【週刊俳句時評72】
「格闘のさ中」に
松尾清隆
愛媛新聞の「五七五に懸ける夏 第15回俳句甲子園」という企画で8月31日に掲載の特集記事「出身俳人の挑戦(1) 作風を超えて 神野紗希」に、
「結社の句会で、主宰だけが私の句を採ってくれた」
神野紗希(29)は、年長の俳人がうれしそうにそう語るのをよく耳にする。結社に所属する人にとって、無上の喜びらしい。
そのたび、首をかしげてしまう。
「主宰一人が評価した句より、多くの人が選ぶ作品の方がいいんじゃないの」
いい俳句とは何か。そう思いをめぐらせたとき、先輩俳人とのギャップを感じることがある。
という箇所があった。かつて、神野氏自身がこうした「ギャップ」について「世代論ふたたび」(本誌第168号時評)という文章のなかで、
白魚のさかなたること略しけり 中原道夫
水の地球すこしはなれて春の月 正木ゆう子
まだもののかたちに雪の積もりをり 片山由美子
春の水とは濡れてゐるみづのこと 長谷川櫂
夏芝居監物某出てすぐ死 小澤實
てぬぐひの如く大きく花菖蒲 岸本尚毅
といった昭和30年世代の句や30代作家(当時)の句を挙げたうえで、
季語を題の主に据えることの多い昭和30年世代の俳句を読むには、まずもって季語への理解が前提となる。彼らにとって望ましい読者は、俳句(季語)に関してある程度の知識をもつ読者、ということになるだろうか。(中略)そんな上の世代を見て、私が思ったのは、人はそんなに優しくしてくれないんじゃないのかな、ということだった。だから、自分が俳句をつくるときには、もっと分かりやすく、しかし飽きられず、タフで、なおかつ繊細な美しさも持つ、もっともっと強い句を目指さなければいけないような、そんな予感がした。
と、より具体的に書き記している。
前掲の愛媛新聞の記事では、伝統系から前衛系まで、異なる評価基準をもつ俳人が審査員を務める俳句甲子園の輩出した若手俳人という点に主眼が置かれており、後者では、季語にまつわるリテラシーや平明と晦渋といった問題が読者論として語られている。20代を代表する作家としての存在感がなんとも頼もしい。だが勿論、このような問題意識は決して神野のひとりのものではなく、長い年月、多くの俳句愛好者に共有されてきたことでもある。
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先ごろ上梓された『伝統の探求〈題詠文学論〉』(ウエップ刊)には「俳句で季語はなぜ必要か」という副題がつけられている。この本のなかで著者の筑紫磐井氏は、
「有季の根拠はただ一つ、俳句が題詠詩であることによる」
「近代文学が題詠詩を滅ぼしたのが短歌のジャンルであり、近代文学が題詠詩を滅ぼしきれなかったのが俳句のジャンルである」
「現在、俳句は伝統題詠詩と(題詠性を認めない)文学との格闘のさ中にある」
と述べる。
つまり、俳句は明治以来ずっと「近代文学」との「格闘のさ中」にあるのだという。おそらく、神野が想定した「読者」というのは、筑紫がいう「近代文学」のそれであって、「俳句(=題詠詩)」が「近代文学」と対立するものであるとすれば、そこにギャップが生じるのも当然といえよう。同書では、互選による運座のシステム自体が江戸時代には存在しなかった(宗匠だけが選をしていた)ことなども解説されており、冒頭に引用した「主宰一人が評価した句より、多くの人が選ぶ作品の方がいいんじゃないの」という神野の感覚を明治の俳人たちもある程度共有していたことがわかる(だからこそ、いま互選のシステムが定着している)。虚子と碧梧桐の作風の変遷や戦後の難解派をあつかった「平明と晦渋・難解」という章もあり、われわれの抱く多くの疑問にこたえてくれる。
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2012-10-21
【週刊俳句時評73】「格闘のさ中」に 松尾清隆
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