2011-10-02

〔週俳9月の俳句を読む〕瀬戸正洋

〔週俳9月の俳句を読む〕
カウンターの片隅で

瀬戸正洋


やきとりには生ホッピーが似合う。備長炭のけむりと六十年代のアメリカンポップス。騒々しい店内。壁はトタン。古材がところどころから顔を出す。その頃の町の外壁に貼られていたブリキの看板。たとえば「金鳥」「オロナミンC」というような看板が無造作に壁に取り付けられている。カウンターには背凭れのないまるい椅子。後ろではハイキング帰りの人達が今日一日の思い出を肴に生ビールを楽しんでいる。


芒原溺るるときのこと思ふ   藤崎幸恵

芒が風に揺れる様を眺めていると波のように思えてくる。芒原は海底。溺れて海の底に立っている時は、こんな感じだと思った。だが、藤崎さんが本当に溺れているのは「芒」と「風」だけなのだ。『箱根「仙石原」風の名所』というポスターが小田急線車内に貼られていた。


八月の鉄屑溜めしドラム缶   
岡田由季

鉄屑を溜めたドラム缶には炎天が似合う。八月が相応しい。工事現場、あるいは廃品回収業者の取分け作業所。ヘルメットを被り日焼けした男たちが動き回っている風景が見える。たっぷりと汗をかき肉体を酷使する健全な生活。幸福とはこのことを言うのだ。最近、幸福について誰も語らなくなった。人間の心の裏の裏など誰も教えてくれない。日本人は冷たくなったのである。


餞別は初夜権二十三夜分   佐山哲郎

餞別は二十三回の新婚の夜の権利。変わった有り得ない餞別だ。頂けるものなら僕もその権利が欲しい。佐山さんて変な人なのである。佐山さんは自分の生き方に迷いがない。迷いがないということは、そう決めてしまったのか、それとも諦めてしまったのか。句集『娑婆娑婆』には住所が記されていなかった。根岸だとか寺名だとか俳号などが記されていた。お礼状の封筒に、それらを全て並べ、佐山哲郎様と書き八十円切手を貼り投函した。もちろん、僕の住所も数百年前の地名。届く訳がない。今頃、その封書は根岸のあたりの郵便局に宛先不明で保管されているのだろう。佐山さんは礼状なんかいらない。そんなもの書く時間があったらお酒でもお飲みなさい。余計なことはしなくていいのだからと言っているのだ。だから、佐山さんは、やさしい変な人なのだ。


子規忌待つ留守に何する妻聞きし   井口吾郎

回文十一作品の文字をただ眺めていればいいのだと思う。あたかも十一本の言葉のオブジェのように。言葉は変化し錯乱し消え去る。言葉なんかなくなってしまったほうがいいのだ。井口さんは子規が好きなのだ。好きで、好きでしかたがないのだ。僕は作品より、十句の依頼に十一句投句した理由を考えることの方が面白いような気がする。それを考え続けると、僕は僕自身を知る手掛りが見つかるのかも知れない。辛うじて意味のあるような作品を選んだがそれは間違いなのだろう。


入らぬと決めたる墓を洗ひけり   嵯峨根鈴子

「主人のお墓に入るのは嫌だ」と女が言った。「その気持ち、わかる」と相づちを打つ。義理の父も母も嫌いなのである。嫁いでからの嫌な思い出がやまのようにあるのだろう。だが、お彼岸にはお参りに行く。それは、嫌な思い出が時を経ることにより消えていってしまうことを暗示している。時が経つとわからなかったものがわかるようになる。心も自然も移り行くものなのだ。自然は厳しすぎるほど正しい。僕たちを本気で叱る。


秋夕焼目を細めては猫になる   赤羽根めぐみ

秋の夕焼けを浴びている。目を細める度に猫になったような気分になる。何度も、同じことを繰り返す。目を細めるだけで猫になってしまうとは、何というおもしろい遊びなのだろう。その先には秋の夕焼け。
「週刊俳句」をプリントアウトし、とある酒場のカウンターに腰掛けて読んでいる。酔っ払いも、俳人も、悲しいほど真剣に生きている。みんな笑顔だ。自由とは生きるための権利。そう言ったのは、トマス・ホッブズ。三十数年間以上も自由と金を交換し続けている貧しい僕の生活。権利などもう何も残ってやしない。堕落しているのは僕ひとり。「The Loco-Motion」が流れ出す店内。「俳句」と「酒神」と「微笑」確かにここは心が穏やかになる場所なのだ。


第228号2011年9月4日
藤崎幸恵 天の川 10句 ≫読む
第230号2011年9月18日
岡田由季 役 目 10句 ≫読む
佐山哲郎 月姿態連絡乞ふ 10句 ≫読む
井口吾郎 回文子規十一句 ≫読む 
第231号2011年9月25日
嵯峨根鈴子 死 角 10句 ≫読む
赤羽根めぐみ 猫になる 10句 ≫読む


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