2011-08-21

句集を読む 佐山哲郎『娑婆娑婆』を読む 真剣なる遊び 澤田和弥

〔句集を読む〕真剣なる遊び
佐山哲郎『娑婆娑婆』を読む

澤田和弥


寺山修司は遊びをもう一つの人生だと言う。人生で負けられないことも、遊びでは負けることができる。逆を言えば、人生で勝てないことも、遊びでならば勝つことができる。

人は誰でもふたつの人生をもつことができる
遊びがそのことを教えてくれる

寺山が愛した競馬は大体1~3分で勝負のつく、きわめて濃縮された人生である。

反対に天体観測は果てのない、宇宙という広大無辺の人生である。

では俳句は?と言えば、十七音の短詩形文学であるから、前者の濃縮された人生であろう。

しかしながら俳句は森羅万象全てを詠み込むことができるので、後者の果てのない広大無辺な人生とも言える。

いずれにしても、俳句は遊びというもう一つの人生である。だから俳句で手を抜く人を私は信用しない。もう一つの人生を真剣に生きることができない人間に、本筋の人生を真面目に生きられようか。答えは否、である。もう一つの人生をたとえ不器用であろうとも真剣に、全力に生きる人だからこそ、本筋の人生においても信用できるほどに一生懸命になれる。そういう人を私は愛し、信用する。

そういう意味で佐山哲郎氏は信用できる人である。

佐山氏の俳句は全力である。本歌取りや語呂合わせ、エロティシズム等、一見ことばと戯れているように見えるが、その実、全力で戯れている。必死である。子どもの悪ふざけではなく、超一流のプロレスである。魅せられる。惹きつけられる。ときに、笑わせてくれる。

だからこそ、有限である私の人生において、佐山氏の句集『娑婆娑婆』(西田書店)を拝読させていただく時間を持てたことに喜びを感じ、そのために私の時間を使えたことを嬉しく思う。

『娑婆娑婆』は四季それぞれと正月の5章から成り、跋文を小沢信男氏が書く。佐山氏の第三句集。表紙写真は鬼海弘雄氏、装丁を間村俊一氏、挿画を松山巖氏が担当するという豪華な一冊である。

風船が廊下の奥に立つてゐた
街に出て風船帰るところなし
散る桜黄泉冥ければ黄泉へ散る
頭の中が鍋焼饂飩になつてゐる


本歌取り、またはパロディと呼べばよいか。白泉、誓子、窓秋たちの、時代を越えるタフな句を佐山氏流にあしらった。

1句目の風船は21世紀になって次々に起きる想定外の天災人災への、もしくは過酷なストレス社会において生きる力を失っていく、茫洋とした不安を象徴しているかのように読める。それは戦中期に遂に生活の中にまで入り込んできた戦争と同じ恐ろしさで。

2句目の風船は現代人そのものの象徴と言えようか。

3句目は飛花というノンフィクションから、黄泉というフィクションへ軽やかに跳躍することばの力を感じる。

4句目は、考えすぎたのである。風邪をひいているのに。もう、頭の中がぐつぐつなのである。できれば煮えすぎて、ぐづぐづでもあってほしい。本歌(本句?)との関係性は句に大きな広がりを与えている。本歌取りの特性である。しかし和歌同様、本歌を越える力量が作者になければできない技であることを見落としてはならない。

北窓を塞ぐ骨董書画その他
北窓を塞ぐ薔薇族さぶその他
北窓を塞ぐ消火器・義母・その他


1句目はそういうもので塞いでいるのかと通り過ぎた。すぐ隣の2句目でコケた。吉本新喜劇ばりに大股を広げて、コケた。3句目にて

法医學・櫻・暗黒・父・自瀆  寺山修司

を思い出した。

佐山氏の句はこれらをもって塞いだという空間的関連性を見いだせる点が寺山句と異なるところだが、「義母」で塞いだとなると寺山ファンの私としては、寺山のコードで楽しませていただきたくなる。「北窓塞ぐ」は私にとって難しい季語の一つである。

どうにもこうにもつくることができない。それをこのように、3つもの顔で示されるとただただ感嘆の吐息を漏らしながら、コケてしまう。

吐息と言えば、佐山氏の句には吐息を感じる句が少なからず見られる。

ものの芽に駄目と言はれるまで触る
しばし手の甲の匂ひを嗅ぎつ春
逝く春を交尾の人と惜しみける
あ 橋の 風 夏 内耳 みづぐるま
転生しながらさながらないあがら
濡れ衣を脱ぐ間もあらず梅雨鯰
押し倒す花野や人工呼吸法
蘭を挿しすぎた花瓶のやうな歌手
問題は人格的な隙間風
口々に私が昭和枯れすすき


1句目は乳首乃至陰核である。桃色吐息。2句目は嗅いだ後の「ふぅ~」という安心感と満足感に充実した吐息である。3句目は

行く春を近江の人と惜しみける  芭蕉

のパロディであると小沢信男氏がすでに跋文にて指摘なさっているが、私としては「交尾の人」との桃色吐息をぜひとも楽しみたい。

4、5句目は全体を通じる、大いなる静かな吐息を感じる。6句目はまさに鯰の溜息である。7句目の「人工呼吸法」はゼッタイに方便である。押し倒したのである。花野に。もう。押し倒して、その、押し、えー、あー、花野、花、あの、あー、あ~~~~~~~っ!はぁ~~~、という吐息である。

8,9句目はもう、なんか残念なのだ。見ていて、とにかく、もう残念で、読み手としては大きな溜息を一つつかずにはいられない。10句目はそういうおじさん、おばさんで混み合う下町の居酒屋に満ち溢れる、溜息の集合体である。

他にもご紹介したい句がたくさんあるが、あとは実際に御手にとって楽しんでいただきたい。

俳句は遊びである。遊びだからこそ本気に、真剣にならなければならない。中途半端な遊びになんぞ、興味はない。遊びはもう一つの人生だからである。俳句を真剣に愛している人は、人生を真剣に生きている。覚悟がある。

あのねそこからは覚悟の青き踏む

その青き野に花が溢れる、次の句集を今から楽しみにしている。



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