2012-07-08

俳コレプラス 生駒大祐小論 ふわっと悲しい 上田信治

俳コレプラス
生駒大祐小論
ふわっと悲しい

上田信治


どの戸にも日のある秋と思ひけり

〈どの戸にも〉とは、たいへんふわっとした言い方で、それは家々の戸口のことでもあろうし、室内のドアや、戸棚の戸でもありうる。ともかく、目に入る戸のどの一つにも日が照っていて、この秋はそういう秋だと思った──と、この人は言うのだ。

綿虫や歩いて先に行つてしまふ

歩いて行くのは、誰だろう。まずは自分が歩いて行くように思い、句末からまた〈綿虫〉に立ちもどったところで、読み手は、綿虫に行く手をはばまれる。そして、行ってしまった人の輪郭うすい背中を見送るはめになるのだが、それはさっきまで自分だった人間の背中だ。

いずれの句も、ふわっとした把握で肝心なことが書き落としてあり、その書かれていない内容が、句に大きな空白を発生させている。

作者は、キャンバスをわざと塗り残す画家のように、そうやって書かない自由を楽しんでいるように見える。

それはある程度、意図的な言い落とし、あるいは口ごもりなのだろう。

七夕を小さな家の中にかな

このたどたどしくすら思える書きぶりが、七夕という素朴な習俗に響いて、呼び覚ますものがある。小さな家の〈中に〉〈七夕を〉飾る(?)という、ひとの心だけが書いてあり、それを介して、いにしえの人の思いのかたちが、ふと見えたような気になる。

いや、そんなことはいっさい書かれていないと言えば、その通りなのだけれど、何も書いてないからこそ、七夕→小さな家という言葉の連繋だけを手がかりに、アジアの貧しくささやかな生活の図が、心の隅をよぎったりもするのだ。

これらの句では、空白が、書かれるはずだったこと以上のことを発生させていて、そこにおそらく、この書き手の方法意識、というか方向感覚のようなものがある。



一方で、くっきりと全部が書いてある句もある。

あやとりに橋現るる夕立かな
噴水の止む間に見ゆる木立かな
西瓜食ひ終えあけぼの色の皮残る


三句とも、視覚的な現象の立ち上がり、入れ替わりの瞬間を描出している。

一句目、橋に夕立から広重の「大橋あたけの夕立」を連想してもいいだろう。手の中に線で書かれた記号が現ると同時に、絵のように典型的なイメージが現れるあざやかさ。

二句目、噴水が吹き上がることをやめて下落するとき、その向こう側に見えるのは、やはり垂直に上昇するベクトルを持つ木立である。噴水がまた昇るとき、木立は隠れる。その上昇下降の目まいのするような入れ替わり。

三句目、西瓜の皮の白と滲みあう薄い赤を〈あけぼの色〉とは、それだけでも良くできた好ましい直喩だけれど、自分にはそれに加え「後朝」というようなことが、どうしても連想されてしまう。

いずれの句も、ただ物質の世界を描写しながら、その現象の体験にとどまらないものが、立ち上るように書かれている。



じつはそれは、先に挙げたふわっとした句にも言えることで、これらのどの句にも、書かれることなく立ち現れるもう一つのものがある。

この100句中、かなり多様な方法論を試していると見える作者だけれど、一句に何かあえかな別項のようなものが立ち上がることが、達成目標として意識されているのではないか。

ふわっと書かれた句に現れるそれは、うっすらと悲しく、くっきりと書かれた句に現れるそれは、ひたすら美しい。



生駒大祐の書く情報量の少ない句に、悲しみのようなものが伴うことは、古い映画や録音音楽に似ている。聞き取りにくい声やにじんだ映像のようで、生きることの生々しさが剥落したあとに、残るものの感触がある。

彼は、口にできない悲しみを表すために俳句を選んだのだろうか。そう思わせるほど、この100句にはメランコリックな句が多い。それは〈明後日のこと貼られある冷蔵庫〉〈それはそれは見事な関東煮でした〉のような一見能天気な句にもうすうすとある、この人の作品の一つのトーンである。

そして、くっきりと書き込まれた句は、言いたいことの一つもない空間に、言葉の純粋な運動として書かれるから、美しいのだろう。



ひぐまのこ梢を愛す愛しあふ

熊の仔は木登りが得意なものだ。しかし、それを〈梢を愛す〉と言うことは、ずいぶん恣意的な言葉遣いである。そして、この人は、さらにそれを「(いや愛すだけではなく)愛しあっている」と性急に言いなおす。

熊の仔と梢が愛し合うのか、熊の仔どうしが愛し合うのか、この言い方では特定できないような気がするが、そうやって言い損ないすれすれに使われる言葉が、それを愛と呼ぶことの極端な切実さを重ねて主張している。

木の尖端における仔熊の動きは、空無を相手にしての自動運動のようなものだろう。

秋の日にこの戸もこの戸もと思いながら歩くことも、あやとりの手のあいだの空間に降る夕立も、きっとそれに類するもので、空無を相手にしての自動運動のような愛、とは、ひょっとしたら俳句に似たものかもしれない。

そういったものへ向かうことが、この人の方向感覚なのではないか。

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