2012-02-19

〔週俳1月の俳句を読む〕新延拳

〔週俳1月の俳句を読む〕
人間に与えられた唯一の装飾

新延拳


西脇順三郎はいう、「詩はもう真理の探求ではない。感情の芸術でもない。宗教や倫理の代用品でもない。人間の記録でもない。人間に与えられた唯一の装飾である」と。「たかが俳句、されど俳句」もこのようにー唯一の装飾―と考えると、また新たな展開があるような気がする。そのような気分をひきずりながら、週俳一月号を読んでいきたい。


第246号(2012年1月8日)新年詠2012より

初鏡見覚えのなき指の跡   川崎益太郎

初鏡母が後ろに立つてゐる   北川美美

前句。大掃除で鏡もよく拭いたはずなのに、初日がさしている鏡に指紋の跡が付いている。いやだな、なんか清浄な気持ちが少し汚された気がする。誰の指だ、これは。でも考えてみれば自分がどんな指紋だったかなんて覚えてないや。もちろん妻のも。ま、いいか。忘れよう、もう一度拭こう。拭こうは、不幸か不孝。馬鹿言ってるんじゃないよ、縁起でもない。今年も、アホはアホか(作者のことではありません)。
後句。年の初め、きちんと化粧をしよう。まだあんまり慣れていないからつい真剣になる。なんか気配がすると思ったら、お母さんが見ている。全部お見通しだ。あの秘密もひょっとしたら…。


ものの影ものをはなれてゆく初日    仲 寒蟬

マクベスの「人生は歩く影だ。あわれな役者だ。舞台の上を自分の時間だけ、のさばり歩いたり、じれじれしたりするけれども、やがては人に忘られてしまう」というフレーズを思い浮かべた。ものの影も離れてゆく。確実にそばに寄り添うべきもの、そのはずのものであっても。絶対的な孤独感…。


元日の入日に我を晒し居る   鳴戸奈菜

大晦日から元日にかけて、人々は衣裳だけでなく、なんとなく心も普段とは違い着飾ったようになる。まさにハレの日である。ところが、元日も夕方になると心の張りも少し緩み、茫とした気持ちになる。折りしも、見るともなく眺めていた夕日に照らされている自分。今までのハレの気持ちがなんとなく気恥ずかしいような、若干の疲れを覚える。そう、こうやって自分を晒してもいいや、今年もいろいろと頑張るにしても。


象に乗る飯島晴子初夢は   藤本る衣

「月光の象番にならぬかといふ 晴子」を踏まえているのだろう。また、「初夢のなかをどんなに走ったやら 同」の気分もいくらか揺曳している。ダブルで示されたからには、晴子好きな私など、すぐ目が行ってしまうのが当然だ。しかし、そんなに都合よくこのような晴子の初夢が見られるものだろうかとも思ってしまう。「夢の中で象に乗っている人がいた。目が覚めてあれは晴子だったのだと思った」というくらいにしておこう。象番も餌を与えて面倒をみているだけではつまらない。たまにはその背に乗っていろいろなところに出没したい。人の夢の中にも。



第247号(2012年1月15日)より

声はいつ言葉となるや鳰くぐる   小林千史

赤ん坊の声、いわゆる喃語が意味をなす言葉になる時という解釈も成り立つが、むしろ感動してあるいは苦しくて(快楽の極みで)言葉にならない、「あー」とか「うー」とかいう呻きが、脳が一定の落ち着きや客観性を取り戻したときにはじめて出る言葉のことであろう。言葉は意思疎通のツールであり、自己確認のためのものであるとすれば、クライマックスでは言葉にならないのは当然。理屈っぽいが、俳句ではあまりみないような気がする。ただし、「鳰くぐる」が最善かどうか。



第245号 2012年1月1日
生駒大祐 うしなはれ 5句  ≫読む
村田 篠 水鳥 5句  ≫読む
上田信治 ご町内 6句  ≫読む
西原天気 胸ふかく 5句  ≫読む

第246号 2012年1月8日
特集・新年詠2012  ≫読む  ≫読む  ≫読む  ≫読む  ≫読む  ≫読む

第247号 2012年1月15日
谷口智行 初 暦 7句 ≫読む
小林千史  7句 ≫読む

第248号 2012年1月22日
雪我狂流 日向ぼこ 7句 ≫読む
依光陽子 涯 hate 7句 ≫読む
矢口 晃 蝌蚪は雲 7句 ≫読む
山下つばさ ぱみゆぱみゆ 7句 ≫読む
福田若之 既製品たちと歌ううた 7句 ≫読む

第249号 2012年1月29日
望月 周 冬ゆやけ 7句 ≫読む
林 雅樹 紛糾 7句 ≫読む
松本てふこ 遊具 7句 ≫読む
野口る理 留守番 7句 ≫読む


1 コメント:

若井狼介 さんのコメント...

なにぶん私が未熟であるために、一読して「装飾」の部分が確かに読み取れず、辞書で改めて意味を調べたのでした。生活の俳句、台所俳句もやっぱり俳句の醍醐味なのだと思います。
マクベスの引用箇所は私の体内にすとんと落ちて、すぐに染み込みました。仲 寒蟬氏の詠まれた俳句に描かれたそのものと「ものの影」から句が始まることにひかれます。
鳴戸奈菜氏の俳句は、書評とあわせてああそうだなあと頷きつつ拝読させていただいた次第です。