2012-09-23

【週俳8月の俳句を読む】「八月の濡れた砂」を俳句に見たか 馬場龍吉

【週俳8月の俳句を読む】

「八月の濡れた砂」を俳句に見たか

馬場龍吉
「八月の濡れた砂」。石川セリの歌と歌詞のことである。作詞・吉岡オサム、作曲・むつひろし。♪あの夏の光と影は どこへ行ってしまったの♪ 曲もさることながらタイトルの「八月の濡れた砂」。この一言で夏は尽きるのではないだろうか。と、総括してしまっては俳句の実も蓋もなくなってしまうのだが……。さて、週俳の8月の俳句である。


牡丹やあなたはいつもややこしい  石原 明

牡丹というと妙齢な女性。母親か叔母さんだろうか。いつも説教を喰らう相手だろうし、おそらく思考過程が違う相手だろう。言い訳にも時間がかかりそうだから聞いておくフリをしておくに限る。

一見つつましやかな女性に見えるが、身内には煩くなる姿はまさに牡丹だ。

 

バレエ教室日焼の腕さしのばす  押野 裕

日焼したバレエリーナの姿が鏡に映るバレエ教室。真っ白な歯の子供の笑顔の見える健康的な俳句だ。

 

夏萩や屈みつつ聞く舟唄も   松本てふこ

船頭はバイクで帰り雲の峰

舟中に聞く舟歌は一応旅程にあるから聞いてはいるが、自由気侭に咲き誇る夏萩に目を奪われている俳人の目がある。二句目、陸に戻った船頭がバイクで帰ってゆく姿は至極当然のことなのだが、名前と乗り物のミスマッチがあって面白い。仕事を終えて帰る充足感と清々しさが「雲の峰」にある。

旅吟をまとめた25句だが、海外詠に挑んだ意欲は伝わってくるものの、海外詠の難しさを露呈してしまったように思う。松本氏の俳コレ作品の〈たんぽぽのどこかみだらな踏まれやう〉〈豹柄の毛布の中の赤子かな〉〈寒鴉兵器の黒さとぞ思ふ〉〈寝化粧を心ゆくまで避寒宿〉〈冬霧にこれが旅情といふものか〉等々からすると少し物足りなさがある。

 

父逝きし夜や日本中揚花火  前北かおる

父を惜しむ追悼句のなかで、肉親を亡くした悲しみの日に、世の中の花火大会の打ち上げ花火の実況中継を目にする。家族に流れる時間と世間の時間のズレがここにある。しかし花火には元々慰霊の意味もあるから日本中が悲しんでくれているようにも思えたことだろう。

「詩歌梁山泊」に発表の『津垣武男納骨記』にも

大いなる柄杓のささる日向水

水かけて旱の墓を輝かす

があり、俳句としてはこちらがぼくの好みなのだが。

 

舗装路にペンキぶちまけ炎昼の   村越 敦

蔦茂るそのはじまりの蔦隠し

薔薇咲いて惑星の終はりは雨か

一句目、喉がカラカラになりそうなほど暑苦しい炎昼。ペンキ塗りの最中につまずいたかして引っ繰り返してしまったペンキ缶。そうそう舗装路というと〈金魚玉とり落しなば鋪道の花 波多野爽波〉を思い出すが、「ペンキぶちまけ」に瑞々しさがある。

二句目、たしかに蔦の蔓を辿って始発点を探す気にはなれないし、考えたこともない。着眼点が面白い。

三句目、SF的な匂いがただよう作品。この惑星はたぶん地球のことを言っているのだと思う。地球の終わりは太陽の接近か磁場の変異で、爆発するか氷河期になってしまうのではないか。「薔薇咲いて」の生き生きとした導入が「終はりは雨か」のショッキングな着地がさまざまな事を考えさせてくれる。

 

食パンの中に空洞朝ぐもり  谷口摩耶

隠沼を抜け凌霄の眩しかり

一句目、もちもちしてふわふわしている食パン。そしてパンの空洞の発見にシアワセ感が漂う。この発見に今日一日いいことがありそうな予感がある。

二句目、隠沼の視野には沼の緑と樹木の緑があるばかりだが、人里に降りてきた途端に凌霄の花が目に入る。生垣などに使われているせいか。沼もきれいだが里に降り立ったホッとした安堵感に人心地がする。

 

夏の日差しが都電を何度でもよぎる  福田若之

パンツなくして沖遠く泳ぐのだ

一句目、言葉の入れ替えで意味が随分変わってくるものだなー。と感心させられた。

二句目、〈愛されずして沖遠く泳ぐなり 藤田湘子〉の本歌取りだが、笑わせてくれるし実際にありそうな景だ。


谷口摩耶 蜥蜴 10句  ≫読む
福田若之 さよなら、二十世紀。さよなら。 30句
  ≫読む  ≫テキスト版(+2句)
前北かおる 深悼 津垣武男 10句 ≫読む
村越 敦 いきなりに 10句 ≫読む
押野 裕 爽やかに 10句 ≫読む
松本てふこ 帰社セズ 25句 ≫読む
石原 明 人類忌 10句 ≫読む

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