一語一語かなり明確に発音しなければならないし、朗詠や長嘯の音響的快感とも無縁、ほとんど何も伝わらないのではないかと思ったが(今回の出演者でいえば伊武トーマ氏の自由詩の、半ば効果音まで口で織り込んでしまったような、ラジオドラマ的な朗読の真似はちょっとしにくい)、しかし会場の小規模さのせいもあってか、読んでみれば意外と普通に通じた模様。ことに休憩後で雰囲気のほぐれた2回目は、聴衆の顔がみなこちらを向いていて会場が白っぽく、反応が良かった。
季語や個人的な被災状況など、解説が必要と思われる箇所は、1回目のみコメントを入れた。
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高野ムツオさんは逆に句数をぐっと絞って、1回につき10句ほど。状況解説のほうを丁寧に入れ、じっくり聴かせていた。
高野ムツオさんは病気により声帯を損じたのだという。最初はしわがれてしまった自分の声が嫌だったのが、あるとき小澤實さんから《みぞるるやムツオは陸奥の神のこゑ》という挨拶句を受け、声の変化を受け入れることができるようになったとのこと。言われてみると「陸奥の神」というものが声を出すとしたら朗々たるベルカント唱法のようなものにはなりそうにないと思え、高野ムツオさんの声が何かありがたいものに思われてくる。この話をされたときの高野さんは本当に嬉しそうだった。
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私も自分が読む際には、新劇やNHKのアナウンサーのような発声・抑揚にならないよう注意はしていた。
以前、ラジオの文化講座で、朗読といえばその名を落とすわけにはいかない吉増剛造の連続講演を聴き、そうした標準的で含みのない発声のつまらなさと、逆に西脇順三郎や与謝野晶子やW・B・イエイツが、自作をぶっきらぼうなような地声で読んだときの(これは番組中その録音が流された)声の粒立ちの豊かさには一応触れていたからである。
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当日、震災後の日々に対して発せられた言葉で印象に残ったのは、戦後、大陸からの引揚経験を持つ財部鳥子さんの、外に出ても殺されるわけではないという痛烈な一言。
また坂上弘氏による短篇小説「コネティカットの女」(『田園風景』所収)の訥々とした朗読は、詩の中に混じると最長となったが、これも、ことに後半、細かいくすぐりなどにまで皆よく聞き入っていた。
これは電車で見かけた外人女性の世話を焼き、自分でもお節介かと思いつつ気をもんで結局無事目的地に着いたかどうかはわからないままに終わってしまうという話で、震災とは無関係の作品であるにも関わらず、全篇聴き終わると、普通でない事態における人との関わりという点、どこか反映しあうところがあるようにも感じられたのである。
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アミダ籤の結果、大トリは高橋睦郎さんという誂えたような順番となり(1回目もそうなったらしい)、「市場(いちば)の精霊よ、護りたまえ」とのリフレインを含む詩の、圧巻ともいうべき朗読で終了。
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終演後、普段俳句・短歌は読まないという坂上氏が、拙作のコピーを取らせてほしいと仰るので、朗読したプリントをそのまま進呈してきた。
高橋睦郎さんからは、私と高野ムツオさんに、どうしても読むときに全部五・七・五で切れてしまい、単調になるから切りどころを工夫してほしいとの難しい課題。
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最初に連絡をくれた吉原氏が文学館の職員だとは、当日会って初めて知った。若い男性で、こういう企画に携わるというのは職員のなかでもやや異色の人の模様。当日の司会ぶりも、詩人を登場させるときですら紹介アナウンスは一切せず、自分で名乗るに任せる等、自己呈示の仕方まで含めて極力出演者の言葉のみでイベントを成立させ、形骸化させないよう心を砕いていたようだ。
飲み会への移動の道々、野谷文昭氏とお話しした。野谷氏は自身の訳したオクタビオ・パス『鷲か?太陽か?』の一節を朗読していたが、パスといえば翻訳からでも想像がつく滔々たる奔流のような文体の持ち主であって、原文もさぞ朗読に向いているのではないかと伺ってみたら、やはりスペイン語で読むプランもあったらしい。ひょっとしたら次回以降に実現されるかもしれない。
他にラテンアメリカ文学の復刊状況についてなどもお聞きしたのだが、この辺の話は省略。
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2011-08-14
朗読イベント『言葉を信じる「夏」』の一日 関悦史
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