〔週刊俳句時評49〕
外気にさらされるということ
西丘伊吹
週刊俳句の時評を、と生駒君に言われてまず思ったのが、「情報」というものから自分はとても遠いな、ということだった。情報よりも物語が好きな体質なので、好きな物語ばかり取り込んでいるうち、情報には置いてきぼり、ということが多い。そんなことがあったの?ということは計り知れない。それで時評を書くとなると、恐らく話題的に時流に乗りきれず、時代も捉えられず・・・ということにはなるだろう、と予測した。しかし、せっかくのお誘いなので、期待に沿えないことは承知でお引き受けすることにした。身の回りに起きた小さなことを、小さくてもじっくり見つめてみることで、何かが生まれるかも知れないし、生まれないかも知れない。そんなスタンスで、時評ならざる時評をやらせて頂けたら、と思う。
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「ユリイカ」10月号(青土社)の特集「現代俳句の新しい波」は、いわゆる俳句世間において様々な反応を呼んだ。その中でも特に印象に残ったのは、「俳句の『中』と『外』」をめぐる問題だった。千野帽子氏が手紙形式の随筆「二〇分で誤解できる近代俳句。」の中で、自分は俳句(俳壇)の「外」にいる、ということを述べておられたのが発端であったが、そもそも俳句に「中」や「外」があるのか、ということはきちんと議論されるべきだろうと感じた。というのも、「中」や「外」が存在するという千野氏の仮定を踏まえて周囲の反応が突き進んだわけで、まず自分が「外」(「中」)であるということをもう少し広く納得できる形で定義してもらわないと、話は混線したままになるのではないか、と感じたのである。
自分としては、俳句(俳壇)の「内」と「外」を厳密に分けることはできないだろう、とずっと思ってきた。けれど最近、(「内」はわからないけれど)俳句の「外」はどうしようもなく存在するのではないか、と思い始めた。そのひとつのきっかけになったのが、昨日発売されたファッション誌「SPUR(シュプール)」12月号(集英社)の特集「ファッション歳時記・モードな私が、ここで一句!」である。
「SPUR」は海外ブランドファッションを主眼とした女性ファッション誌であり、直近の10月号では“ジョジョ”の荒木比呂彦氏が表紙画を手がけたことで話題をさらった。今回の12月号でも、アイドルのももいろクローバーZを起用した「至上最細カットでお届けする“ももクロZ”ダイエット!」なる特集を展開するなど、単なるファッション誌としての立場にとどまらず、攻めの姿勢を感じさせる異色の企画が印象的である。
今回の「SPUR」では、佐藤文香、矢野玲奈、小川楓子、小林鮎美、野口ま綾、「spica」(神野紗希・江渡華子・野口る理)、「hi→」(衣衣・日比藍子・楢山惠都・西丘伊吹)という面々(順不同・敬称略)が俳句作品を寄せ、それに基づいてファッションページの写真を撮るという趣向で企画が組まれている。また、俳句作品を生み出すにあったっては、メンバー全員で句会を行い、その中から「SPUR」編集部が選んだ句が起用されるという形がとられた。
自分達の話になってしまうことを承知で、簡単に経緯を書けば、そもそもこの企画は「hi→」という俳句の小出版物を、森岡書店という取扱店で「SPUR」の編集者が見かけたことが一つのきっかけとなった。それを見て、「俳句って流行っているのかな」と思った編集者が、知人経由で執筆者も所属するhi→というユニットに連絡を取り、とりあえず俳句の話が聞きたい、ということで初回の打ち合わせが行われたのである。
なぜこれが「外」の話につながるのか、というと、その時に編集者から聞いた、「俳句・句会に関するイメージ」が非常に印象的に記憶に残ったのである。まず、見せられた企画のラフスケッチには、モデルの横に縦書きでいくつか俳句が配置されていた。ここまでは考えられる範囲であるが、上部分に特集名として記されていたのは「モードなわたくしが、ここで一句!」という見出しであった。
それを見てまず考えさせられたのは、俳句ってやっぱりこういうイメージなのだろうな、ということであった。ここで一句、という感じで、立派な短冊を出してきてさらさらと筆で書き付ける。句会はもちろん、鹿威しの音が聞こえてきそうな純和室で、ことによっては着物で、正座をして行う。こういった誤解はなにも編集者に限ったことではなく、周囲の全く俳句をやったことのない人々から非常によく耳にするものでもある。風流、あるいは古風といったイメージが自然にこのような誤解を作り出すのだろうか。
俳句を全くやったことがなく、俳句に対する上記のようなイメージを漠然と持っている人達をあえて俳句の「外」にいると呼ぶなら、個人的には、そのイメージが拭い去られないままであることの責任は、かなりの部分で現在俳句をやっている人達にあると思う。しかし、ここではその話にはふれない。(※ここでいう「外」とは、『ユリイカ』をめぐる議論で用いられている「内」「外」の定義とは別種の、執筆者がここに新たに定義するものである。)
さて、打ち合わせをするうちに、同じように俳句に積極的に取り組んでいる女性俳人を集めて句会をし、そこから生まれた句を基にファッション写真を撮ってはどうか、という話になった。そこで執筆者の知人に声を掛けて句会を開き、記事ではその句会の様子も収録されることとなった。句会についても全くの未経験だったという「SPUR」編集部の面々が、終わった後に「句会がとても楽しかった」と口々に言っていたのが印象的だった。
ところで、「モードな私が、ここで一句!」という特集名は暫定のものではなく、このまま活きるらしかった。この特集名について一言口を挟むか、挟まないかで一瞬も悩まなかったといえば嘘になるが、結局執筆者は何も言わないことにした。理由は二つあり、一つ目は単純に面白いと感じてしまったことと、二つ目は、そういうイメージを持たれているなら抵抗しても仕方ない、ということであった。
「SPUR」の読者の中に俳句の素養がある人がどれくらいいるかは分からないが、少なくとも「SPUR」の読者の殆どは、「SPUR」に俳句の記事が出てくるとは想定していないはずである。そのような読者層に対して俳句特集を組むとすれば、彼らと「同じ目線」でそれを提供し始めることはまず重要であろう。俳句の従来のイメージ(和風、短冊に筆書き、和室etc)をどこかで共有しつつ、しかしそこから「実際」のところをどう取材し、紹介していくのか。その意味で、件の特集名は最初の「見出し」としてはむしろきわめて適切ではないかとも思える。イメージ自体が、もうそういうひとつの現象として現に存在しているのであり、それをともかくも受け止めることからしか始まらないのである。
さて、句会で生まれた句から外国人モデルを使ったファッション写真が撮られ、隣に俳句が配置され、出来上がってきた紙面は想像以上のものだった。写真に俳句をつけると凭れ合いになってつまらなくなるが、写真が後であるために説明っぽさが生まれず、結果的に俳句とファッションが両方生きてくる構造となっている。俳句というものの、短い言葉で的確に世界を作り出し、かつそこからイメージが広がっていくという美点が、ファッションとの共通点として見出されたような気がした。
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このように、「モードな私が、ここで一句!」という、ある程度俳句を続けている人間ならぷっと吹き出してしまうかもしれない(あるいは、本当に怒り出す人もいるだろう)特集名の企画が、蓋をあけてみれば非常に洗練された仕上がりとなっていたりする。対して、俳句を研究し尽くし、深入りし尽くしたはずの俳句総合誌が、誰が見るのだろうと訝るような不思議なグラビアをいつまでも載せ続ける。このことは、個人的にとても印象に残った。
外の人の方が、俳句を直感的にわかっていることだってあるかも知れないのだ。(その点、「SPUR」編集部は俳句に初めてふれる人達ばかりでありながら、確実に勘が鋭い人達だった。)そういう意味では、俳句がもっと「外気」(と敢えて言いたい)にさらされることで、見えてくる新しい地平があるのではないかと思うのである。この新しい地平とは、もちろん「俳句にとって」である。
外気にさらされることは、何も、自分自身まで変わってしまうということを意味していない。相手に媚びる必要はなく、ただ、自分のままで外に出て行くことで、自身の見え方が変わるかもしれず、もっと言えば、相手が見方を変えてくれるということさえあるかも知れない。思いがけない反応が、そこで生まれるかも知れない。
御中虫氏(@onakamushi)が、ツイッターで「場が閉じていることも、場が開いていることも、好きでも嫌いでもないと気付いた。情報が多いことも、少ないことも、好きでも嫌いでもない。そういうのを正当化したり、強制したり、自慢したり、啓蒙したり、そういうのがいやだ。『誰にでも開かれた場』といったような言葉の傲慢さに本当に気づいてる?」(10/18のツイートより)と述べていた。もっともだ、と思う。
そして、例えば俳句の世界を「開かれている」と言ってしまう傲慢さにも、「閉じている」と言ってしまう怠慢さにもノーを示した後で、けれどもやはり、俳句は誰のものでもない、ということだけは、はっきりと言えるのではないかと思う。(勿論、これは「俳句はみんなものだ」という意味ではない。)そして、俳句は別に自分達だけのものではない、ということを、もっとシンプルに、肯定的に捉えていっても良いのではないかと思うのである。
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2011-10-23
〔週刊俳句時評49〕外気にさらされるということ…西丘伊吹
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