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爽波の第三句集『骰子(さいころ)』には、第二句集『湯呑』に収録された時期の作品が40句収録されていますが、その辺りの経緯は爽波があとがきにて次のように述べています。
この度の句集『骰子』は、『鋪道の花』『湯呑』につづく私の第三句集である。個人的にはなるべく時系列に沿って読んでいきたいので、『骰子』は「湯呑」時代の句から鑑賞していくことにします。
『鋪道の花』では虚子選に入った句の中から気楽に選べばそれで事足りたし、『湯呑』は現代俳句協会の「現代俳句の一〇〇冊」のシリーズ出版に参加し、『鋪道の花』以後二十六年間の厖大な句から三百句と限られた句を抜萃という事であったので、かえってやり易い面もあった。
従ってこの度の『骰子』が自分自身、生みの苦しみを深く味わいつつ、我とわが手で編んだ始めての句集ということになる。
昭和五十五年から五十九年に至る五ヵ年の句四百三句と、巻末に「湯呑」時代として四十句を加えた。
『湯呑』が二十六年間の句の中から三百句ということであったので、句集と言うより抜萃に近く、またその抜萃のやり方にも手抜かりもあったし、自分なりに愛着の句もあるので、今更未練がましいという気もするが、このようにした次第である。… (波多野爽波『骰子』あとがき)
さて、今回から第三句集『骰子』の「湯呑」時代(昭和32年から54年)から。いよいよ『骰子』の鑑賞がスタートです。今回鑑賞した句は多分昭和30年代頃の作品らしく、『湯呑』の中でも第Ⅰ・Ⅱ章の作風と近い印象の句群です。
緑さす家やあちこち釘を打つ 『骰子』(以下同)
「緑さす」とは、初夏の若葉の鮮やかな緑を言う。仕事の関係で近畿中心に幾度も転居を繰り返した爽波。額縁、壁時計、帽子掛けと思い思いの場所に釘を打って、転居先の住まいを自分の場所にしていく。鮮やかな緑と相俟って、健康的な生活力を感じさせる句だ。
無花果を捥がむと腕をねぢ入るる
無花果はクワ科の落葉樹の果実だが、食用されるのは実のように見える花嚢という部分で、小さな花の集合体だ。幹から枝の出ている部分などに実を付けるが、捥ぐには枝や大きな葉が邪魔となる。そうした無花果の木の様と人の動きとが同時に目に浮かぶ。
鉄骨の林立のもと注連を焚く
小正月を中心に、十四日夜または十五日朝に行われる左義長(とんど、どんどとも)では、注連飾などを焚き上げる。河原や境内で催されることが多いが、それを囲む鉄骨の林立は、建設中のビルだろうか。発展し表情を変える街と、その中でも変わらないものと。
あきらかに昼の鵜川を流るるもの
鵜に鮎を獲らす鵜飼、掲句は明るい日の下の昼鵜飼だ。鵜匠も観客も鵜の動きに注目しているが、その間もゆったりと川面を流れてゆくのは、「あきらかに」と言いながら明示されない「もの」。一句の重点は物の具体性よりも「流るる」時間の方にあるようだ。
はやる馬木槿の垣へ押しもどす
馬と木槿という組合せは、芭蕉の〈道のべの木槿は馬にくはれけり〉を思い起こさせる。芭蕉句の馬と比較すると、掲句の馬の若々しい活力が際立つ。馬だけでなく、木槿の在り様、馬と対立する人の存在などが、緊密にスピード感をもって描き出されている。
赤のまま足ゆび緊めて物干す妻
赤のままとは、赤飯のような粒状の紅色の花を付けることによる犬蓼の花の異称。足元に視線を集中させて、妻本人も気づいてないような足指の緊張と犬蓼の赤とが、いずれも活き活きと感じられる。「あ」音と「ま」音を要所に配し、一句の響きも緊密である。
秋がくる跨がんとして櫓の長さ
櫓は和船を漕ぐための道具、櫓腕と櫓脚からなる継ぎ櫓が一般的で、西洋式の櫂とは構造が異なる。見た目からも櫓の長さは分かるが、跨ごうとした際にその長さが歩幅に換算され、改めてその長さを実感したのであろう。こんなところにも秋が訪れているのだ。
柏餅の太い葉脈メス煮られ
五月五日の端午の節句に供えられる柏餅。餅を包んで裏側を露わにした柏の葉の葉脈は太々と逞しく、強い生命力を感じさせる。煮沸消毒されているメスから、自宅兼医院といった風情の景が見えるが、メスと葉脈から連想は血管に及び、句に生々しさを加えている。
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