2012-10-14

【週俳9月の俳句を読む】何がやりとりされているのか。 田島健一

【週俳9月の俳句を読む】
何が〈やりとりされている〉のか。
 ~週俳9月号を読んで感じたこと
 

田島健一


俳句はいったい、何を成し遂げようとしているのだろう、と考える時がある。

そこに句があって、それを書いた人がいて、それを読む人がいる。
その間で何が起きていて、それにはどんな意味があるのか。

〈そこでやりとりされているものは何か。〉

これは、大きな誤解かも知れないが、俳人の多くは自分たちがどのようなゲームに参加しているのか、ということに気づいていないのではないか。

俳句は、座の文芸と言われる故か、あるいは句会という形式が浸透しすぎている故か、句の良し悪し、評価、好悪に躍起になりすぎている。

けれども、そのような評価・好悪とは異なる位相で〈やりとりされている〉俳句以上の何かがある。

それは何なのか。


桃又桃ねぢまはし又ねぢまはし   るふらんくん


俳句には〈私〉という問題がつきまとうが、突き詰めて言えば「俳句自動生成ロボット」が作成した句も、この〈私〉の問題から自由ではない。

意外に思われるかも知れない。

けれども、そもそもここで言う〈私〉というものが何なのか、ということが問題なのである。

たとえば、サッカー選手はその試合の中で、ひとつのボールをやりとりするわけだが、選手ひとりひとりのプレーだけを切り抜いてみれば、彼らは〈私〉を表現しているわけではない。

そこで表現されるのは、そこでやりとりされているボールにまつわるプレーであり、そしてボールは、選手個々の〈私〉では捉えることのできない、「勝手な」動きをする。ボールは、ひとつの〈主体〉としてふるまう。

選手たちの〈私〉は、「ボール」の動きに翻弄される。そして、それはフィールド内の選手だけでなく、ベンチのコーチ陣や、それを見ている観客、テレビの視聴者、すべての〈視線〉が同様である。

ファンタスティックなプレーは、いつでもそれに関わる人々の〈私〉が翻弄された結果である。

ここで現れる〈私〉とは、そこに集められた〈視線〉が想像的に共有している、一種の〈消失点〉である。

このとき、プレーヤーのひとりが「ロボット」であっても、この仕組みには何も影響を与えないのである。

何かそこで表現されたものが、表現したものの個人的事情や歴史的必然性を持つことが、俳句の価値基準であり、最も人間的なことであると信じられている気配があるが、そうではない。

人間的なもの、とは、ゲームに巻き込まれた〈視線〉そのものの中にある。

だから、極端な話をすれば、プレーヤーすべてがロボットであったとしても、それに巻き込まれた〈視線〉が多少とも介在することで、そこに人間的なものが立ち上がる。それが、いわゆる〈意味〉と呼ばれるものである。

ここで問題となるのは、そこにある〈視線〉を翻弄するものが何なのか、ということだ。

繰り返すが〈私〉とは、一種の〈消失点〉である。

それは、句がある中心となる一点に収斂することを意味する。

読み手は句の中に、そこで起きていることを過不足なく説明するための、中心となる一点を見出そうとするのである。


梶芽衣子野良なる奈良の恋牝鹿   井口吾郎

我が沢庵自慢魔人芥川


「回文」という、この読み手をくすぐる方法もまた、そうした中心となる一点を生みだすためのカテゴリである。
それは、言語的な意味とは無関係に、メタレベルで機能する。

この「メタレベル」と「意味」との相互関係によって、回文俳句もまた読み手に「中心点」を与える。

読み手が、そうやって「中心」を必要とするのは、読み手が抱えている〈私〉という言わば「物語」を維持するためである。

読み手のなかに形成された「物語」で説明可能なものとして、句は読み手の〈私〉に消費される。

いわゆる「日常」あるいは「非日常」と呼ばれるものは、こうして「読み手」の理解可能なものとして、知に還元される。

ここで注意が必要なのは、「非日常」もまた、この「物語」の中で説明可能なものだという点である。

「非日常」は、「意味」のレベルで「日常ではないもの」として、読み手の理解可能な領域にある。
だから、どんなに突拍子もない「意味」をもったものでも、それは「非日常」として、「メタレベル」で機能している〈私〉に
支えられている。

回文俳句は、そうした俳句の「日常性」を支える糧である。

では、そうした「日常」を打ち砕くものは何なのか。

「日常」と「非日常」の境界線とは異なる位相で、日常に「反」する抵抗として現れる「反日常」的なもの、〈私〉を翻弄する「俳句以上」のもの、はどのように顕現するのだろうか。

「反日常」とは、言わば〈言い間違い〉〈息切れ〉〈痙攣〉〈アレルギー〉である。

例えば、一見「回文」として作られたように見える句の一音のみがずれている、という様なケースを想定してみよう。

それは、どこまでも「回文」に接近しながら、その一音があるために「回文ではない」。
それが、単なる印刷ミスなのか、何か作者の意図なのか、あるいは読み手の知らない別のルールがあるのか。

まるで、美しい美女の顔に位置する黒子のように、それは意味をもたずに、意味を意味する。

肉眼では収斂しているように見えて、よく見るとその〈消失点〉がずれている、ということ。この〈ずれ〉。

実は一見つまらないこの〈ずれ〉が、俳句が内在する〈私〉を翻弄する。

ここにおいて〈私〉はゾンビ化する。

愛する妻が、一度死んで、ゾンビとして生き返って戻ってきたケースを考えてみるといい。

見た目には生きているときとさほど変わりはないにも関わらず、その言動やしぐさに生きていたころと異なるほんの些細な〈ずれ〉を感じる。その〈ずれ〉が夫を恐れさせる。

俳句は、そのような〈ずれ〉を生み出す〈主体〉を、やりとりしている。
句は、作者から読み手へのパスである。それは読み手の〈私〉から少しずれたスペースへ、「そこへ駆け込め」というメッセージのごとく放たれる。

実は俳句は、その〈ずれ〉がすべてで、それこそが〈意味〉なのである。


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