2012-07-08

奇人怪人俳人(十) まら振り洗う巨人・金子兜太 (かねこ・とうた) 今井 聖


奇人怪人俳人(十)
まら振り洗う巨人・金子兜太
(かねこ・とうた)

今井 聖




「街 no.89 」(2011.6)より転載


2011年4月、金子兜太主宰「海程」の秩父俳句道場に招かれた僕は「街」の仲間一七名とともに一泊の道場に参加してきた。

60年代から70年代初めまで、俳句を初めて十年ばかりは僕はさまざまな結社の句会に「道場破り」と称して参加していた。「ホトトギス」「馬酔木」「天狼」「氷海」「京鹿子」等々。「寒雷」に入会してからも「陸」の句会に出たりした。

「街」を創刊、主宰するようになってからはそういうフットワークは使えなくなっていた。

それでも十年ほど前に五人の仲間とともに「海程」中央例会に参加させてもらったことがある。

僕が「寒雷」に投句を始めたのは七十一年。兜太さんは既に九年前に「海程」を興されたあとで、楸邨門下のこの大先輩の謦咳に接することは出来なかった。「金子兜太」に直に触れてみたい。「海程」の句会に押しかけたのはそういう動機がはたらいていたのである。

当時の参加は今回と違ってたった五人の同行。中で一番年長は宮崎筑子(みやざきちくし)さん、当時で七十歳を出たところ。筑子さんは和知喜八さんを担いで「響焔」を興した一人。「寒雷」にも五十年代から投句をしているベテランである。

筑子さんは「寒雷集」の神奈川県の欄で僕といつも隣り合って載っていたのだが、筑子の読み方を知らず、どんな女性だろうといつも気にしていたのだった。それがひょんなことで「街」で一緒にやることになって会ってみるといかつい九州男児、驚いたことであった。

その筑子さんが大の兜太ファン。二次会の折にいつも繰返し絶賛していた兜太作品が

(むしろ)漂うまら振り洗う夜の造船

「すごい句だろ。こんな句は兜太でなければつくれない」と眼を輝かせて言う。筑子さんは鉄精錬の現場の労働者、その人が、トイレに行く暇もなくざぶざぶと海に入って用を足す夜の労働の過酷さと現場のエネルギーを言うから秀句がさらに輝いて見えてくる。

兜太さんの魅力のひとつは「社会的動物としての私」という人間の本質からずっとこれまで眼をそらさなかったこと。

「社会性俳句」という呼称が経済の高度成長に伴って消えてゆく一過性の「流行」で、結局やっぱり自然諷詠だよね、俳句的情緒の踏襲だよねというところに戻ってゆく「全体」に対していわば孤立無援の闘いを通してきた。

「社会性俳句」が現場の労働、つまりブルーカラーの汗と反骨という定番をテーマにしたのに対して兜太さんはホワイトカラーの苦悩も俳句のテーマになりうるということを始めて示した俳人だ。しかもそれはブルーカラーの人の共感を得つつ。

それはなぜか、「まら振り洗う」のように現場を肉体感覚として描けたからだと僕は思う。

この句、莚漂う、まら振り洗う、夜の造船の三箇所で切れるから通常なら欠点となるがそのタブーを侵したところも兜太ならでは。筑子さんはこんな解説まで入れて語る。

筑子さんの独壇場はさらにこのあと「俳句をつくる人間は自分の恥部をみせなきゃだめなんだ」と続く。

 筑子さんは真面目に馬鹿がつくほどの謹厳居士。「恥部」が精神性のみならず肉体の微妙な部分を指すなんぞと冗談も言えない。

ところが或る日、街の研究会で兜太さんをやることになって初期からの句を読んでいると、この筑子さん絶賛の句が出てこない。

こんないい句が入ってないはずがないと思って何度も調べるが無い。よく似ている句が二句見つかった。

まら振り洗う裸海上労働すむ
もまれ漂う湾口の莚夜の造船


ははあ、筑子さん、この二句を一緒くたにして記憶したなと思ったのであった。

莚漂うまら振り洗う夜の造船

こっちの方が凄いような気もするが真実は真実、筑子さんに言うと「それはね、僕が言った方が初出なんだ。おそらく兜太さんはそれを句集採録の折に変えたんだよ」と自説を曲げようとしない。

じゃあ、今度、「海程」の句会に一緒に行って本人に聞いてみようか。望むところだ。ということになって我らは決着をつけるべく乗り込んだのであった。

街から行った五人は句会の前ひとりひとり兜太さんの前に出てご挨拶をした。僕がひとりひとりを紹介して兜太さんと言葉を交す。

ついに筑子さんの番が来た。

筑子さんは緊張しきって少しどもりながら言った。
「セ、センセイ、莚漂うまら振り洗う夜の造船の句ですが」
「その句は、まら振り洗う裸海上労働すむ、だね」
「最初からその句ですか?」
「そうだね」
勝負はあっけなくついた。あのときの筑子さんのがっかりした顔が忘れられない。

僕らは帰りに筑子さんを慰めた。筑子さんの言ってた句の方が迫力があって兜太らしいのにねと。

その後、筑子さんは句会の二次会ではもうその句は言わなくなった。

それから十年経った今回、「海程」秩父道場四月二日の夜、まったくの偶然だが入院していた筑子さんが亡くなられた。享年八六。元気だったら筑子さんも参加されていたと思う。

筑子さんより六歳年上の兜太さんは実にお元気だった。

参加者の前での兜太さんとのディスカッションの機会があったので、日頃感じていた質問をしてみた。

僕には、この〈まら振り洗う裸海上労働すむ〉
を始めとして、兜太作品の

強し青年干潟に玉葱腐る日も
コートの木戸遠く鳴る魔羅がたつ白昼
陰毛つねる船員の愛に犬多し
朝空に痰は輝き蛞蝓ゆく
紙で尻ふく白さがすべての父母の村
華麗な墓原女陰あらわに村眠り
鮭食う旅へ空の肛門となる夕陽
最果ての赤鼻の赤魔羅の岩群(いわむれ)
便所の中まったく白い奴らの中


などに現れる性器や肛門、糞尿、痰などを句に詠むその発想契機が知りたかったということ。

これはどうしてこんなものを詠むのかという否定的な疑問ではなく、美的、俳句的情緒ならざるものの代表と思われているものを「詩」に用いる勇気というか、その動機が知りたかったのである。

これは「街」の十周年記念号での特集の柱となった「金子兜太インタビュー」でも同じことをうかがった。

「俺は魔羅とか糞尿とか、そういうのが好きだからな」

その時は兜太さんはそう応えた。

花鳥諷詠に代表される俳句的情緒や季語の本意、本情といった抹香臭い「風流」に対する強烈なアンチ・テーゼを意図した。そんな答を期待した僕は肩透かしを食わされた思いだった。こんどは逃しはしない。俳句道場への参加はそんな思いもあったのだ。

僕がした同じ質問に兜太さんはまた同様のことを言った。

「そのとき、そのとき自分が感じたことを言うだけだ」

僕は食いさがった。

だって、兜太さんの初期には

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
冬晴れの赤児の頭胸に触れ
梅雨の月帰りし帽を書の上に
犬は海を少年はマンゴーの森を見る
魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ


などがある。これらは、従来の俳句的情緒の範囲を逸脱するものではない。その範囲内で十分秀句として認めうるものである。

それが突然と言おうか、しだいにと言おうか、魔羅、女陰、糞尿、痰、肛門に行く。

「それはそのときの関心のあるものを詠うということ。俳句は形式への信頼というものが第一で、あとはたいした要件じゃないんだ」

兜太さんはなかなかこちらの期待した反応をくれない。

何故だろう、本当に兜太さんはアンチ諷詠的情緒なんてことは考えていないのか。そう考えるうち、僕は「まら振り洗う」根っこについて思い到ることがあった。

ひとつは兜太さんの父君金子伊昔紅(いせきこう)からの影響。

金子伊昔紅(1889~1997)は独協中学で水原秋桜子と同級。その後、京都府立医専(現・府立医大)を出て秩父で医師を開業。俳句は「馬酔木」同人。「雁坂」を主宰した。

伊昔紅は府立医大の校歌を作詞したほどで漢籍にも詳しく文学的素養もあったが、とにかく破天荒。

あまりにも卑猥な歌詞のために昭和初期に禁止された秩父音頭を、自作を加えて復活させた「家元」でもある。

その伊昔紅が自誌に載せたエッセーを集めた一巻が『雁坂随想』。これが開いた口がふさがらないくらい面白い。

たとえば、「芳草記」と題された文章では野糞についてうんちくが語られる。芭蕉の「夏草やつはものどもが夢のあと」は夏草の代わりに「夏クソ」と置き換えてみても結構筋が通る。こんな書き出しである。

近 年の話ということで、高野山の僧坊に泊ったあと、同行三人と山道で野糞をすることになった。野糞をしながらそばにあった木苺を食べ、三人で林を出ると一人 が「アここに曽我兄弟の墓があらア」と叫ぶ。兄弟の英魂を弔うのに野糞を以って手向けたと思うとなんだかあと味が悪い。こんな調子でうんちくは延々と続 く。

道で野糞をしていたら娘さんが通りかかったのでバツが悪くこちらの方から「姉さん紙もってるかね」と声をかけた話。川の中でした話。賤ヶ嶽山頂でした話と続き、文末は「雨蝕風散に任せる方法を選べば野グソも亦一つのリクリエーションなのである。」と結ぶ。

読者諸兄、如何。まら振り洗うの根っこが見えてきたでしょう。

もうひとつは中村草田男。

兜太さんは、昭和十二年、旧制水戸高校に入学。一年上級の出沢珊太郎に誘われ俳句を始めた。その後すぐ竹下しづの女が主宰していた「成層圏」に参加。その代行で指導に来ていた中村草田男の指導を受ける。加藤楸邨に出会う以前のことである。

街のインタビューでも、兜太さんはそのことに触れて、成層圏の句会でそれまでにない文体の句を出すと「草田男限りだ」と注意されたとのこと。草田男限りとは俳句表現におけるあの破天荒は草田男だけに例外的に許されることであって真似をしてはいけないという意味であった。

とにかく二十歳前後の兜太さんの原点に「中村草田男」が厳として存在したことは間違いない。その草田男の作品。

ふるさとの春暁にある厠かな
妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る
虹に謝す妻よりほかに女知らず
空は太古の明るさ妻より林檎受く
母が家近く便意もうれし花茶垣


などの性や排泄など、人間の生理を「聖性」として強く肯定し見つめる草田男の態度が兜太さんに俳句の可能性の範囲を強く示唆したことがうかがえる。

伊昔紅と草田男。この二人が「まら振り洗う」の背景となっている。

一方で兜太さんが加藤楸邨の弟子であることも事実である。

草田男と楸邨、このふたりを兜太はどうみつめ対峙し受け入れ学んできたのかについて「金子兜太の世界」(『俳句』編集部編)(二〇〇九年)に書いた僕の小文を付記しておく。

「だいたい俳句を教えるなんてことはできるわけがない。可笑しいことをいうなと思ったわけです。選をする、評を言うってことは自分の感想を述べさせてもらうってことで、教えるなんてことはとんでもないこと」

数日前、カーラジオをつけると兜太が吼えている。NHKラジオ第二放送「わたしの現代俳句史」というカルチャー番組で兜太が戦後すぐの自らの俳句遍歴を語っている。

昭和21年加藤楸邨は中村草田男から「俳句研究」七、八月号(合併号)の誌上で、「楸邨氏への手紙」と題した公開質問状を示される。

その質問の内容は、楸邨が、「寒雷」会員である軍の高官の便宜を受けて戦争便乗的になったのではないか、そしてその高官を戦後も結社員として厚遇しているのはなぜか。これが問いかけのひとつ。

もうひとつは楸邨の俳人としての姿勢についてで、楸邨は主宰として青年層への「哺育」をどう考えているのかという問いかけ。ラジオで兜太が噛み付いていたのは草田男が述べたこの哺育という言葉についてだった。

楸邨は翌年初頭に同誌の誌上で「俳句と人間に就いてー草田男氏への返事―」と題して草田男の問に応えている。

始めの問に対する返答は小文のテーマにかかわらないので省く。後の問に対しては「自分は前向きに俳句に向かいたい。後ろを向いて指導を加えるなどということは出来ない。自分の俳句に向う態度を信じてそこから何かを汲み取ってくれる人があれば、それがその人の自得の道であり、結果として若い世代の哺育になるならありがたいことだ」と応えている。

兜太は自著『わが戦後俳句史』の中でも書いている。

「中 村草田男の「楸邨氏への手紙」を読みはじめて、私はすぐ、「俳壇」の「中堅層の責務」とか「俳壇の若き世代を哺育」とかいった言い方が気になっていまし た。(中略)草田男発言のなかで楸邨に感じた自由とはこんなことなのです。つまり、私は楸邨から俳壇に対する責務だとか、若い世代の哺育だとかいったいい 方を聞いた記憶がなかったし、そんな雰囲気さえ感じたことがなかったのです。そのこと、楸邨という師は、弟子をほったらかしにしておく、指導者めいた物言 いをしない人、という人物像が私のなかにできたといってよく、おもえば、私はそこに自由を感じて、好き勝手に振舞っていたのでした。」

兜太は自分の俳句の師は草田男であり、人間としての師は楸邨と今でも公言してはばからない。その兜太の「哺育」批判である。

兜太の俳句の出発は草田男選の「成層圏」。以後草田男の「哺育」のもとにいたならば、今日の兜太俳句は有り得なかったと思う。

兜太は自分が草田男流に規定されることの危うさをいわば本能的に察知して「俳句の師」よりも「人間の師」を選んだのではないか。
しかし、草田男の「哺育」を嫌った兜太は無条件で楸邨に傾倒したわけではない。

この草田男からの「楸邨への手紙」のあと、ほぼ一年後に兜太は「寒雷」でのクーデターの一員となる。すなわち、兜太、原子公平、菊池卓夫、安東次男、沢木欣一の五人が楸邨の選や「寒雷」の傾向への不満を口にし寒雷を辞する覚悟で楸邨に談じ込むのである。

勢いの余り菊池卓夫は楸邨に「先生、寒雷集の選を僕たちにやらせてください」と詰め寄る。楸邨は「断る」と一言。

当 然だろう。今の結社の在り方からみても到底想像もできないような師と弟子の関係が六十年も前にあったということが、何か、俳壇にとっては奇跡のような文学 的緊張感を思わせる。また芭蕉研究の徒でもあった楸邨がこういう雰囲気をつくりあげたということが「座」というものの本質を思わせるのである。

クーデターののち兜太をのぞく三人は「寒雷」を去る。(安東次男は後年復帰)兜太は勤務先の日銀まで説得に来た編集長秋山牧車の意を受けて原隊復帰することになる。

それから四十年後の昭和62年「海程」二十五周年記念大会。僕は自分の車に楸邨を乗せて会場に入った。
このときの「海程」のマニフェストは「古き良きものに現代を生かす」。

大会冒頭、楸邨は祝辞に立って「古き良きものを現代に生かす」に賛辞を送る。「に」と「を」を取り違えたのである。

語 意としては肝心な部分とも言えなくもないが、短い祝辞の中での言い間違い。そのまま済むと思いきや、その直後の講演で兜太は楸邨の読み違えを指摘し「「古 き良きものに現代を生かす」となれば現代が中心です。楸邨先生のように「古き良きものを現代に生かす」となれば、古き良きものが中心になります。中心の置 き方が違ってまいりますので、先生は先生なり、私は私なり、とこうなるわけです」と楸邨の間違いに容赦ない。

楸邨は壇上で聞きながら苦笑している。そのやりとりを見ていた僕は、草田男の「楸邨氏への手紙」の時代から約半世紀に渡るこの師弟の不変の緊張関係を羨望する。

全力で突っかかる兜太と苦笑しつつ受け止める楸邨。

こんな師弟関係は今どこを探しても無い。

今回の俳句道場が終った瞬間、僕は兜太さんにお礼を述べ「先生、お元気でいてください」というと、兜太さんはニヤッと笑って、「ユー、ツウ」と返された。

you,tooあんたもな。ユー、ツウか。

帰りの車中、僕はこの一言を何度も思い返した。


(了)


 金子兜太三十句 今井 聖 撰

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ
死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む
朝空に痰はかがやき蛞蝓ゆく
舌は帆柱のけぞる吾子と夕陽をゆく
マッチの軸頭そろえて冬逞し
林檎投げてとどかす暗い事務の梁
子等の絵に真赤な太陽吹雪の街
きょお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中
屋上に洗濯の妻空母海に
港湾ここに腐れトマトと泳ぐ子供
まら振り洗う裸海上労働済む
漁場の友と頭ぶつけて霧夜酔う
帽のふちにつぎつぎ従属国の裸木
石炭を口開け見惚れ旅すすむ
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく
強し青年干潟に玉葱腐る日も
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
華麗な墓原女陰あらわに村眠り
どれも口美し晩夏のジャズ一団
霧の村石を投らば父母散らん
紙で尻ふく白さがすべての父母の村
夜霧の車窓デモ解散後の誰も映り
「どもり治る」ビラべた貼りの霧笛の街
犬一猫二われら三人被爆せず
二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり
暗黒や関東平野に火事一つ
怒気のはやさで飯食う一番鶏の土間
わが戦後終わらず朝日影長しよ
星がおちないおちないと思う秋の宿
子馬が街を走つていたよ夜明けのこと



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