奇人怪人俳人(八)
純情派青鬼教授・川崎展宏
(かわさき・てんこう)
今井 聖
「街 no.87 」(2011.2)より転載
昭和50年代初頭、「寒雷」の吟行会に参加した。みんなでどこかの古い寺を見た。
学生だった僕は
小さくてかげろひ易き女人墓 聖
という句を出して当日の高得点句になった。楸邨も予選に採ってくれた。
「採ったけど、にょにんばかは無理だね。女人の墓と「の」を入れたいが入れると字あまりになる。難しいところだね」という選評をもらった。
有頂天になっていると、句会のあと、温厚そうな紳士が近づいてきた。
「あなた、学生」
ええそうですと返すと、
「国文でしょ」
と訊かれた。皮肉っぽい口調である。
「いえ、違います」
「そんなはずないな、国文だな」
僕はムッとして
「経済です」
僕は当時経済学部に居た。
「そうか、おかしいな、国文のような作り方をする」
まだ言ってる。
この紳士が展宏さんだった。
この吟行の数年前、昭和46年に森澄雄が「杉」を創刊。寒雷の編集長を15年務めた森さんは、その間に自分の句会で育てた子飼いともいえる展宏さんを初代編集長に任じ、若手の桜井博道、中拓夫、八木荘一を編集担当に据えた。
展宏さんは杉の中枢で働きつつ、寒雷にも顔を出していたのだった。
「国文でしょ」という問いは決して好意的なニュアンスではなかった。だからその決めつけには一瞬ムッとしたが、すぐにその「断定」が意味するところに気づいた。
中学二年生から俳句を始め「ホトトギス」系や「馬酔木」系の老人たちの句会に出ていた僕の句には、どこか俳句擦れした印象があったのだ。そう言われてみればこの句、確かに斬新な青春性や伝統に抵抗する姿勢などかけらも無い。むしろ老獪と言ってもいい句である。
展宏さんは俳句の従来の技法と情緒におもねた僕の句の傾向を指摘していたのだ。
僕は「国文」という言われように納得した。
展宏さんは帰りに僕を飲みに誘ってくれた。僕以外にも何人かに声をかけられたのだと思うけれど気がついてみたら、展宏さんのあとについたのは僕ひとりだった。
なぜみんな来なかったのか。今思うと展宏さんの酒癖の悪さは「寒雷」では周知のことだったからだ。
当時の投句仲間の國學院大生大塚青爾から、寒雷には赤鬼と青鬼がいるから気をつけろと謎のようなことを言われていた。赤、青は酔うと変る顔色を意味している。そのときは何のことかわからなかったが、やがて思い知ることになる。
赤鬼は八木荘一(やぎしょういち)さん。酔うと顔が真赤になる。
角刈りのがっしりした体格でいかにも喧嘩の強そうな風貌。寒雷東京句会に二度目に行ったとき、「若いんだから三十分くらい前に来て、机くらい並べたらどうだ」と怒鳴られた。
この人、後に寒雷の編集も手伝ったことがあって、僕への原稿依頼を口頭でもらったとき「締め切りに遅れないでくれよ、お互いの幸せのためにな」と言われた。お互いの幸せのために…。いつまでも後味悪くそのフレーズが頭に残った。酔わなくても怖い人だった。
青鬼は展宏さん。飲むほどに顔色は青くなる。
展宏さんの酒癖についてはさまざまに目撃したり伝え聞いたりすることになる。
後年、実際に目にして驚いたのは、句会のあとの懇親会での出来事。
昭和50年代半ば、JR大井町から徒歩五分。定例の寒雷東京句会で現在「毬」主宰の河内静魚(かわうちせいぎょ)さんが楸邨特選をもらった。
句会によって異なると思うので説明しておくと、楸邨の特選はその句会で一句である。出席者はだいたい百人で出句は二句ずつ。全部で約二百句の頂点である。
その句、
われ佇てば一感嘆符夏木立 静魚
この句、全体の点はほとんど入らなかったと思う。あまりにも比喩が奇抜な感じがして僕も取れなかった。
楸邨は講評で、自分の立姿を感嘆符の形「!」に喩えたことの斬新さと背景としての夏木立の効果を述べた。
この句の魅力があらためて感じられたのはさることながら、この句を採ることのできる楸邨の鑑賞眼の自由さや幅の広さを感じたことであった。
「作者は誰ですか」
楸邨に聞かれ、静魚さんは立ち上がって「ありがとうございます」と言ったがそれきり声が出ず感涙にむせんだ。静魚さんはこの頃三十代くらい。初めての楸邨特選だったのかも知れない。
特選に選ばれた感激は同門としてよくわかる。しかも楸邨しか採っていない。涙ぐむのもさもあらんとこちらも思わず胸が熱くなった。
句会後の懇親会はいつも大井町駅近くの居酒屋。楸邨は出席することはない。若い頃は酒も煙草もやったらしいが、このころには両方ともやめておられた。
懇親会には静魚さんも来ていた。控え目で誠実な人柄の方である。みんな口々に彼の「快挙」を祝った。
しばらく経ってみんな酔いが回った頃、展宏さんが彼に向って、
「わざと泣いたな」
「……」
「先生の前でわざとらしいんだよ。涙なんか拭いたりして」
静魚さんは困惑している。
周囲の人たちは、またかというふうに手馴れた様子で展宏さんをなだめにかかる。
この二次会が僕の展宏さんの酒癖初体験。この日の句の印象とともに忘れられない場面となった。
その後、展宏伝説をさまざまに耳にすることになる。
お茶の水駅ホームの端で立小便をし駅員に注意されるとそのまま放尿しながら「明治大学教授に何を言うか」と怒鳴り返したという逸話。
酒席で俳句について薀蓄を語る相手にはかならず「俳句をなめるな」と一喝するという話。
他人の靴を履いて帰ったりするのはしょっちゅう。
直接目にしたわけではないのでいずれも真偽のほどはわからぬが、テレビなどで見るあの理知的で温厚な展宏さんのイメージとの落差があまりにも大きいから周囲はひやひやしながらもむしろ面白がって温かく展宏さんを見守る。
そして、荒れた翌日には、迷惑をかけたと思われる各方面に謝りの電話をかけまくると聞いたがそういう点も展宏さんを皆が憎めない理由だ。
赤鬼と青鬼、この二人、鬼同士で同士討ちをやってくれればいいのだけれど実に仲がいい。
三月十日おもかげ四つ蓬餅 荘一
昭和20年3月10日の東京大空襲で係累を四人亡くされた荘一さんのこの句を、展宏さんはいろいろなところで取り上げて秀句として紹介した。
二人の仲良しはそのまま編集担当として草創期の「杉」を支えたのだった。
●
展宏さんの酒癖についてはこの日、僕はまだ何も知らなかった。
僕たちは新宿で降り西口の「ボルガ」に入った。「ボルガ」は俳人の高島茂(たかしましげる)さんが経営する店。蔦が生い茂るレンガ造りの大きくて古い店で、吉屋信子が書いた俳人伝『底の抜けた柄杓』の中の一章、「月から来た男」の主人公瘋癲の高橋鏡太郎が登場する酒場として有名になった。
もっともその作品に登場する以前から楸邨、波郷など多くの俳人が訪れている。銀座にある鈴木真砂女さん経営の小料理店「卯波」に対してこちらは新宿の庶民版焼き鳥屋といった趣きである。
俳人以外にも演劇人、詩人、サラリーマンらでいつも賑わい、入り口で茂店主がぱたぱたと焼き鳥を焼いている。展宏さんは常連らしく、二言三言挨拶を交わすと僕らは奥の席に通された。
展宏さんは坐るとポケットから袋に入った松の実を出して僕にすすめた。学生だった僕はこのとき初めて松の実というものを食べた。美味しかった。
「この間、ここでやられたんだ」
と展宏さんは口火を切った。
「……」
「あそこに止まり木があるだろ、あれに坐ってたら〇〇が若い取り巻き連れてきていて、そいつらに殴られた」
「いきなりですか」
いきなりのはずはないのだが。
「止まり木からバーンて落とされたんだな」
「〇〇さんが連れてたのは俳人ですか」
「演劇か詩の方の連中だな」
〇〇氏は今も活躍する詩人でかつ俳人。この人の名前を冠した「賞」もある。展宏さんが言うだけで真偽のほどはわからないから実名は出せないが、それはありそうだなと思わせる、なんとなくこわもてのする人物である。ただ、展宏さんの言でもそのご本人が直接手を出したわけではなさそうだ。
展宏さんはこのとき明治大学の教授。気鋭の俳人であり文学者。僕にとっては寒雷の先輩でもある。俳句のことで聞いてみたいことは山ほどあった。
当時、僕は高柳重信さん編集の「俳句研究」に書く機会を与えられ新興俳句批判を書いては重信さんの手勢に叩かれていた。そもそも重信さんは「寒雷」と楸邨が大嫌い。兜太さんや渚男さんを誌上に引っ張り出しては若手に叩かせていた時期だ。
僕が新興俳句系の誰彼の批判を口にすると展宏さんは
「どうしてそう決めつける口調で言うの?なんでも決め付けるのはよくないよ」
あまり飲んでいない展宏さんは極めて良識?的。
次第に酒が回ってきたころ僕が意気込んで言った。
「じゃあ、高柳重信を評価するんですか?」
実に短絡的な問いだったが、それに対する展宏さんの応えが意外だった。
「あのねえ、あの人ねえ、早稲田のしかも専門部ですよ、センモンブ」
ワセダのというところで口が皮肉っぽく歪み、センモンブのところでさらに歪む。学歴を蔑んだ言い方である。一番言ってはならないようなことで人を揶揄嘲弄するのは酔っ払いトークの常。それを書くのも掟破りだが、まあ少しは展宏さんの嗜好とリンクするところはあると思うのでお許し願いたい。
15年前「街」を創刊したとき、表紙のデザインは僕の勤務する高校の教え子で東京芸大在学中の学生に頼んだということを後記に書いたら、展宏さんがすぐに葉書をくれた。
「表紙のデザインがいいと思ったら、さすが東京芸大ですね」
大正8年生まれの僕の父は学歴至上主義者といってもよく、息子に帝大万能説をいつも叩き込んだ。息子はその期待にまったく応えることはできなかったが、父の世代から戦後の学制改革くらいまでは官学、特に帝大志向が顕著で私学といえば例外なくコンマ以下という発想がしみついている。展宏さんもその例に洩れない。
実際、帝大卒、官立高等専門学校卒、私大卒の順で初任給に格差があったというから、帝大と私大では今の大卒と高卒くらいの世間的評価の違いもあったのだ。「ワセダのしかもセンモンブ」という蔑視は展宏さん世代のエリートなら少なからず理解するところだろう。
高柳重信は大正12年生まれ。展宏さんとは四つ違い。ほぼ同じ学歴の価値観の中で育った。
寒雷は楸邨のもとに実にさまざまな職種の人たちが集まったが、楸邨の周辺にいたのは、金子兜太、澤木欣一、安東次男、森澄雄、久保田月鈴子、原子公平。展宏さんもふくめて皆、帝大出である。
この中で森さん以外はみな東大。森さんだけが九州大学出、森さんの中に俺だけ違うという意識があったからこそ、近年の矢島渚男さんとの論争の中で渚男さんを「帝大出の賢(さか)しらが」と罵る表現が出てくる。九州大学も帝大なのに。
これは俳壇においては「ホトトギス」の四Sの時代から連綿とつづく決して誇れない「伝統」といってもいい。
まあ、残るべくして残るのが才能だとすれば学歴は結果論ということになるのだろうが、それにしても帝大出(女性は女高師出)の歩留まりの多さは他ジャンルと比較しても特異な構造であろう。
酔うほどに展宏さんは毒舌でからんでくると思いきや、その日はそうでもない。展宏さん自身、
「あれッ、今日はなんかおかしいな、腹立たないな」
なんて言いながら飲んでいる。
僕は運が良かったのだ。それと攻撃は最大の防御なりと言う。さまざまな疑問や質問を矢継ぎ早に展宏さんにぶつけたのが「ガス抜き?」として功を奏したのかもしれない。
展宏さんは、ベロベロになりながら、うれしそうに楸邨の話題を持ち出した。
楸邨家を訪ねたとき玄関で楸邨に、僕はどうせ孫弟子ですからと言ったんだ。そしたら楸邨があの長い真面目な顔で、
「孫弟子ではありません。直弟子ですって言うんだな」
うれしかったな、と展宏さんは眼鏡の奥の細い目をさらに細めて言った。
昭和30年28歳で「寒雷」に投句し、33年頃から当時の編集長森澄雄の自宅に通い内弟子のような関係になる。そして「杉」創刊と同時に編集担当となったから、展宏さんにしてみればなんとなく楸邨の弟子の弟子という遠慮もあったのだ。
楸邨のこの「直弟子です」という言葉がよほどうれしかったのだろう。この時以降、酔った展宏さんから何度か同じ話を聞かされた覚えがある。
楸邨は展宏さんを可愛がった。作品の中にも
(前書き)川崎展宏への返信 一句
洋梨はうまし芯までありがたう 楸邨
がある。挨拶句としては絶妙。この「ありがたう」を読むたび、楸邨からこんな句を返された展宏さんが羨ましくてならない。
松の実をごちそうになり、学歴と直弟子の話題が心に残り、あとは忘れてボルガでの夜は終った。
その出会いがあって以来、展宏さんはときどき電話をくれた。良い電話と悪い電話があった。
あるときは電話で怒られた。
「あなたねえ、僕がいつ花鳥諷詠を肯定した?」
昭和63年2月「俳句」誌の特集「花鳥諷詠」の鼎談で展宏さんと宇佐美魚目、原裕の三氏が虚子の「花鳥諷詠」論議をしているその内容について、僕がどこかに書いた論評で批判したことに対する論拠を求める電話だった。
だって、ここの頁でこう仰ってるでしょと僕が言うと、そうか、ここをそう受け取ったのか、とすぐ納得された。
僕はだいたい森澄雄さん系というか「杉」系とは体質が合わない。展宏さん、博道さんなど人間は大好きでも作風には同調できなかった。
森さんを筆頭にして概括して言えば彼らはやわらかな古典的な抒情を旨としたが、そもそも、楸邨の出発は「馬酔木」の抒情からの離脱であり、「馬酔木」は「ホトトギス」の「花鳥諷詠」からの謀反である。
それがどこをどうひねれば楸邨門から「花鳥諷詠」肯定的な傾向が生まれようか。
それは歴史の逆行ではないか。
楸邨句の大部分は結果的には季語が入っているが、季語が俳句にとって第一義ではないという意味では究極的には季語否定である。定型についても字余りが多いという点では定型リズム重視とは言いがたい。
やわらかな抒情とはむしろ正反対のごつごつした文体と内省的に自己を追い詰める姿勢。楸邨はそれまでの俳句の約束事を検証し、すべて一端白紙に戻した上で見直そうとしていた。それも芭蕉理解を原点にして。
それは虚子、秋桜子、楸邨という流れを見れば一目瞭然の経緯であって、弟子たちはそこに惹かれて楸邨のもとに拠り学び実践しているのではないのか。
『虚子から虚子へ』の中で展宏さんは、「のびやかで」「呼吸がゆったりとしていて」「「老」のよろしさを身近にすることができ」「気持ちがなごみ」「四時(しいじ)と共に呼吸する自由を俳句において保証し」「古い制度の束縛の美点をあげ」というふうに虚子賛辞を連ねる。
この著、章題となっている「なるように」「虚子の春」「悉皆成仏」「仏心」「室生寺など」「酔語」「湯の音」「雲に鳥」「しらくも」「恋心」「雪の声」「桜」等々、これを概観しただけで展宏さんの趣味がうかがえようというもの。神社仏閣と花鳥。情緒は日本「古典」への回帰。
雪夜子は泣く父母より遥かなものを呼び 楸邨
寒卵どの曲線もかへりくる
二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり 兜太
遠足の列大丸の中通る 飛旅子
勤めいやな朝まつこうから燕の白 喜八
花火に奇声銭無き家を飛び出でて 猛夫
これらの、五感総動員で「自分」をたたきつけるエネルギーこそが寒雷の正調ともいうべきであって、歴史的な意義であるように信じてきた僕にとっては、展宏さんの方向は筋違いにみえた。
もし、もう一度展宏さんと飲めたら、こんな言い方で僕の方からからんでみたいと思う。
今はもう冥界におられる展宏さんもし在りせば、こういう問いにどう答えられるのかは想像はつく。
「何でそう決め付けるの?すぐ決め付けるのはよくないよ」とまた言われそうだ。
寒雷の原点は句集『野哭』後記の楸邨の言葉。
「人間としての自分の人間悪、自己の身を置く社会の社会悪、かういうものの中で、本当の声をどうして生かしてゆくか、これが私の今の課題だ。ロダンのやうに「片手にたたかひながら、片手に彫刻する」ほかあるまい。」
自己を追い詰め、社会への疑問を問い、形式に抵抗し、その中で「真実」を探っていくという楸邨の態度について、森さんの中にいつしか俳句とはそんなに苦しい追求の果てに得られるものかという疑問が生じる。
俳句とはもっと楽しく明るい喜びを詠うものではないのか。日本や中国の古典に取材した森さんのそういう思いが「杉」の出発点であり展宏さんらもそこに同調したのだった。
「花鳥諷詠」を展宏さんが肯定したと書いたら、当人が腹を立てたのは、虚子、秋桜子、楸邨の変遷の課題点を古典に照らしてもう一度遡って検証する必要性があり、それに資するために虚子提唱の「花鳥諷詠」を検証しようというのが展宏さんの本意だったからだと思う。
それはわかるけれども、その探究心は展宏さんの句をかろみや俳諧の方に向わせてはいないか。そこにはどう系譜としての必然があるのか、僕にはまだそこの折り合いがつかない。
展宏さんの句を少しみていきたい。
(前書き)戦艦大和(忌日・四月七日) 一句
大和よりヨモツヒラサカスミレサク
よもつひらさかは黄泉平坂。この世とあの世の境にある坂のこと。ヨモツヒラサカスミレサクがカタカナなのは大和から打電された電文の形を模しているから。もちろん想像上の電文である。
展宏さんは昭和2年、広島の呉で生まれた。父は海軍士官。そのあと父について舞鶴,横須賀と軍港を転々とする。そういう個人的な背景があっての句だということは理解できる。
しかし、この句の作者の思いがどこか間接的で類型物語ふうなのは、作者自身に戦争体験がないために一種の戦火想望俳句なっているからではないか。どうも巧みに仕上げられた想像戦記ものといった感は否めない。場面も思いもリアルさに欠ける。
先述した高柳重信さんにも第八句集『日本海軍』がある。こちらは多行表記。
弟よ/相模は/海と/著莪の雨
肩揚とれて/加賀の/陰膳/あそびかな
木の原を/迷へば/紀伊や/秋のくれ
松島を/逃げる/重たい/鸚鵡かな
句の中に帝国海軍の軍艦の名前を入れて詠んでいる。
展宏さんにも
艦名にありし初霜道いそぐ
がある。「初霜」は駆逐艦の名前である。
重信さんは終戦前にぎりぎりで徴兵年齢となったが、胸部疾患のため応召することなく終戦を迎えた。
展宏さんにも重信さんにも自分が行けなかった海軍に対する憧憬がある。体験できなかった分、憧憬感が先に立つ。
これは作品にとっては利点ではない。
僕は展宏さんのこんな句が好きだ。
鶏頭に鶏頭ごつと触れゐたる
鶏頭を毛もののごとく引ずり来
鶏頭の質感を展宏さんは自在に操る。
探梅や眉の濃き子を伴ひて
うしろ手に一寸(ちょつと)紫式部の実
夕風のぞつと冷えたる八重桜
「ごつと」「ちょつと」「ぞつと」。展宏さんは副詞の名手だ。
●
展宏さんが僕を心配して呉れた電話がある。
十年ほど前だったか、「俳句現代」(角川春樹事務所)が「角川春樹批判」というのを特集したとき、どうぞ批判してくださいという原稿依頼が編集長の佐川広冶さんから来た。
そうですか、それじゃあとばかり、僕は批判の文章を書いた。自分の運営する雑誌で自分に対する批判を特集するのはむしろ不遜ではないのか、作品の魅力はわかるが、そんな特集はもっと「大家」としての評価が定着してからの話にして欲しいというような内容。
蓋を開けてみたら、「批判」特集で五人ほどが書いていたのだが、実際に批判しているのは僕だけ。あとはみんなお茶を濁している。
「あんた、大丈夫か、あんなこと書いて」
展宏さんはあきれたような口ぶり。
「だって、依頼書に批判してくれって書いてあったから書いたまでなんですけど」
「そうか、まっ、気をつけて」
何に気をつけるのか、よくわからなかったが、展宏さんがわざわざ電話をくれたことがうれしかった。
●
展宏さんに笑われた電話が一度。
何のためにかけたのか、かかってきたのかは覚えていないが、長谷川櫂さんの話題になった。櫂さん(の句)をどう思うと聞かれた。櫂さんが朝日新聞の選者になる前のことである。
僕は即座に応じた。
櫂さんの句は自分の意図する傾向に沿うあまり、純粋すぎて夾雑物が入らない。つまりアタマで考えた矩(のり)を超えない。この夾雑物こそがその俳人の大きな魅力なのに。
二十年ほど前だったろうか。花鳥諷詠肯定の「若手」三人組、長谷川櫂、田中裕明、岸本尚毅が俳壇に登場。なんといってもその意義は「若手」が「花鳥諷詠」を論作をもって実践したところにあった。
それまでの俳壇の図式は「若手」は前衛志向であって当然というような風潮があった。一部、師も弟子も特定の私大出身者で凝り固まる集団と世襲の人たちを除いては。
単純な図式だった。詩語としての「言葉」を駆使する「先鋭的」なモダンオヤジや「若手」は、高柳重信さんの「俳句研究」に拠り毎号詩論的俳論で啓蒙を行い、老耄の俳人は「伝統」を騙る権威主義者とされた。
そこへ三人が登場したのである。その時点から「若手」の花鳥諷詠の風潮が徐徐に広がってきてその波は今日まで続いている。それは虚子評価の波と言ってもいい。
花鳥諷詠志向の三人の中で、裕明さんだけが作風に体質的な匂いがする。他の二人は極めて意思的で敢えてやっているの感が強い。
例えばその方法を科学的花鳥諷詠と名付けたい。科学的の意味は過去の文体(言い回し)や過去の情緒を典拠として溜め込んで、その範囲内で「自己」を味付けするという工程の確立した作句法。
季語もリズムも言い回しも聖域だから味付けの範囲は限られる。一般的にはそれを「芸」というのだろう。
自分の定めた矩を越えない(越えられない)原因は、ひとつは「一般選」に投句する或る程度の長さの期間を持たないことに起因すると思われる。或る師に師事し、その人の選を受けるということは価値観を一度まかせてみるということ。
師というものは弟子からみると理不尽の極地。言われたとおりに作ったつもりでもダメを出され何が足りない何がやりすぎだと言われる。言葉で言われなくても選で意思表示されるのだ。
その理不尽の中から自分の矩を越える世界との出会いがある。「自分の世界」が「師の世界」とぶつかって出てくる夾雑物との出会いである。もっとも師自体が過去からの聖域を多く引きずる人であればそういう前提もなりたたないが。
僕は楸邨選を念頭におきながら話した。櫂さんの世界は幅があまりにも統一され過ぎている。頭でっかちの花鳥諷詠だ。
結論としてそんなことを言った記憶がある。
聞いていた展宏さんはふふっと笑った。
「そうかな、僕はそうは思わないね」
聞いてきたのは展宏さんなのに彼はそれ以上何も説明しなかった。
展宏さんにとって僕はいい読者でも理解者でもなかったかもしれない。でも仲間に突っかかるのはむしろ礼儀という寒雷の伝統だから許してください。
しかし、展宏さんが『虚子から虚子へ』の中で楸邨について書いていること、
「加藤楸邨は私の師だ。私の俳句の師である。この師は私に〝間違っても先生の語法をなぞるような句づくりはすまい〟と思い続けさせることで師であった」
この言葉に僕は共感する。ああ、展宏さんも師をなぞらないようにすることをいつも意識してきたのだと。
そして、またこの著の中にある次のような展宏さん自身の述懐を掲げて突っかかってばかりいた僕の展宏さんへの本当の思いとしたい。
「誰によらず、作家を扱うとなれば、まず、その作家が私自身にとって、どういう関わりをもつかが第一の問題であって、その他のことはどうでもよいのである。」
寒雷は多様な作家の集団だった。
それらは師としての包容力というより自分が新しい一歩を踏み出すこと以外にはまったく無関心である楸邨という作家の突出性によって牽引されてきた。
僕は古澤太穂さんに叱られ、原田喬さんに励まされ、金子兜太さんに気づかされ、そして展宏さんに笑われながら歩いてきた。寒雷という集団のおかげで、誰とでも一対一で対峙することの大切さを教えられてきたことは幸福なことであった。
平成21年11月29日に肺癌で亡くなられた展宏さんの最晩年の病床での句、
点滴の滴々新年おめでたう
展宏さんの中にいつも
洋梨はうまし芯までありがたう 楸邨
があった証だ。
(了)
川崎展宏・三十句撰
天の川水車は水をあげてこぼす
雷過ぎてポストの口はあたたかし
菜の花をおおきくくるみ膝の上
桃畑へ帽子を忘れきて遠し
はまひるがほ空が帽子におりて来て
明日は満月といふ越後湯沢
鶏頭を毛ものの如く引ずり来
いつのまに海はやつれて青蜜柑
うしろ手に一寸(ちよつと)紫式部の実
いなりずし湖に秋立ちにけり
炭の塵きらきら上がる炭を挽く
子雀のへの字の口や飛去れり
探梅や眉の濃き子を伴ひて
前書き 戦艦大和(忌日・四月七日) 一句
「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク
夕風のぞつと冷えたる八重桜
人間は管より成れる日短
鶏頭に鶏頭ごつと触れゐたる
ほほづきの軸まで赤し青きもあり
白むくげ白無垢八月十五日
冬すみれおのれの影のなつかしき
熱燗や討ち入りおりた者同士
椅子一つ抛り込んだる春焚火
狂ひさうになり連凧である一つ
烏帽子は高く馬は小さくかきつばた
沖縄は浮かぶ花束梅雨あける
八畳の間にちちははのなき裸
牡蠣船を赤い襷のちらちらす
一尾づつ眼張(めばる)の付きし夕べかな
雀斑(かすも)よし枇杷の包みに陽を除けて
少年来る道の陽炎わが膝まで
●
参考文献
『虚子から虚子へ』川崎展宏著
『川崎展宏・花神コレクション』
『季語別・川崎展宏句集』
『川崎展宏の百句』須原和男著
句集『夏』、『秋』、『冬』以上川崎展宏著
『虚子物語』川崎展宏・清崎敏郎編
●
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2012-02-12
奇人怪人俳人(8)純情派青鬼教授・川崎展宏(かわさき・てんこう) 今井 聖
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