〔週俳8月の俳句を読む〕
ただ、よぎる
西丘伊吹
あふれやまざる白桃をむさぼれる 奥坂まや
桃にまるごとかぶりつくとき、よく熟れてみずみずしいものであるほど、指からは雫が滴り、それを落とすまいとするように、食べる人はますます桃を「むさぼ」る恰好になる。「あふれやまざる」という句跨りが、つぎつぎに果汁を滴らせる桃と、それにすがるようにかぶりつき続ける人の連続的な所作をみごとに表している。桃源郷、という言葉が示す通り、どこか淡く美しい夢のような世界を象徴する桃が、一瞬の満ち足りた時間の描写を支えている。「る」のリフレインが美しい。
夕涼の祇園に小さき芸の神 前北かおる
舞妓さんと写真を撮れたり、自分も舞妓さんの恰好をさせてもらえたりと、様々なサービスの提供とともに京都祇園の観光地化は進んでいる。そんな祇園の街を散歩していると、小さな祠があって、ひっそりと芸の神様が祀られていた。そうか、と作者は思う。今も、若くして舞妓(芸妓)を志し、芸の門を叩く少女たちが居るのだ。時にはこの神様に祈りながら修行に励んでいるのだろうか、と考え、祇園の辿ってきた三百年の歴史に思いを馳せながら、また散歩を続ける。その背景に、京都の夏の、少し涼しい暮れ方の色合いがよく合っている。
星合や鏡の中を人よぎり 藺草慶子
少し淋しい句である。星合とは、七夕の夜に織女と牽牛が相会うことであるが、掲句ではそこに地上の「人」の姿が差し挟まれる。しかもそのひとは鏡の中にいて、じかに生身の姿を見せているわけではない。誰であるとも書かれないそのひとは、鏡の中という間接的な場所をただ「よぎ」るのみである。不意に、本当に織女と牽牛は会えたのだろうか、と思わせられる。地上のひとびとは、もしかしたらいつもこの句のように、お互いに鏡の中をただよぎり続けるだけで、永遠に誰とも交差しない生を生きているのかも知れない、と。
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第224号2011年8月7日
■湾 夕彦 蒟蒻笑ふ 10句 ≫読む
第225号 2011年8月14日
■陽 美保子 水差し 10句 ≫読む
第226号 2011年8月21日
■奥坂まや 一部分 10句 ≫読む
■前北かおる 蕨 餅 10句 ≫読む
第227号 2011年8月28日
■藺草慶子 秋意 10句 ≫読む
2011-09-11
〔週俳8月の俳句を読む〕西丘伊吹
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