〔週刊俳句時評48〕
だいこん・大丸・弾丸特急
あるいは石田波郷新人賞を触媒にして考えた、賞に関する少しのこと。
生駒大祐
●第3回石田波郷新人賞が決まった。
●新人賞は涼野海音さん、準賞は大塚凱さん、奨励賞は抜井諒一さん、小林鮎美さんがそれぞれ受賞とのこと。
●それぞれの作品から好きな句を引くと、
青梅の落ちたる草のそよぎをり
薔薇園の入り口濡れてゐたりけり
「晩夏」涼野海音
流星のだしぬけに風乱れけり
「はなびらのやうに」大塚凱
夏の月どろりと流れ出してゐる
人間のゐる明るさや山無月
「山無月」抜井諒一
私の余白に黴の生えにけり
餅焼いて関東平野は月の昼
生まれつき手持ちぶさたで深雪晴
「深雪晴」小林鮎美
●さて。以下思ったことを。
●この石田波郷新人賞の選考過程は冊子「石田波郷俳句大会第3回作品集」に収録されており、一次選考の点数から選考時の審査の言葉なども読むことができる。
●ちょっと驚いたというか、なるほどなと思ったのは、審査の甲斐由起子氏の以下の言葉であった。
これはという作品がなかったのは残念だった。全体的に、詩心が欠如し、頭の中の方程式にあてはめて作っているような句作がめだった。また、一編のまとまりはあっても無季の句が混ざったり、古語を用いながら、仮名遣いが現代假名遣いの句も散見した。波郷新人賞ということを考えると、有季定型で文語体を用い、格調高く詠む姿勢が望ましい
●至極まっとうだ、という意見が大多数を占めることでしょう。何も驚くところではない、と。
●僕はこの言葉を読んで「賞とは何のために存在するのだろうか」という疑問を抱いてしまったのでした。
● (新人賞の募集要項には「応募作品は未発表作品、内容は自由。20句一組(表題をつける)
応募作品は原稿用紙を使用。氏名・性別・生年月日・住所・電話番号・学生は学校名を明記してください。」とある。この「内容は自由」とはなんなのだろうか。)
● この概念を拡張してゆくと、波郷のコピーのような俳人が波郷新人賞を受賞することになる。まあ、それが目的なのだろう。2人目の波郷。刷新ではなく継続。それも考え方だ。
● もちろん、これはある俳人の名前を冠している賞であるから、特別な例かもしれない。しかし、「賞の後援の理想に合致する俳人を推そうというバイアス」。これはおそらくすべての賞に当てはまる。そうなのだ。
● 嘘でも良いので「新しさ」が基準だと言って欲しかったというのが、正直なところとして、ある。
● 僕が新人賞に求めていたのは、最も「これまでになかった新しい俳句」を作り出せる俳人を顕彰する装置だった。
● 「新しさ」とは判定するのが非常に難しく、しかし意義のある概念だと思う。
● 僕の考える「新しさ」とは「二歩先」を行っている作品を指す。その「二」の意味は、一歩先を行っている、新しいが既に評価を受けている俳人よりもさらに一歩を踏み出していることを指す。
● 結社の賞は結社の打ち出したいカラーに最も染まっている人に与えられる。それはそれで意義がある。師を慕う俳人と弟子を思う師。それはwin-winの関係であるから。
● 超結社の新人賞が存在する意味は、名目上であっても誰のカラーからも離れた俳人を選び出すことにあるのではないか。
● なぜなら、選者を複数、しかも違う結社から選び出して選の純度をある意味で"濁らせる"のは、それが理由であるとしか思えない。
● しかも、「二歩先」の新しさは、「一歩先」の俳人の「一歩先」の選のスペクトルの山の中心ではなく裾野に含まれる可能性が高い。複数のスペクトルの裾野が重なったということは、そこに「一歩先」ではない、しかし「一歩先以下」か「二歩以上先」かは分からない作品であるということになる。
● それを説明する図。
● 点1は、選者の選の中でもっとも「新しい」が、他の選者と重ならないゆえ賞を受賞し得ない。
● 点2は複数の選者と線が重なり、しかも選者のもつ新しさよりも新しい「二歩先」の作品=僕が求める作品。
● 点3は複数の選者と選が重なったものの、結果として選者よりも「古く」なってしまっている受賞作。
● すなわち、複数の「一歩先」の選者が選ぶ賞で、複数選者が選んだ作品が受賞するのは合理的だと言える。しかし、それが同時に「古い」作品を選ぶ可能性を同時に抱える機構であるのは理解すべきです。
● 翻って。
● 週刊俳句には「落選展」という企画がある。
● 落選展に関してはすでにいくつかの記事で意義が論じられているが(リンク1)(リンク2)、僕にとっての意義は、「好きな作者の作品を50句もまとめて読める」「僕の作品を読んで貰える」という素朴なものに尽きる。尽きてしまう。
● その理由はいくつかあって、たとえば「多くの読者の目に作品を触れさせ、多くの選を経ることで選のカラーを既存の俳句から離れた『新しい』ものにする」という意義は、僕の考える新しさとは合致しない。
● なぜなら、ランダムな選を新しさを軸にとったグラフにプロットしていくと、その中心が来る(最多意見になる)のは既存の俳句の世界の思う新しさ、つまり「〇歩先」の俳句に集まってしまう。
● また、「選者へのプレッシャーを与えて(こんな新しい作品が選から漏れているぞ)賞のクオリティーを上げる」というおそらく本来的であろう意義は、賞の選者側から「失礼」との言葉を以ってして拒否されている(リンク)。
● それを理解するためにちょっと賞というものについてさらに考えてみる。
● 先のリンクの信治さんの意見に、
たしかに「選」は、俳句コミュニティの紐帯の根本に関わるものです。選者を絶対視しないことには、成立しない貴重な関係がある。そのことにはまったく同意します。
しかし、それを公募賞の選考にまで拡張することは、妥当でしょうか。「選」が絶対であるのは、師弟関係においてであって、それを公募賞の選考委員と応募者に当てはめるのは、「選」という語の用法として、カテゴリーミスではないか。
逆に言えば、先生以外の選を受けるのがいやで、公募賞に応募しないという「覚悟」もありうるわけです。つまり、もともと、公募賞の選は、絶対視し得ないものではないでしょうか。
とある。それに対しては僕はおそらく似た意見を持っています。公募賞の選には、普通の結社の賞や選、ましてや句会の選とは全く違う「公益性」が求められる。
● その「公益性が求められる」という言説が正しいとすると、ここで3つの圧力が考えられます。ひとつは運営側の「こういう作品に賞を与えたい」という圧力、ふたつめは選者の「自分の新しいと思う作品に賞を上げたい」という圧力。最後は選者以外、すなわち大衆の「自分の思う『新しさ』こそ新しい」という圧力。
● これらのうち、公益性という意味では、実はいずれの圧力も純粋な公益性を満足していません。ひとつめは当然として、ひとりの選者の「新しさ」は「一歩先」の、つまり既存のものに過ぎず、大衆の「新しさ」は大衆のまま、つまり集合的意思のようなものにとどまるならば「〇歩先」のものにすぎない。選者の「新しさ」と大衆の「新しさ」の圧力は均衡関係にあって、選者が大衆の求める「新しさ」の中から本当に「新しい」ものを選び出してそれを自身の選に反映し、大衆は集合的な「新しさ」の無効性を意識して選者の選を受け入れると同時に本当の新しさを数の力で提示し、選者に圧力を加えることで均衡状態を保つ。
● その意味で、大衆からの圧力の表れである落選展の存在は本来選者にとっては「必要悪」のはずです。
● しかし、落選展は「失礼」らしい。
● その原因は、おそらく賞の「下読み」という制度にあります。下読みの存在は「運営側の圧力」にあたります。
● 下読みに落ちた作品を選者は知ることができません。よって下読みに漏れて落選展に出た作品に大衆が「新しい」と思う作品が出てくると、選者は困ります。選者のせいではないのに表に出てきている選者の咎のように見えるからです。
● つまり、本来的に落選展が機能するには、下読みを無くすか予選通過の選者の目に触れた作品をもっと落選展に載せられる状況が必要です。
● しかし、議論になって選者の選をある程度くぐった作品のいくつか(=図の点1~点3の作品)は角川俳句誌に掲載される、という現状があります。
● そういう意味で、落選展は選者への圧力の場としてはあまり意味を成していないということになります。
● よって僕にとっては、上記のような素朴な意義しか現状の落選展には見出せないのです。
● しかし。
● 上に「下読みをなくすか」ということを書きました。
● それは一見不可能なように思えます。それは賞の性質上、また、運営側の圧力が発揮できる場所として必要という理由で。
● しかし、もし落選展がもっと大きくなり、統計的に優位な数の落選作品を集められ、選者もそれを読み、批評するような状況が成立すれば。
● そうすると、受賞とは無関係に賞というものが「新しさ」を選び出す場として機能してゆくことになります。
● 落選展が本当に意味を持つのはもしかしたらそんな不思議な状況になってからなのかもしれません。
●
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