2011-11-20

〔週刊俳句時評52〕 相対論の果て スピカ第1号特集「男性俳句」を読む 生駒大祐

〔週刊俳句時評52〕
相対論の果て
スピカ第1号特集「男性俳句」を読む

生駒大祐

(ここ数週間体調が優れず、記事の掲載が大変遅れてしまったことをお詫び申し上げます。)

〇.

まずは定量的な話からはじめます。

大野道夫著『短歌・俳句の社会学』(以下『社会学』)によれば、904の結社にアンケートを送付して36.7%の回答率を得た結果では、会員に男性より女性の方が多い俳句結社の割合は約78%におよび、データから計算される会員の女性の比率は約63%となっています(2005年当時)。スピカの特集における、「結社レベルでいうと、俳句=女性になりつつあるのかな」という榮猿丸氏の発言は定量的にも正しいと言えるでしょう。

そんな中、いまだに「女性俳句」特集が総合誌で組まれ、「女性俳句」という言葉がしばしば用いられるのはなぜなのか。おそらくはそんな疑問に端を発したのが今回のスピカの特集「男性俳句」です。

一.

定量的な話をもう少し続けます。手元にあるちょっと古い『2009年度 俳句年鑑』をテキストにしてみます。年鑑で毎年行われている「XXXX年の収穫」という年代別の記事がありますが、「2008年の収穫」の年代別に取り上げられている俳人の男女比率を出して見ましょう。男女分けされていない記事は「八〇代以上」「四〇代」「三〇代」「二〇代・一〇代」です。それぞれに取り上げられている女性の比率は、

80代以上 28%
40代    69%
30代    60%
20・10代 44%

となりました。
また、「諸家自選五句」という記事に載っている俳人695名の中の女性率(記事に性別が載っていないので僕が性別を間違えた可能性もあり、信頼度は低いかもしれませんが)は約3割となりました。『社会学』によれば、結社の会員の平均年齢が50代以上だと述べた結社の割合が99%であることを鑑みると、「諸家自選五句」の女性率が「2008年の収穫」の「80代以上」の女性率に近かったのは順当な結果だと言えるでしょう。

上の結果から浮かんでくるのは、

・年鑑に載る(≒いわゆる俳壇で認知度の高い)俳人の女性比率は現時点では低い。

ということです。

よって、俳人全体の女性率は高いにもかかわらず、認知度という点から見ると女性俳人の認知度はまだ低い状態にあるようです。つまり、俳句における女性の参加度と認知度の間にはズレがあります。そのズレを正すという意味では「女性俳句」特集を組んで女性俳人の認知度を上げようとするのは筋の通った行為かもしれないと思いました。

二.

定量的な話をしたのちにスピカの特集の内容に触れていきます。

この特集では「女性俳句」に対応するものとして「男性俳句」というフレーズを提案し、それについての座談会や評論などが掲載されています。

この特集全体の結論としては、「女性俳句」というカテゴライズの無効性と、敷衍して俳句に俳句以上の情報(パラテクスト)を背負わせることへ若手の持つ違和感というコンセンサスの提示ということになるようです。

面白かったところとしては、榮猿丸氏による「ガーリー」という概念の提示、佐藤文香・日下野由季氏との対談における女性俳人の多様性、野口る理氏の評論における「そもそも、性を捨てたり、売りにしたりすることが、どうして笑いになり得るのだろう」という一文などがありました。

しかし、一方で不毛だなと思えるところもあって、それが何に起因するかというと、おそらくは「女性俳句」そのものについて表現史を掘り下げることでそのカテゴライズの有効性を議論するのではなく、「男性俳句」という対立項の有効性を否定することで「女性俳句」の有効性を間接的に否定しようとしているように見える点でした。


神野 結局、性別関係なく、いい句、必要な句は詠んでいってほしいってことなのかな。そういうコンセンサスが私たち若い世代の中である程度とれるとするならば、「女性俳句」という特集も、これからおのずと内容が変わっていくのかなという気もします。

野口 結局、つまりは、カテゴライズはあんまり意味がないことだってことに収斂されてきちゃう。

神野 俳句から人生を読みとりたいって気持ちもわかる。削ぎ落とした芯の部分が十七音のテキストだとしたら、糠の部分もまた美味しいはずで。私たちは、今は少数派かもしれないけど、性差に対する価値観が昔と変わってきているということをあらためて確認できました。これから、その価値観の変化が、どう俳壇全体の作品や読みに影響してくるのか、楽しみにしたいと思います。


堀本裕樹氏の文章の引用によると昭和50年代に女性俳人の人数が男性俳人を超えたと藤田湘子氏が発言している一方で女性俳句という言葉が現在に根付いているのは、そのカテゴライズになんらかの力があると思うのは自然だと思います。それならば直接「女性俳句」の歴史を洗ってその力がどういったものなのかということを探った方が有益でないかと思ってしまいました。

三.

「○○俳句」を議論することは、パラテクストを如何に扱うかという議論に収束してしまいがちです。しかし、作中主体と作者を分けて考えると、テキスト自体に濃淡のある境涯性が自動的に立ち上がります。それは男性・女性性も同じ。すなわち、境涯性を読みに加えるかどうかは0 or 1ではなく相対的な問題ではないでしょうか。僕が恐れているのは、ある句に大勢の共感を得るような男性・女性的な魅力があるのに「男性俳句」「女性俳句」というものは無効だから、という理由でその読みが否定されてしまうことです。

僕はこれまでパラテクストをできるだけ排した読みをするべきだと思ってきました。しかし、

妻がゐて夜長を言へりさう思ふ  森澄雄

という句を初めに見たとき、「この『妻』は生きているのか亡くなっているのかどちらだろう」という疑問を強く抱き、作者の経歴に当たった経験があります。作者の経歴という答えがそこにあるのなら、それを知りたいと思う心情がそのとき分かりました。

逆に、

鶏頭の十四五本もありぬべし  正岡子規

に関しては、「病臥」というパラテクストが読みに混じると雑音となってしまうと感じます。もちろん、子規の境涯を読みに入れたほうが面白い俳句になると思う人もいることでしょう。

良い俳句を詠むことと良い俳句を良いと読み解くことは両輪の関係です。「読むこと」を重視しているスピカのメンバーはそんなことは百も承知でしょう。パラテクストを読みに加味するかをあらかじめ決めてしまうのではなく、一句がその句にとって幸せな読みかたをされること。それが一番大切なことではないかと今は考えています。

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