「ほかいびと」の人生
相子智恵
「信濃毎日新聞」2011年11月26日
「思索のノート「井月をめぐる旅」〈8〉」より転載
私がこの句碑を訪ねたのは十月の末。栗ならぬ柿がたわわに実っていた。
句碑は井月終焉の地、伊那市美篶末広太田窪の、塩原梅関の家の離れの跡地に建っている。この句は「落ちた栗がころころと転がって、窪みに場所を定めた」という意味で、井月にとって大切な句だ。
井月は、戸籍を取るために故郷の長岡に帰ろうとしたが、結局帰ることができず、長年伊那谷を放浪していた。
そんな明治十七年、とある事情で戸主が不在となり困っていた塩原梅関の分家に、井月が「厄介附籍(やっかいふせき)」(扶助を受ける他者として入籍すること)となる案が持ち上がったのである。井月六十三歳。ようやく戸籍を持ち、念願だった芭蕉を奉る草庵が持てそうだと、明治十八年の秋には、句集『余波の水くき』を開板(出版)した。その句集の跋文に書いたのがこの句なのである。句と一対となる井月の和歌もある。
今は世に拾ふ人なき落栗のくちはてよとや雨のふるらん
「今はもう誰も拾わない落栗となった自分に、朽ち果てよと雨が降る」という意味だ。この寂しい和歌と冒頭の句を一緒に読むと、居場所が決まった安堵と、定住によって俳句の旅を続けられない寂しさが入り混じった複雑な心境がうかがえる。
旅を捨てることは「日々旅にして旅を栖(すみか)とす」と言った、井月が神ともあがめる芭蕉の精神を追えないことになる。逆に戸籍を得たことは、故郷に帰れない井月の苦しみを救っただろう。戸籍を得た後も、井月は放浪をやめなかった。一年後の年末、井月は道で行き倒れ、翌明治二十年の春に亡くなるのだった。
いま、井月の生涯をドキュメンタリーとフィクションを織り交ぜて描いた映画「ほかいびと 伊那の井月」(井月顕彰会など製作)が伊那市の旭座で公開されている。
私は去る八月の残暑の日、この映画の監督である北村皆雄さんの講演を聞き、映画の予告編を見た。ダンサーで俳優の田中泯さん演じる井月が、黒紋付姿で颯爽と伊那谷に現れた最初のシーンだけで、私は暑さも忘れて圧倒され、鳥肌が立った。田中泯さんの眼は、鋭い中にも憂いを帯び、放浪の井月の切ない未来を予感させた。この「落栗」の句を、すぐに思った。
同市出身の北村監督は四年もの歳月をかけ、井月について地元の人々に取材を重ね、時代背景や地域芸能を細かく調べて映画を撮った。一度じっくりお話を伺ってみたいと、新宿にある北村監督の事務所を訪ねたのは、この句碑を訪ねた直後のことだ。
「井月が晩年を過ごした梅関の家の離れには、実際に栗の木が五本ほどあったそうです。六畳間と八畳間が一つずつの小さな小屋でしたが、粗末ではなかったようですよ」と、塩原家の子孫の方に取材した監督は教えてくれた。「風呂も四日に一度くらい入ったことが書かれた日記もありますし、“乞食井月” “虱井月”とよばれたのは、最晩年の頃だけだろうと思います。ただ後々、井月の俳句が見直される頃には、井月の若い頃を知る人たちはみな亡くなっていて、幼い頃に最晩年の井月だけを見た人が話を伝えましたから、その印象が鮮烈だったのでしょう」
そんな井月像を確信した監督が、それでもこの映画に「乞食者」とも書く「ほかいびと」と名付けたのはなぜか。
「“ほかい”とは“祝う”という意味です。古来、乞食者(ほかいびと)は神や人を祝福する芸を持ち、家々を回って予祝を捧げ、交換に食べ物をいただくのを生業としていました。万葉集にも歌が出てきます。井月の生き方も、人を訪ね、祝う言葉を述べる人生だったのではないか。明治以降 “個”が文学の中心になる以前は、言葉にそういう他者や神への力があったのではないか。井月は集団と個の歴史の狭間を生きた人ではないかと、そう思うんです」
「予祝」という考えは季語にも通じる。「雪や花を讃えることはよきことの瑞兆(ずいちょう)となり、月を愛(め)でることはこの世の死を超越することでもあった」(宮坂静生『季語の誕生』岩波新書)
かつて言葉には祝福の力があった。果たして今はどうかと、突きつけられた気がした。一人でも多くの人がこの素晴らしい映画を見ることを願う。
まなうらに緑射したる枯野かな 智恵
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