2012-03-04

依光正樹作品鑑賞 〈選者の一句〉集

依光正樹作品鑑賞
〈選者の一句〉
      
「選者の一句」は毎月持ち回りで主宰・依光正樹句を鑑賞するコーナーである。



鳥を見る淋しさ好み寒日和 正樹  

陽が落ちる頃、舞い戻ってくる鳩を、両親と叔父そして私は庭先で待った。

鳩はいつものように我家の棟に次々と降り、忽ち棟は隙間なく埋め尽くされる。叔父が狙いを定めて空気銃で撃ち始めると、四~五羽が屋根を転がり、軒下へと音を立てて落ちてきた。

撃つのを止めるように母が父に詰め寄り、事態に気づいた鳩は一斉に飛び立った。叔父は射殺した鳩を食べるようにと置いていったが、そんな気にはとてもなれなかった母と私は鳩を埋めた。

この日の五年程前、鳩の飼い主だった兄は、幼児の頃の交通事故がもとで、中学三年生で亡くなった。その後は母と私で世話をしていたのだが、面倒が見切れなくなり野生化した。近所の農家から苦情を言われたため、父は叔父に射殺を依頼したのだった。

射殺は数年続けられた。寒の頃だった。母と私は、屋根に降りようとする鳩を見かける度に、竹竿や小石で追い払った。やがて鳩は屋根の上で旋回するだけで去って行き、いつしか来なくなった。

私の暮らす場所で、数十羽の鳩が射殺され、生き残りは追われ続けたのである。しかし既に過去のことである。両親は十余年前に相次いで他界、叔父も一昨年彼岸の人となった。

〈鳥を見る淋しさ好み寒日和〉  

正樹先生のこの句を読む時、私は今の私であの寒の日の庭先に立っている。言いようのない淋しさは、「寒日和」という季題に救われるような気がする。                   

 関口登司郎(H21・1)



卒業の名前小さく大辞典 正樹
 
卒業と云えば、つい四、五年前に小学校の卒業証書を貰ったことを思い出す。

昭和廿年は身辺にあらゆることが起きた。私はこの年に豊島区大塚にある尋常小学校の六年生で、長野県の学童疎開先から帰り、三月に卒業、四月に中学校の入学式をし、その翌日B29の爆撃で家も中学校も焼け出された。八月に敗戦を迎えた時は、子供ながらに今で云う価値観ががらがら崩れる思いだった。 

そんな訳で小学校の卒業式らしいものはほとんど記憶にない。

あれから五十年、社会に出て大阪・四日市・台湾、その他点々として東京に戻ってきた。ちょうどその頃、小学校のクラス会を学童疎開先の長野県坂城町満泉寺でやろうということになった。

五十年ぶりで満泉寺の土を踏んだ。坂城町は軽工業が盛んになり、活気のある町に発展していた。昔、お寺の小僧だった信ちゃんは住職になっていた。漢詩など作って歓待してくれた和尚は他界していた。

村上義清の葛城山は昔のままで、林檎畑は緑豊かだった。林檎は種以外は凡て食べた話、林檎泥棒の話、夏相撲の赤褌、はじめて虱を取った日のことや、竹スキーの話に明け暮れていた時、一人が「そういえば卒業証書を貰ってなかったね」と言い出した。どうにかしようということになったが、幸いに校長先生は我々の要望に応えてくれた。

こうして、小学校の卒業式が行われることになった。証書を貰うと、何かが胸に迫ってくるのだった。先生の謂われる大辞典に名前を印せたという思いだった。

松田史朗(H17・3)



ばけつの水ゆらゆらとして夏の寺 正樹

打ち水をするのか、或いは本堂の掃除でもしようというのか、炎天下のしんとした夏の寺に置かれたばけつの水がゆらゆらと揺れている。時間が止まったかのような静けさの中、水だけがゆったりと時を刻んでいく…。

大学三年の夏、初めての一人旅で京都に行った。夜行バスを利用したため早朝に着いたのだが、八月の京都はまさに炎暑といった感じで、すでにクラクラするほどの暑さだったのを覚えている。

さっそくいろいろとお寺回りをしたいところなのだが、あいにく朝早くから拝観できるお寺は少なく、近場という事もあってまずは東本願寺に行った。境内には参拝や朝の散策といった様子の老人がけっこう見受けられ、見知らぬ町に一人でいる不安が少し紛れたものである。

ただじっと座っているだけで頭がぼんやりとしてくるような日射しの中、慣れない夜行バスの疲れもあってか、気が付けば一時間ほども座り込んでいた。当時、大学の友人とうまく行かず、学校では常に孤独の中にあり、独りでいる事が気楽でさえあった自分。

この一時間に私は何を考えていたのだろう。何かを考えていたような、何も考えなかったような、誰に遠慮する事もない贅沢な時を過ごしたのを覚えている。自分と向き合うばかりのこの旅で、一人でいることへの自信が生まれた。

掲句は、そんな忘れられない旅のひとときを思い出させる。夏のうだるような暑さのなか、人影もまばらな寺に置かれたばけつ。そのばけつという限られた空間の中で、ゆらゆらとただ揺れる水。それだけの事なのに、この句には無常観というか哲学的な奥深さが感じられ、孤独が楽だ、などと悟ったような気持ちでいた二十歳のあの夏の日が蘇ってきて、私にとってちょっと切ない句なのである。

小和田智子(H13・6)


東京に知り合ひもなし赤い羽根 正樹

この句、いろいろに想いを膨らませてくれる。東京には知り合いもない、ましてや友人も身内もいない。秋寒の朝の駅頭は間断なく無言の人々が流れる。赤い羽根と募金箱を持った少女達の大声だけが耳を衝く。

私は昭和二十八年、就職のために上京し、阿佐ヶ谷から中央線で丸の内に通勤した。初任給九千円の身が初めて赤い羽根をつけたのは何時の頃か定かでない。しかし、つけてもらった時のどきどきした感じは今も脳裏にあり。その時の私は、赤い羽根という媒体によって東京に繋がりを持てたと無意識に感じとっていたのではなかろうか。

掲句は平成十一年一月『俳句』誌に発表された「窓」七句中の一句。東京と赤い羽根の組合せが絶妙であり、晩秋の季題が息づいている。東京に長く住んだ現在でもこの句のもつ淋しさは私の心の奥に沁みついて、消えようとしないのである。

〈ひと降りのあとのしづけさ赤い羽根 正樹〉 
 
平成九年二月の「屋根」誌、香日集発表句である。どちらの句も赤い羽根の色彩が鮮明で、先の金色の針金までもぶるぶると震えるほどの繊細さを感じさせてくれる。

掲句発表時の正樹主宰の提言の一部に「一回の句会の結果でなく、継続的に生きざまのようなものを問うてゆく、それが俳句道だと思う」とある。その言葉を噛み締めながら今、鑑賞している。                  
橋本久美(H11・8)



ばらばらな貝だけが好き秋の海 正樹

句を作る時、好きだ嫌いだなどという言葉を用いることはめったにない。そういった感情表現は読者のみに与えられるものだと考える人には、この句は「全てを言ってしまった句」として評されるかもしれない。季題に心を託す写生が中心の句会では、「何も言わない句」のほうが共感を得やすい。読者が感情移入できるよう予定調和的に構成されているからだ。

でもどうだろう、この句をじっと眺めていると、好きという明るい感情表現とは逆の、何かしら感傷的なものが呼び起こされてくる。それは現在の年齢になった私が忘れてしまっている何か、だ。

七歳の私、十六歳の私、二十三歳の私が、その頃思っていたこと、悲しんでいたこと、笑いころげていたこと。今さら思い出しようのなかったことが、ひとつひとつの貝殻になって、波打際にうち散らかされているような、心の風景。

普段落ちているものを拾うことなど決してないのに、貝殻ならば思わず拾ってしまうのは何故だろう。貝殻に耳をあてると波の音が聞こえるような気がするのは何故だろう。

きのうまでもくもくと勢いのあった雲が、ある日すうっと靡くようなうすい雲になったとき、どれほど暑くても人は秋を感じとる。この句が生まれた背景には、決して予定調和ではない、生の、本物の人間感情が露骨に表現できる、人生のうら若さがじっと横たわっているのである。 

下坂速穂(H22・8)


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