流跡を辿る行為
「円錐」創刊二〇周年記念シンポジウムおよび、二〇一一年夏号・秋号から藤田哲史
一〇月九日、アルカディア市ヶ谷にて、「円錐」創刊20周年記念シンポジウムが行われた。「円錐」は、澤好摩(以下各敬称略)が発行人の同人誌。現在の編集委員は糸大八・橋本七尾子・山田耕司の三人がつとめる。(澤については、「俳句界」大井恒行顧問の記事が短いながら要所をおさえた紹介記事になっていると思う。→こちら)
記念シンポジウムについては、後日「円錐」誌にてよりシェイプアップされたものが活字化されると思われるので、ここでは深く踏み込まないでおく。簡単に当日の流れを報告しておくと、予告されていたシンポジウムタイトルは「俳句とメディア」ながら、当日は、パネリストである恩田侑布子・高山れおな・岸本尚毅三氏に司会の山田耕司氏が「戦後派」という呼称の共通理解の確認をするところからはじまり、レジュメで配布された「戦後派俳人」についての作品評に移ってい き、結局メディアや同時代の俳句に対する言及はとくに行われなかった。
メディアについて議論するのも、興味深い。しかし、この文章で私が注目するのは、「そもそも「円錐」がなぜ今「戦後派」俳人の作品を読もうとするのか」という点だ。
例えば、「戦後派」俳人の作品のなかでも、シンポジウムで多くの意見が交わされた「いつせいに柱の燃ゆる都かな(三橋敏雄)」は、昭和二〇年作。六十年以上前の作品だ。(※)このような作品を今読み直す必要がどこにあるのか。
二〇一一年にあって、半世紀以上も前の作品群を丹念に読み進めることは、一見、同時代を意識していない行為にも見える。現代と全く異なる時代状況を背景に作品が作られているからだ。
私 たちは、三橋の「いつせいに」の句を、そのまま現代の俳句として通用しうると感じない。現代の日本にあって、日常生活に戦争が深く関わることはないのだ。 世界情勢がどうであれ、なんとなくの平和を日本人は享受している。近刊句集『残像』に収録の「戦争の次は花見のニュースなり(山口優夢)」がその情況を如 実に表わす作例といえよう。当日のシンポジウムでも「もっとより現代の俳句に焦点を当ててほしい」というような意見が出たかと思う。
たしかに、昨今、新世代俳人に注目が集まっているのは周知の通りである。
・「現代詩手帖」二〇一〇年六月号 特集 短詩型新時代 詩はどこへ向かうのか
・「ユリイカ」二〇一一年一一月号 特集 現代俳句の新しい波
俳句専門誌以外のメディアからも特集が組まれていることに、その注目の大きさが推し量れもする。そのような時期に、「円錐」がなぜ、「戦後派」に焦点を当てていくのか。
この問いについては、次の引用がいい回答になるだろう。「円錐」二〇一一年夏号(四九号)に、「主題喪失の時代とは」と題して澤の時評が掲載されている。澤は、若手作家について考えることが、俳句の未来と本質を考えることと同じであることを肯いつつも、
『新撰21』『超新撰21』をはじめ、若手俳人の登場と、その後の情況を見ていると、総合誌に名エディターの不在が影響してか、誰も交通整理が出来ずに、それぞれが気儘に発言し、作品を書いている。同世代の他人と自分の差異にのみ目を奪われ、実は真に競い立たねばならないはずの先達の作品や俳句認識への配慮に欠けている気がする。それは、誰も過去の作家の作品や評論を読んではいるのだろうが、その中で誰が優れた仕事をし、誰が最もその時代、時代にあって情 況を切り開いてきたか、に対する検証が足りない気がする。
と書く。彼も、やはり同時代の俳句に視線が向いてはいる。しかし、同時代の俳句に対し、近眼的な捉え方で臨むことを彼はよしとしない。澤は、新しいものが、本来対置されるべき古いものと共に意識されないまま表層的に持て囃されることに対し、警鐘を鳴らしているのだ。
新 しさの種は現代にしか見出せない。しかしそれを洗練させていく過程のなかには、過去の作品との相対化があるだろう。現代にあって一つのスタイルとして残存 しているにすぎない前衛らしさも、再検証することによって、なんとなく受け継いでいるだけの部分を切り離していくことができる。再検証は、単なる過去作品の称揚ではない。部分的な肯定と部分的な否定をあわせもつ。なぜ、私は多行形式を受け継がなかったのか。なぜ、私は切れ字を手放さなかったのか。
俳句の流跡は、そこにたしかにありつづけている。けれど、それが私たちにおのずから寄りそってきてくれることはない。生きた人のかたちをとって現前しないものに関しては特に。
※ シンポジウムの他、「円錐」本誌でも二〇一一年秋号(五〇号)から戦後派俳人の作品鑑賞がスタートしているが、この秋号で取り上げられた作品も、先述の三橋の句のほか、「春宵の衣桁に何もなかりけり(清崎敏郎/昭和二十年作)」「かなしきかな性病院の煙突(けむりだし)(鈴木六林男/昭和二一年作)」な ど、第二次世界大戦の末期ないし直後の時代に詠まれたものになる。それらの作品も、現代人の視点に立てば、前時代のものになりつつあることは否定できまい。
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