【不定期連載】 牛の歳時記
第12回 秋澄む
鈴木牛後
秋澄む 秋になると(中略)空気が澄むと言われている。気温が低くなることも関わっていよう。眼に入るものすべてが、くっきりとして、鮮やかに見える。同時に、耳に入るものすべてがはっきりと聞こえるようにもなる。(角川俳句大歳時記)今回は、牛飼いの日常をちょっと離れて美術の話(牛に関係はありますが)。
9月の記録的な残暑とはうって変わって、10月はすっかり雨の毎日である。そんな中、10月8日は雨の間にぽっかりと浮かんだような好天となった。この日は、牛版画家の冨田美穂さんの「牛の温度展」を見に深川市まで出かけてきた。
高速道路を使えばいくぶん早いのだが、秋の澄んだ空気の中を走りたくて峠を二つ越える道を選んで行った。稲刈りを終えた田んぼには人影はほとんどなく、あちこちで籾殻を焼く煙が上がっていた。2時間ほどで深川市のアートホール東洲館という美術館に着き、階段を上がると、冨田さんの懐かしい笑顔と、正面にほぼ等身大の牛の版画が迎えてくれた。
実は冨田さんとは主にネットを通じて数年来の付き合いがあり、実際に版画を見せてもらうのも二度目なのだが、こうやってたくさんの作品をじっくり見るのは初めてだった。見て最初に思ったのは、「本物の牛よりも牛らしい」ということだった。牛のからだの肉付きはもちろん、体表の凹凸による光の反射の具合や、毛の一本一本の流れ方までつぶさに観察して再現している。それはもう感嘆の声を上げずにはいられないほどだ。
でも、帰ってから我が家の牛を見てみると、「あれ?違う。」と思った。版画は版画でとても牛らしいのだが、やっぱり本物とは違うのだ。でも、そのことによって冨田さんの版画に対する感動が薄れるわけではまったくない。それはどうしてなのだろう、と少し考えてみた。私には美術の知識はまったくないので、素人考えであることを前もってお断りしておかなくてはいけないが。
冨田さんの版画の牛は、彫刻刀で毛をひたすら彫り続けることによってできている。そう、牛は実は毛でできていると言ってもいいかもしれない。版画は彫刻刀の幅より細かい表現はできないので、実物と比べてみるとその毛はかなり大まかだと言えるかもしれない。それが、実物の牛を改めてみたときに、「違う」と感じた原因であろう。しかし、作品を思い起こしてみると、そんなことは実にとるに足らないことのように思える。
それは、版画の限界をふまえた上で最大の表現をなし得ているからではないかと思う。彫刻刀によって、睫毛や耳の毛や、牛の背や腹の毛の流れなどをシャープに描き出すことで、毛の集合体である牛の全体を牛らしく見せているのだと思う。ふだん人々は牛を「かたち」として理解しているのだが、冨田さんの版画に触れることで、大きな牛の「全体」も「細部」の積み重ねでできているということを一瞬にして了解させられてしまう。正直言って、牛飼いの私でさえ冨田さんほどは牛を観察したことはなかったと思う。だからこそ、その細部のリアリティに、「牛より牛らしい」と感じさせられてしまったのだろう。
ここから俳句の話に持って行くのは俳人の悪い癖かもしれないが、俳句も版画と同じではないかとふと思った。十七文字という限界と季語を入れるという制約があるからこそ、そこに書かれた些末とも思える事実から、それを包んでいる大きな世界を読者に想像させることができるのではないか。少なくとも名句というのはそういうものなのだろう、と。
そして夜には家に戻り、また牛舎へ。牛の毛の生え方などいつも見ないようなところまで見たりして、冨田さんの版画のような俳句とはどのようなものだろうかなどと、答えの出そうにないことを考えながら、この日の仕事を終えたのだった。
刷られたる牛の墨色秋澄めり 牛後
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