2012-09-23

〔古本という愉しみ〕 『スターシップと俳句』 三島ゆかり

【古本という愉しみ】
 『スターシップと俳句』
 

三島ゆかり


 『豆の木』第16号(2012年4月)より転載


古書店にも傾向というのがあって、まるでかつての自分の本棚のような店に巡り会うこともある。昨夏、実家にそのままにしてあった本の大量処分をそんな店にお願いした。換金されたいくばくかを財布に入れて店頭を眺めていたら、この本が目に飛び込んだ。ソムトウ・スチャリトクル/冬川亘訳『スターシップと俳句』(ハヤカワ文庫、昭和五十九年刊、絶版)。私が俳句の実作を始める十年前に出た本に、こんなふうに巡り会うのも何かの縁なのだろう。

変な本である。時代は一九九七年から二〇二五年まで行き来するが、二十一世紀の初めに「千年期大戦」で壊滅的に荒廃した地球が舞台で、いかにもSFらしく、ある種のテレパシーにより主人公らが危機を克服する話である。とまあ、基本は実にオーソドックスなのだが、そこに欧米人の日本文化理解へのパロディがまぶしてある。著者はタイ王家の血筋を引く当時の新進気鋭の作家で、のみならず作曲もものにし、NHKの音楽番組に出演したこともあるという。日本文化理解へのパロディで俳句関係というと、W.C.フラナガン著の日本語訳という体裁をとった小林信彦の創作『ちはやふる奥の細道』(新潮社、昭和五十八年刊、絶版)がほぼ同時代でわずかに先行しているが、タイ人作家による欧米人日本理解のパロディを日本語訳したもので日本人が読む、というよじれ具合もまた格別なものがある。

全体は四部に分かれ、さらにプロローグが付く。巻頭と四部それぞれの冒頭に江戸期の俳句が何かの象徴のように意味ありげに引用されている。ローマ字表示と英訳の雰囲気をそのまま生かして逆に日本語訳したものは、それだけでも可笑しい。

  ガイコツノ    見よ! 骸骨どもだ

  ウエヲヨソーテ  祝日の晴着をきて

  ハナミカナ    花を眺めているぞ

     ―――鬼貫(一六六一~一七三八)

の如し。以下、同様の体裁で各部冒頭には「美しき凧あがりけり乞食小屋 一茶」「春の海ひねもすのたりのたりかな 蕪村」「夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉」「荒海や佐渡によこたふ天河 芭蕉」が引用されている。

さて、プロローグである。舞台は一九九七年春。のっけから自殺である。二人の若者を前に、なんと金閣寺の老管長が謎めいた予言を残し飛び降り自殺する。刊行当時、三島由紀夫の自殺から十四年。切腹や神風特攻隊が決して過去のものではなかったことに、欧米人はさぞかしショックを受けたことだろう(ということにしておく)。彼らにとっては、日本人といえば自殺を愛好する民族なのである。

二人の若者は、イシダ・アキロウとタカハシ・ヒデオ。この二人は後に政治的に対立することになるが、老管長は次のように言い残す。「タカハシ、おまえはおまえの死の以前に、死をねがうことになろう。そして、イシダ、おまえは死ぬまえに生きたいとねがうことになる」「人類は五十年以内に非人類種属とコンタクトを行なうことになる。そして、おまえたちはその事件にかかわりを持ち、両名とも曲げることのかなわぬ人類のプランを押し曲げて、みずからのプランとするよう努めるであろう」と。ちなみに全編を通じ日本人名はこのように片仮名表記。また、おそらく原文で日本語がローマ字で取り入れられている場合「きこう」(貴公のこと)のように平仮名表記するなど、カルチャー・ギャップを誇張する方向で日本語訳されている。

以下、本章のあらすじを紹介する。主人公はイシダ・アキロウの娘リョーコ。それから、戦争で壊滅的な被害を受けたハワイを脱出して来日する日系人ジョッシ・ナカムラとその弟ディディ・ナカムラ。そして悪役として上記タカハシである。また、鯨は人類とは異なる高度な知性と文化を有していて、地球の終末にあたりテレキネシスを用い人類にコンタクトをしかける。物語上はだんだんと核心に迫るようにわざと時代を前後させるところに妙味があるのだが、長くなってしまうので編年体で記す。

二〇〇一年 「千年期大戦」勃発。月がふたつに割れるほどの大戦争で、ハワイでは戦後多くの人が後遺症で奇形となった。

二〇〇七年頃 日本は「歴史に戻れ」との政策を掲げる。真意は、世界の終末にあたり伝統的な様式によるセップクを奨励することである。

二〇二二年春 イシダ・アキロウの長女リョーコがハワイへの洋上航海中、鯨に話しかけられる。「きみたち人間の死に対する反応は、無知と感情の未熟さに根ざしている。そうじゃない、生命はわれわれの主要な目標のひとつではない。美しい死は無上の愉楽、知性の究極の達成なのだ。生命はただそのための必要条件としてのみ存在している」「われわれはもうとおい昔から、物質世界のバリアを突破したところにある永遠なるものについてしか考えて来なかった。しかし、いまやすべてのもののサバイバルが問題となってしまった」「きみの父上に、いまから六ヶ月後に大臣をみんなつれてヨコハマ港まで来なくちゃならんと伝えてくれ

同じ頃ハワイでも瀕死の鯨が浜に打ち上げられ、ディディにコンタクトする。ディディは言葉が話せず周囲からは知恵遅れと見られていたが、奇形のあらわれとして、ある種のテレパシーの能力があることがこの段階で明らかになる(それに対しリョーコは鯨から一方的にメッセージを受け取るだけである)。

リョーコとジョッシが出会う。リョーコは政府の視察団であり、ジョッシは奇形人の世話係で立場はまったく異なるが、ジョッシは日本の方がましな暮らしができることを知る。

二〇二二年夏 リョーコが鯨からのメッセージをイシダ・アキロウ大臣に伝える。イシダの役職は生存大臣。他省には秘密裡に、地球を脱出し恒星船による四千年の旅を志している。一方、ジョッシはディディを連れて日本行きを企てる。船代は持っていなかったが祖母の形見の歪んだテンモク茶碗を差し出したところ、二人の船長との間で争いが起こり、敗れた方がセップクする。美のために命を引き替えにする日本人というものに認識を新たにしつつ船に乗る。

二〇二二年秋 リョーコと三人の大臣が鯨と会う。イシダ以外の大臣は、タカハシ・ヒデオ終末大臣とカワグチ慰謝大臣。三人とも復古政策で僧衣をまとっている。鯨はリョーコのからだを借りて三人に話しかける。

イシダ「おまえはわれわれの恒星船(スターシップ)を要求するつもりなのか。」

鯨「スターシップなどについて、ぼくにいったいどんな要求ができるだろう?あれの寸法はぼくには合わない、内部環境も合わない、いったいクジラが人類に同行して、多世代宇宙旅行などできると思うか?」「この少女(リョーコのこと)を引きとってくれ。まもなく、彼女はまるで死んだようになるだろう。彼女を病院に入れてくれ、そして、彼女の卵巣をとりだしてくれ。そのなかに、あなたがたはいくつかの受精した卵を見出すだろう。それはぼくのチャイルドたちだ。かれらはプサイ的静止状態にあって、諸君が旅の目的地にいきつくまで分割をはじめることはない。彼女は心のなかに、諸君の科学者たちに対する指示をたずさえているから、かれらをどう成長させるか科学者たちに対する指示をたずさえているから、かれらをどう成長させるか科学者たちにはよくわかるだろう。われわれはあなたの仕事に、このわずかな分けまえだけを求める、ミニスター・イシダ。これは過大な要求だろうか?

さらに続けて鯨は鯨の祖先と日本人について驚くべきことを語る。

彼女(鯨の祖先の遺伝子改変者アアアアアイオオケカイア)は、あるときひとつの大いなる夢を見、そのなかでかわいた陸地の上の知的霊長類のあいだに、彼女自身のチャイルドを植えつけた。かれらはものを考えないが、偉大な道具のつくり手になる可能性をひめている、と彼女は考えた。われわれが力をくわえてやりさえすれば、と。彼女はありとあらゆる海域から千の千倍もの仲間たちを呼びあつめ、――当時、われわれは何百万もいたのだ――かれらはこぞって大いなる夢を夢見、あまりに夢見る力がつよかったので、そこにあらたな接合子がつくりあげられることになった。アアアアアイオオケカイアは苦心して出産のためにかわいた陸にのりあげ、そこにみずからのチャイルドたちを放置し、その大部分は――生きのこったものたちは――人類のかたちと心性とをもつものであった。しかし、千の千倍のクジラたちの夢見る力も、人類の真のファクシミリを創造することはできなかった。そこに同数の染色体があり、かれらが人類と交雑さえしたのは事実だった。しかし、いくつかのことがかれらには変えられなかった。それが諸君の美意識だ。これまでほかの民族によって、このことが幾度かたられてきたことだろう。諸君にあっては、あれは本能的なものだ。あの多くのゆがんだ茶器、あの不完全さへの歓びは、われわれの遺産なのだ。ヒチリキやシャクハチの蕭々たるあの音色は、諸君の祖先の記憶の深みから発する叫び声なのだ。そして、死の歓びもまた――あれもまた永遠への跳躍の記憶なのであり、クジラが超越的な啓示のさなかに、銛に出会おうと歓喜とともに突進していく姿なのだ。

このことは終末大臣タカハシによって利用され、かつて捕鯨民族だった日本人は政府のキャンペーンにより先祖殺しの罪深さを認識し、ますます自殺に駆り立てられる。リョーコと鯨の出会いを題材とした新作カブキ「鯨波白暮浪漫譚(いさなみはくぼのろまんす)」が上演され、劇中では少女は崖から身を投げて死ぬ。このカブキを観て感動した人々が多数自殺した。そんな中、イシダはリョーコに宇宙に脱して欲しいと伝えるが、彼女自身劇中のヒロインに恋いこがれていたため、イシダは失意のうちに自殺する。

以後、物語は死の帝王と化したタカハシの恐怖政治が延々と描写され、それに終止符を打つべく、リョーコおよび日本で偶然に再会したジョッシ、ディディ兄弟の三人が活躍する話に転じて行く。困難な場面を切り開くのはどの場面でも、ディディのテレパシー能力であり、スピリチュアル小説の趣さえ感じられる。日系人ディディは、戦争後遺症による奇形のあらわれとして、先祖返りで鯨のコミュニケーション方法を使えるようになった。そのテレパシー能力を「真の話法(トゥルー・スピーチ)」と呼び、人類の言語とは異なるため、作中では例えばこのように記述される。

 ディディは真の話法(トゥルー・スピーチ)を使うたびに衰えて行く。そしてクライマックスではタカハシ、リョーコ、ジョッシの心の壁を破壊して大団円に向かうとともに、ディディは絶命する。
 さて、俳句である。本書にいくつもの江戸期の俳句が引用されていることは、先に述べた通りである。この稿を書き始めるにあたり、私はストーリーと引用にどのような関係があるのかを述べながら、この魅力的なSF小説を紹介できればいいかな、と考えていたが、読み返すうちに思い直した。

イシダ大臣がまだ生きていた頃、リョーコが父に鯨との出会いを熱く語る場面がある。

「いま思い出しても驚くのは、そのクジラがとても日本的だったということですわ。まるで日本人みたいに、かれは死について語りました。かれならきっとフジサン(作中のゆがんだ茶器の名前)が理解できたと思います。それだけでなく、ティー・セレモニーやハイクや、昔のガイジンのエキスパートが、わたしたちの文化のなかで、奇妙すぎてとてもついていけないと考えていたすべてが……オトーサン、信じていただけないのね」

また、ジョッシがまだ弟の能力に気づいていなかった時期の描写で、以下のくだりがある。

歩きはじめると、ジョッシの心のなかをひとつのイメージが飛びめぐった。ある光景の記憶、外部から心のなかに映写されているのかと思えるほどそれは鮮明だったので、かれは思わずあたりを見まわしてなにかを捜しもとめたが、そこには弟しかいなかった、無害なひとりの子ども――

   銀針林立

   黒きもの飛び出でて

   海や海

そのイメージそのものがひとつのハイクであり、完結にして完璧、測りがたい意味を秘めていたので、かれはぎゅっと目をつむり、そのいくつもの針をもっとはっきり見ようとした。

結局のところ、このSF小説の設定上では、俳句は鯨の言葉だから外国人には理解できないものであり、それゆえに実は俳句とは真の話法(トゥルー・スピーチ)そのものなのである。

常日頃、俳句を技術的な手法に還元しようとしたり、韻文と散文の間の隔たりに頭を悩ませたりしてきたものだが、真の話法(トゥルー・スピーチ)だと割り切れば、一切合財腑に落ちるではないか。こんなふうに。




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