2012-10-21

「湿ったもの」の正体 柴田千晶『生家へ』を読む 三宅やよい

「湿ったもの」の正体
柴田千晶『生家へ』を読む

三宅やよい


柴田千晶の『生家へ』所収の「狢」「錆色の月」は詩人松下育男中心に発行する詩誌「生き事」五号で読んだ覚えがある。その詩誌の企画で柴田の作品は「しめっている」を意識して作られた詩だったように思う。今回一つの詩集として編まれるのにそのときの意図とは違っているだろうが、今回の詩集と同様に俳句と詩によって構成されている。まずは「俳句と詩」の組み合わせに注目したい。

同じように俳句と詩を組み合わせた詩集に辻征夫の『俳諧辻詩集』がある。「詩は簡単に言えば滑稽と悲哀ではないだろうか」〔※1〕と言う辻は冒頭の一句を詩に組み入れつつ詩を構成している。そこに収録されている句は詩人の集まる「余白句会」で作った俳句であるが、句についてこの詩集について次のように語っている。

かつて現代詩は、伝統的な文芸である短歌俳句とは別の地点に独自な詩の世界を確立しようとしたが、私たちはすでに<別の地点>という力みからも自由であることを自覚している。これは同時に、詩の成熟の自覚といってもいい。
―中略―
冒頭に、(句会の参加者は)みな詩を書く連中ばかりと書いたが、この句会から詩になにを持ち帰るかは各自の勝手ということになる。私は二年前の春から自作の句を突き飛ばすような感じで「俳諧辻詩集」という連作を試みているが、これも元をただせば現代詩は痩せすぎたのではないかという思いから来ている。江戸以来の俳句は簡潔な認識と季節感の宝庫であり、それは気がついてみれば現代詩にとっても貴重な遺産だった〔※2〕
辻が俳句に現代詩にはないものを俳句に見出し、自らの詩に組み込んだ。しかしそれは俳句をノスタルジックに扱うのではなく、「自作の句を突き飛ばすような感じ」で詩を生み出したのであって、俳句はそこを通り抜け詩の未知の領域へ踏み込むトバ口のようなものだったのだろう。自分が本気でかかわる小説、あるいは詩とは別の位相に俳句を置く、文人俳句に多く見られる余技としての俳句とは明らかに違う。

かたや柴田千晶は俳句に何を見たのか。
俳句は定型の枠に従順に収まることを望まず、定型を簡単に破ることも望まない。一句の中で風景、肉体、記憶、時間、イメージ、色彩、観念などが犇めき合い爆発寸前で屹立している。
―中略―
定型という枠のない詩もまた怖ろしい。果てしなく増殖してゆくイメージに溺れてしまえば帰る岸を見失う。この二つの詩型が私を鍛えてくれた〔※3〕
辻が俳句に現代詩にはない風通しの良さと季語を中心に織りなす言葉の体系に魅惑されたのに対し、柴田は俳句の言葉にみっちりと折り畳まれたイメージの豊穣さに惹かれた。それぞれが俳句に求めるものは違っていても、俳句と詩の関係を模索する過程で新たな詩を生み出していった点については同じといえよう。

柴田は自身の俳句が内包するイメージと格闘するように『生家へ』の詩を書き綴ったという。一見、冒頭の俳句を軸に展開する散文詩の構成に思える。題でもなく、始まりの一行でもなく、この俳句の位置は何を意味するのだろう。

詩が次の行へ飛び移るに似た余白を眺めながら考える。節目、節目に置かれた俳句が物語の展開の軸になっているようだ。この物語を語っている作中主体と俳句の語り手の視点は同じ立ち位置にあるように感じられる。自らの俳句に触発されて動き出した詩が今度は逆に全体の象徴ともいえる俳句の言葉を嘗め尽くし崩壊させてゆく。

  春の闇バケツ一杯鶏の首

暗く沈む厨房の一角に置かれた鶏の首が盛られたバケツは「室井商店の前を通りかかると、きまって大きなバケツを提げた短軀の男が店の奥の暗がりから現れた」という描写から動きだす。一つのショットから物語が始まる映画と同じ構造だといえる。各章、それがグロテスクなまでの男女の性愛になだれこんでゆく。まるで私たちの日常が淫靡なものを隠す仮構の入れ物であるかのように、街角を、家をビルの一室にいる人間をめくりあげ「湿ったもの」を引き出してゆく。

その語り口は話の主体である女性を凌辱するかのようで、俳句を契機に詩で発情してみせるのだ。柴田の作品は無名性の強い俳句にも自己演出された「作者」の影が濃いが、詩ではさらに「自己もどき」の濃度が増している。というより、あえて読者の誤解を誘うよう挑発しているとも言える。表出の過激さにおいて詩においても俳句においても柴田は甘やかな抒情と手を切っている。

柴田が表す体は男性が女性の「身体性」と語るとき頭に思い描く女性らしき身体または、女性が男性を引き付けるために差し出す媚を含んだ「身体性」とは明らかに違う。見せられると嫌な女の性欲があからさまな「身体性」である。しかしそのぬめった性欲も交錯する死と隣合わせであるがゆえに滅びを予感させ、肉体があることの悲哀さえ感じさせる。

  廃棄物の祭始まる梅雨夕焼

俳句を節目に展開する世界は性の淫靡さを言葉で突きつめながら展開してゆくが、週刊誌の見出しや日常的なニュースが興味本位でしか取り上げない血なまぐさい現実や、残酷と言ったものを前面に押し出してくる。目をそらすな、見ろ。フィクションであるはずの言葉が悪夢のようなイメージを膨らませ、読むものの肉体にすがってくる。白っぽい日常に隠ぺいされた世界を過剰なまでに読者に突き付けてくる。人が人であることを裏切り続けながら生きている日常の欺瞞を知らされるのだ。

しかし、一つ不満を述べれば話が面白すぎる。

ストーリーテラーとしての柴田の資質が踏みとどまるべき言葉を追い抜かして話を形づくってしまったように感じる部分がいくつかあった。ここまで書いてしまうと小説に手がかかっているのでは、そんなことも予感した。

「俳句」と「詩」性格の異なる二つの詩型を抱え込みながらどちらにも手を緩めない柴田千晶渾身の第五詩集である。


〔※1〕辻征夫「滑稽と悲哀」:『ゴーシュの肖像』(2002年・書肆山田)
〔※2〕辻征夫「遊び心と本気」:同
〔※3〕柴田千晶『生家へ』あとがき

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