〔週俳8月の俳句を読む〕
白光体となって
中村 遥
えぞにうや小屋を覗けば海ありぬ 陽美保子「水差し」
瀬戸内沿岸に住む私は、この句で初めて〈えぞにう〉という季語に出会った。聞いたことも勿論、見たことも無い〈えぞにう〉に何故こんなにも心曳きつけられてしまったのか不思議である。ただ、植物の季語であることは容易に想像できた。歳時記を開けば、東北、北海道の海岸や湿地に自生するセリ科の多年草で茎は2,3メートルにも成長し7,8月頃には上部に白色五弁の小花が傘のように群がり咲くという。〈えぞにう〉が白く咲き乱れる北地の浜辺。その陸の〈えぞにう〉の白と沖の波の白が繋がる。冬場は閉ざされた漁小屋や蜑の苫屋が夏になって、開け放たれている解放感も伝わって来る。そこから見える海の風景は私がいつも見ている穏やかに凪いだ瀬戸内の海とは全く違った海のことだろう。ダイナミックな海かも知れない。私の知っている海の色よりももっと深い碧のような気もする。そして、何故か何の根拠もなく、只、北の海と植物の取り合わせの重なりのみから、草田男の私の好きな句〈玫瑰や今も沖には未来あり〉が思い浮かぶのである。〈えぞにう〉を全く知らない私がこの句を見て一瞬に心魅かれたのは草田男の句に一因があったのだろうか。そして〈えぞにう〉の海と〈玫瑰〉の海が同じ海に思われるのである。そう、未来がある海と。
ひとつかみ草落ちてをり盆の路 陽美保子 「水差し」
ご承知の通り〈盆の路〉とは単に盆の期間の道ではない。盆に帰って来る祖霊を迎えるための路が盆路であり、草刈りをしたり清掃をしたりする。そこに一掴みの草が落ちていると言う。臨場感に溢れ非常にリアリティがあるが、想像の翼を広げて祖霊が掴んだその一掴みが落ちていると解してもおかしくはないだろう。そう、落ちている所が盆の路であるのだから。日常の何でも無い些細なことがこの句のようにひとつの季語によって情感溢れる見事な詩になる。恐るべし季語である。俳句は季語が命であると言えよう。
ぎらぎらと炎天がいま孵化しさう 奥坂まや「一部分」
孵化とは発生中の胚が卵黄または卵殻を破って外にでること、または卵が孵ること。燃えるばかりのぎらぎらした真夏の空が、まさに今、ばりばりと破れて何かが生まれ出て来そうだと言う。いったい何が生れ出ると言うのだろう。否、そんな事はどうでもいい。今、まさにこのぎらぎらとした炎天に感じるその思いだけで。この今まさに何かが孵化しそうな感覚だけで。とてつもない大きなものを相手に作者はいとも簡単に懐に抱いて、からりと独自な感覚で表現してしまっている。このダイナミックで鮮やかな比喩。私にもこんな感覚が欲しい。
蚰蜒の一部分なり落ちてゐる 奥坂まや 「一部分」
滑稽であり諧謔でありつつも哀愁が漂う。そして巧みな表現が光る。下五の〈ゐる〉の動詞の切れに加え、中七〈なり〉で強く断定し強く切っている。この中七の巧みな切れがこの句をワンランク上の句へと昇華させたように思う。〈一部分〉という措辞も光っている。
月光に蝕まれたるごとく座す 藺草慶子 「秋意」
無音の世界が広がる。月に対峙する一人の人間と月のみの世界。この〈蝕まれたるごとく〉のフレーズが私の心をぐっと掴んで放さない。「あっ、これかっ。」と思わず膝を打った。昨年、〈月光に染まる畳に座らむか〉という私の句に先生は「月光に染まるはやや古くさい感じで俗ですね。」とおっしゃった。〈染まる〉に比べ〈蝕まれる〉とはなんと鋭い感覚であろう。人の姿が月光を享けだんだんと銀色に染まっていく。そしてその光は人の姿を崩しつつ、ついにはひとつの白光体となって座しているのだ。妖しいまでの月見の情景である。
第224号2011年8月7日
2011-09-04
〔週俳8月の俳句を読む〕中村 遥
■湾 夕彦 蒟蒻笑ふ 10句 ≫読む
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿