2011-11-13

〔週俳10月の俳句を読む〕鈴木茂雄

〔週俳10月の俳句を読む〕
寅さん的な三枚目ハイク

鈴木茂雄


望郷はもう死語ですか皆の衆  かまちよしろう

上の句から中の句へと読み下していくと、本来なら当然この下の句には「望郷はもう死語ですか」に対峙するシンボルあるいはシグナルとしての季語が来ると思っていると「皆の衆」という予想外のどんでん返し、さらには、わたしたちの年代には「そうじゃないかえ」と同意を求める声さえ反響として聞こえてくるではないか。しかもあの歌手・村田英雄の浪花節的ハスキーボイスでだ。笑って応じたらいいのか、 真面目に静聴すべきなのか、戸惑うところだが、あとで考えることにしてひとまず先に進むことにしよう。


はにかんでやがて淋しき風信子

「やがて淋しき」の中には「やがて悲しき」という芭蕉の裏声が重なっている。作者は、この俳句に登場する主人公は、極めて真面目に振舞おうとするのだが、真面目に振舞おうとすればするほど周囲には滑稽に見え、それが自分にも伝わってくる。そして、いやおうなく「はにかんで」という自嘲のしぐさになるのだが、やがて、そう、「やがて淋しき風信子」となって、ただ突っ立っていることを余儀なくさせられるのである。ヒヤシンスとは書かずに「風信子」としたのは「風の様子、風向き」ひいては「風の便り」を言外に含ませているのは断るまでもないだろう。「悲しみを超えた愛」という花言葉も忘れてはならない句意のひとつ。淡い水彩画を彷彿とさせるような出来栄えである。


跨線橋一本の土筆になっている男

この句、「一本の土筆になっている男」で俳句として十分仕上がっているはずであるが、というより、立派に一句として成立しているとさえ思うのだが、あえて上句に「跨線橋」と置いたのは、この句の前書きか、それとも一行詩につけたタイトルに近いものと思われる。読者にとって余計なお世話の代物にみえて、だが、じつは作者にとっては止むに止まれぬ舞台設定なのだろうと思わせるものがある。五七五、十七音を信奉している者にとっては、この配置はいささか不可解だ。だが、この不可解さがときに詩に繋がることもある。なにしろ「跨線橋」で「土筆になっている男」と出会ったのだ。「一本の土筆」から何が始まっても不思議ではないのである。


手前生国は風吹かぬ土手のスカンポです

「手前生国」の句。一読、山田洋次監督・渥美清主演の「寅さんシリーズ」の映画が思い浮ぶ。ここでやっと鈍感なわたしがはたと思い至った。そうなのだ。さきに揚げた句に登場したボーキョー、ハニカミ、尽くし男、といえば、渥美清演じるところの寅さんしかいないではないか。一騒動起こしては旅に出て、おいちゃん、おばちゃん、そして妹のさくらの待つ家を思い、はにかみ屋で、土筆男ならず、律儀だが滑稽なまでに尽くす男、寅さんだった。しかしこの「スカンポです」には思わず笑ってしまった。が、よくよく思えば、たんにその音のせいだろう。スカンポといえば、「すかんぽの咲く頃」という北原白秋の童謡があるが、作者の念頭にもあったはずだ。昔は川の土手や原っぱにたくさん咲いていた。だが、この句に描かれているのは、季節は春だというのに「風吹かぬ土手」に咲く「スカンポ」なのだ。「やがて淋しき」はこの作品にも色濃く影を落としている。作者の影だろうか。もっとカッコよくオトコマエに詠もうと思えば詠めるはずなのに「手前生国は」と茶化し、「スカンポです」とおどけてみせる。寅さんに負けず劣らずの照れ屋なのだろうか。


肩こらぬ亀の泳ぎや青葉池

「青葉池」は俳句的省略で青葉の映る池のことだが、それにしても肩が凝る亀なんているのだろうか。いやそれ以前の問題として、はたして亀に肩などという部位があるのだろうか。これまた失笑を買うような話だ。話の主は寅さんなのだろうか。いやそうではない。池で泳いでいる亀を見た作者がまるで大海をゆうゆうと泳ぐような亀を見て「肩こらぬ」と感じたのである。肩の凝らない生き方そのものを池で泳いでいる亀のその泳ぎ方に見たのだろう。切れ字「や」はその詠嘆だ。


日盛りや紙魚より薄き影法師

紙魚より薄い影法師というが、実際に紙魚に光を当てたとして、いったい紙魚に「影法師」が生じるのだろうか。虫眼鏡で見たら見えるのかもしれないが、話は紙魚のことではない。作者自身のことなのだ。「紙魚より」というのはその極小に反比例して「薄き影法師」がより強調されるというコトバのレトリック。デフォルメされた自嘲の自画像か。


夕暮れは紫陽花薄く息を吐き

やっと顔見知りのハイクに出会うことができた。ここでふっと緊張が解れた感じがする。この句もそんな感じのする作品ではないか。句意は明瞭、ごくふつうの夏の夕べ、吐息のような「紫陽花」に作者自身も一息ついたところ。


扇風機ぶーん山崎ハコの夏

一見、季語と季語、それに加えて季語より存在感のあるコトバ「山崎ハコ」という固有名詞がみつどもえになってぶつかり合っているようにみえるが、じつは「扇風機ぶーん」と「山崎ハコの夏」のフレーズはイコールで結ばれている。ぶーんと唸る扇風機が置かれた部屋は昔なつかしい昭和の時代だ。風の強さを「強」にすると扇風機は畳の上を這って移動する。そんな時代のシュミーズ姿のお姉さんの姿も忘れられない思い出。山崎ハコという人物のことを知らなくても感覚的にわかるのは、一句が「ぶーん」と漫画タッチで描かれているからだろう。おそらく作者の代表句のひとつになるに違いない。


大福の隣に不幸坐ってる

これはかなりシュールな俳句だ。「大福」つまり大きな福運の隣に不幸が坐っている、というのではない。これは大福餅の隣にまるで捨て猫のような不幸が擦り寄るように坐っていると言っているのである。あの大福餅の隣にちょこんと不幸が坐っているのだ。なんとかわいい「不幸」であろうか。まるで恰幅のいい男に、じつは不幸を演じる女が凭れ掛かっている図。そう解釈しないとつまらない陳腐な句になる。太い線で描かれた、ちょっと猥雑な劇画の一シーンをも思わせる作品だ。

上記以外に印象に残ったのは、「ちょっと待てそこにあるのはオレの過去」の日記と思われる「オレの過去」、「星降る降る野淋しくなんかない野」に隠された「星ふるの、さみしくなんかないの」という少女のものと思われるセリフ、「お茶碗を父と名付けりゃ割れにけり」に登場する割れてしまった「父」、「見上げれば星がみぁあみぁあ哭いている」の「みぁあみぁあ」は萩原朔太郎の詩に現れる「猫」、「凍空にえくぼのありし帰宅かな」の「えくぼ」は星、「正月や遠路はろばろ来た帽子」の「来た帽子」の下の顔とその空高く舞い上がる凧、「裕次郎ルリ子と夜汽車僕の春」のとても昭和的な「僕の春」、それに「むげえの雑貨屋高橋商店おやじのエプロンスリキレだあ」。これなんかはもう俳句というより啖呵的短歌の構図だ。

かまちよしろうさんの作品を読みながら思ったことは、俳句の骨法に則った作品、いま言うところのイケメンなハイクは多いが、寅さん的な三枚目のハイクには滅多にお目に掛かれないということだった。こういう面白い句、一見、これはハイクじゃないだろうと言われるような句をも取り込んで俳句という詩形はさらに進化し、増殖を重ねていくことになるのだろう、と。


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