2012-03-11

【週俳2月の俳句を読む】山田耕司

【週俳2月の俳句を読む】
しっかりと見るヨソ見
山田耕司


250号

齋藤朝比古 「大階段」より

佳き人と悪しきもの喰ふ朧かな  齋藤朝比古

ぼうとしていて、それでいて霞とは少し違うのが、朧。どこかに光源が絞られているような気配がするよ、朧。

「佳き」というほどの距離の人となにやら「悪しきもの」をともに食うというのは、「ああ、一線を超えたんだな」というかんじがするものの、ズバリとした景色ではない。その気配と、「朧」がほどよく響きあって落ち着く。

「待春の大階段となりにけり」。宝塚歌劇のフィナーレ、ダチョウの羽根乱舞。季語がなにかの喩として立ちあらわれてくる、そんな気配を借りて、身勝手に妄想。


津川絵理子 「春寒」より

摘み草に永き踏切ありにけり  津川絵理子

草を摘んでの家路。見せたい人が家で待つからこそ、気がはやり、踏切が長く感じられるという思いか。「摘み草に永き踏切」という語の運びかたが簡潔にして巧あり。「ありにけり」と豪華な修辞が添えられているのは、当たり前の風景や感情にこそ俳句の核となる趣があるということへの「作家の姿勢」があらわれているようである。摘んだ草の行方よりは、そちらの「作者の姿勢」のほうに目がいってしまうのは、山田がひねた読者であることに起因する。


岡村知昭 「待ち伏せ」より

大和煮のくじらひかるよ水呑むよ  岡村知昭

「大和煮」という名称を<くじら>と組み合わせると、水上で酪酸の入った玉などが投げつけられるような気がしてくる。まあ、そうした社会背景をふまえていないわけではないのだろうけれど、そんな発見が社会的な批評性に連続するかといえば、そうならない。むしろ、そうした論理の因果を切断し、拡散してしまうシカケとしてこそ、俳句形式の生理を機能させているようだ。「ひかるよ」「水呑むよ」は動作の並列のようだが、「大和煮のくじら」を共通主語として読解しても、収まりがつきかねる。その収まりのつかなさを定型でつつんで。そうなると読者は、ミシン目のあるところを切っては戻し、主語を差し替え、つまり「なんとか読もう」としはじめるわけで、とはいえ、コレだという正解は想定されていないようでもある。そんなシカケをパッケージとして提出できる俳句の機能を、作者が遊んでいる気配の一句。

「福耳を言われながらの横臥かな」「待ち伏せや小春日和に靴脱いで」やわらかく想定されている他者。その他者へのふわふわとしたかかわりかたが、作者の方法と調和していて、独自の味わいに。


南十二国 「おはよ」より

枯山や田はあふむけにひろごれり  南十二国

「田は」となっているので、枯山は「うつぶせ」なのかもしれない。さておき、書きたい「理」がきっちり書かれている作品群。俳句を通じて何かを伝えてしまうことができると、一句はメッセージとしての整合性を手に入れることができるものの、脳裏に不条理に焼き付けられる呪文のようなインパクトを失うことがある。作者は、そのことに無自覚ではないようだ。「雪山のまうへのあをくはろかかな」vs<ひらがな部分を暫定的に漢字表記するとすれば→雪山の真上の青く遥かかな>。旧仮名遣いでのひらがなの羅列をもてあそぶ傾向には、句としてのインパクトを志向する姿勢が表明されている。


余談ながら、250号【金原まさ子101歳聖誕祭】は、じつに好企画。感服。


251号

谷口慎也 「流離譚」より

ふつつかなキツネですがと影絵かな  谷口慎也

虚構であることを虚ろな絵として動かしてみる。虚構であることを虚構と説明せず「ふつつかなキツネですが」とセリフにして書いたことで、虚の重なりあいの向こうになにやら実感が浮かんでくるということなのであろう。「前の世に見た遠火事をまた煽ぐ」たいへんな遠火事である。煽ぐのはかなりな力技。実南天を月面にこぼすのも、また。


中山奈々 「ライブハウス」より

亀泣くや水飲んでからチューニング  中山奈々

日常を季語のある世界になじませていくのではなく、自らの営みを<異化>するためにこそ季語を用いている気配。

チューニングをするのに「水飲んでから」と前置きするのは、どんな楽器で演奏するのだろうか。ともあれ、その記述だけでは、日常の<報告>。そこに「亀泣く」を交差させる時、「泣く」ことと「水飲む」ことのリンクや「亀泣く」と「チューニング」との響き合いなどが見えてくる。「や」と切ってみせることで、俳句作品らしい顔つきを手に入れているけれど、これは、俳句を「想望」しているというよりは、日常的な報告を変容させてみせるために道具を使用してみた、という手筋に見える。ああ、もちろん、作者がそうしたことを意欲的に狙っているかどうかは知らないし、あまり関係ない。勝手に読んでいるのである。勝手に読者を遊ばせておいてくれるスキマのようなものがどの句にもある一群。

「亀泣く」について、季語をめぐるやりとりがコメント欄に。これは面白い。獅子鮟鱇さんの漢字に対する意見はまさしくもっとも。漢字表記について「どうでもいいじゃん」と片付けたくはない。また、匿名さんの<3句目の「亀泣く」は、チューニングの音と聞こえないけど気配を感じる亀の声の重なりを嫌って「泣く」にしたのかな、と思いました。でも、どうしても「泣く」の後ろ側に見え隠れする悲しみが句を浅くしてしまわないか、演歌っぽくならないか。>これもなるほどもっともという指摘。さて、これらの指摘が補おうとしているのは「俳句」広くいえば言語表現としての道筋。ところで、中山さんは、実のところ、「いかに俳句であるか」という結果よりも、「いかに俳句が自らの刺激たりえたか」という動機において、この表現を改めることなく掲示しているのではないだろうか、と推察。


252号

小林鮎美 「ワーカーズ・ダイジェスト」より

如月の川の光よ頑張れない  小林鮎美

西友にぺとりと売られ草の餅  同

春泥や寿限無のようなパスワード  同

「働く人」という世界観。読者が類推の枝をのばしやすい傾きかただが、サラリーマン川柳と紙一重。とはいえ、サラリーマン川柳と異なっているのは、<余計なこと>に目が及んでいるから。西友に売られている草の餅を「ぺとり」ととらえているところ、「寿限無のようなパスワード」に「春泥」という傘をさしてあげているところ、など。<目的なき合目的性>とでもいうか、<しっかりと見るヨソ見>というか。そんなところも、「如月の川の光よ」という緊張から「頑張れない」と一気に切り返してみせる作者の立ち位置がもたらすものか。


第250号 2012年2月5日
【『俳コレ』作家特集】
齋藤朝比古 大階段 7句 ≫読む
津川絵理子 春 寒 7句 ≫読む
岡村知昭 待ち伏せ 7句 ≫読む
南 十二国 おはよ 7句 ≫読む

第251号 2012年2月12日
谷口慎也 流離譚 10句 ≫読む
中山奈々 ライブハウス 10句 ≫読む

第252号 2012年2月19日
小林鮎美 ワーカーズ・ダイジェスト 10句 ≫読む

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