2009-04-12

落選展について 上田信治

RE:「週刊俳句」のココがダメだ
落選展について …上田信治



前号記事 榮猿丸「落選展の意図が分かりません」にお答えします。

ビジネス用語だと思うのですが「理論値から入る」という言い方があります。理論値は、実験値の対義語として使われる言葉で「ほんとうはこうなるはずの値」というくらいの意味でしょうか。

「理論値」から入れば、新人賞というものは、もっともっと素晴らしいものでありうる。そうあるべきだと、自分は考えます。

もっと、新しい俳句が見たい。それが生まれようとする熱と苦しみが見たい。そして、もっともっと、毎年「スタア誕生」が見たい。他ジャンルで、機能している新人賞というものは、当たり前に、そうなっているわけです。

ものごとが理論値通りになっていないなら、現実のほうにどこか間違いがある、というのが「理論値から入る」考え方で、自分に「新人賞」に対する不満があるとしたら、それに尽きます。必ずしも、毎回の選考に対する不満ではない。

多分、いちばんの不満は、なんで、もっと、みんな目の色変えて、応募しないんだよ、ってことかもしれない(まさかの、一般読者責め)。

「角川俳句賞は、若い頃いちど出したけど、予選も通らなかった」と、有名俳人(それも複数)から聞きました。たしかに公募の賞は、労力に比して返ってくるものが少ない、闇に小石を投げたるごとく、というようなものかもしれない。結社やグループで、発表の場や評価を得ている人には、いまさら必要のないものかもしれません。

しかし、そこで名前を上げること、運否天賦をふくめて選考の針穴を通ることだけが、参加の意義ではないはずで、たとえば、それは、結社やグループを超えて、やる気と膂力があり余っている作者が、競い合う遊び場でもありうる。

そのことを「落選展」は目に見える形にするだろうと、思っています。

今回読者に、さまざまな応募作品(猿丸さんの50句を含めて)と、自分のものを読み比べてもらえた、という思いは、自分の支えになっています。この気持ちは、「落選展」の参加者のみならず、「賞への応募者」全体、あるいは、「これから賞に応募するかもしれない読者」全体が、分け持てるはずのものです。

それは、自分が考える「機能する新人賞」に、現実を一歩近づけることになる、と考えています。

だいいち、出したもの、読ませたいじゃないですか!(あ、本音だ)

「ある近しい俳人は「選考委員は生半可ではない覚悟を持って作品を選考している。選考する側のことも考えてほしい」と否定的です。」(猿丸さん先号記事)

「選考結果に不服だ、他にいい作品あるだろう、よく見てみろ、という姿勢。そういう意図が明確であれば、読者としても読みやすいし、コメントもしやすい。しかし、選考結果に不服ありません、でも私達の作品をみてください、という姿勢で作品を提示されても、どう受けとっていいかとまどってしまいます。志が見えにくいというか、本来に投稿した元の賞に対して、選考委員(予選含む)に対してどのようなスタンスで投稿されているのかが見えにくい。」(当該記事コメント欄への猿丸さんの書き込み)


猿丸さんの記事には、コメント欄で、鮟鱇さんが、読者の立場から懇切に応答していただいて、たいへんありがたかったです。

そこでのやりとりもふくめて、猿丸さんの不満は(意訳させていただけば)「要は、角川と選考委員に喧嘩を売っているくせに、そのことを認めない態度がしゃっつらにくい」ということではないかと、思われました。

あるいは「それ、やっぱり失礼だろ」と。

上述の「近しい俳人」の方の発言の現場に、自分もいました。ていうか、叱られてたのは私だw。

あれは、「選」あるいは「選者」というものを大事なものと考える、という立場からの言葉だったと思います。たしかに「選」は、俳句コミュニティの紐帯の根本に関わるものです。選者を絶対視しないことには、成立しない貴重な関係がある。そのことにはまったく同意します。

しかし、それを公募賞の選考にまで拡張することは、妥当でしょうか。「選」が絶対であるのは、師弟関係においてであって、それを公募賞の選考委員と応募者に当てはめるのは、「選」という語の用法として、カテゴリーミスではないか。

逆に言えば、先生以外の選を受けるのがいやで、公募賞に応募しないという「覚悟」もありうるわけです。つまり、もともと、公募賞の選は、絶対視し得ないものではないでしょうか。

なんとか言葉を返そうとする自分に、その俳人は「選者の身にもなってくれよ」と言って、笑ってくれました。

公募賞を神聖視する必要はないが、選考委員を攻撃するようなことだけは(結果的にでも)してくれるなよ、ということだったと思います。

それは、確かに。自分にも、選考委員のどなたかに、あれは失礼だよ、と言われたら、飛んでいってあやまる用意はある。

でも「落選展」は、たぶんやめないです。いちおう、俳句のために、いいことをしているつもりなので。

えー。あまり自分の善意を疑ってないところを見せるのも、バカみたいなので、これくらいにしておきます。今後、落選展に100や200も、作品が集まるようになったら、ちょっと考えなきゃいけなくなるかも。

猿丸さん(と、鮟鱇さん)の問いかけに対する、お答えになっているでしょうか。


これまでの落選展 ≫こちら

2 コメント:

獅子鮟鱇 さんのコメント...

上田信治様

 獅子鮟鱇です。
 玉稿拝読いたしました。私なりに味読させていただきました。

>だいいち、出したもの、読ませたいじゃないですか!(あ、本音だ)

 落選展に投稿されたみなさんの志がよくわかる言葉だと思います。
 読ませたい、ということ、作る以上、いっとう大事にされるべきことだと思います。言うは易く、ですが・・・

>多分、いちばんの不満は、なんで、もっと、みんな目の色変えて、応募しないんだよ、ってことかもしれない(まさかの、一般読者責め)。

 俳壇では、読ませたい、がきっと、大事にされていませんね。俳句人口一千万人のうち、角川でさえ応募者が八百人、というのはいかにも少ない。

>「選」が絶対であるのは、師弟関係においてであって、それを公募賞の選考委員と応募者に当てはめるのは、「選」という語の用法として、カテゴリーミスではないか。

 師とは、選んでください、という関係がありますし、賞と公募者の間にもそれがあるとしなければなりませんが、賞の選者との間に、選んでください、が成立するのかどうか。師は一人、選考委員は複数、そこで、選んでください、を誰に向かっていえばよいのか。
 師は一人、選考委員は複数。しかも、選考委員のみなさんは、一人につき何十という句の全部を見て受賞を決めることになるのでしょう。そういう場では、減点法による選別が働いて、真に優れた一句を探すのではなく、誰からも欠点を指摘されない安定した作句能力を持つ作者が、選ばれることになると思います。選考委員の誰にも異論のない作者が数名残って、あとは多数決でしょうか。
 真に優れた一句、選考委員は各々数千の句を読むなかで、それを見つけている、と思います。しかし、それらを持ち寄って合議で受賞者を決める、となると、果たしてその真に優れた一句が、賞の決定に機能しているかどうか、はなはだ疑問です。

 そこで、「出したもの、読ませたい」には、受賞とは別の次元で、読者の味読願望に応えてくれていると思います。
 私は、一読者としてですが、落選展を私が読むのは間違いではない、と思います。そういう読みの場があることは、ありがたく、感謝しています。

さるまる さんのコメント...

信治さま
素晴らしく熱く真摯なご回答ありがとうございました。

>もっと、新しい俳句が見たい。それが生まれようとする熱と苦しみが見たい。そして、もっともっと、毎年「スタア誕生」が見たい。他ジャンルで、機能している新人賞というものは、当たり前に、そうなっているわけです。

落選展によって、新人賞を活性化させる、信治さんおっしゃるところの「機能する新人賞」に近づけるというお考え、納得です。

いちばん共感したのは、

>多分、いちばんの不満は、なんで、もっと、みんな目の色変えて、応募しないんだよ、ってことかもしれない(まさかの、一般読者責め)。

これに尽きるかもしれません。自戒もこめて。これがないと「機能する落選展」にならない気もしますし。それこそ角川に喧嘩売るとかしないかぎり。。。

あと、機能するためには、やっぱりフォローが大事だと思いました。週俳の「○月号の作品を読む」みたいなことが必要なのではないか。現状は、ひじょうにネットっぽい「表現の垂れ流し」状態になってしまっているというのが残念だと思います。

最後になりましたが、鮟鱇さんから、読者の立場からのコメントがいただけたのが本当にありがたかったです。感謝申し上げます。参加者の方々にも不快な思いをさせてしまったかもしれません。ごめんなさい。鮟鱇さんも述べられていましたが、参加者の方々の心意気には敬意を表します。そして、これも鮟鱇さんがおっしゃるとおり、落選展はまだ始まったばかり、今後どう展開するか、「機能」していくのか、たのしみにしております。

ちょっと優等生的発言になってしまいましたかね。では、最後の最後に、
ぼくが落選展に出すときは、「おれの作品の方が受賞作よりいいだろ」ってときです。