2012-12-02

【落選展2012を読む】落選展よ水戸橋よ(一) 島田牙城

落選展2012を読む
落選展よ水戸橋よ(其の一) 

島田牙城



さういふ橋はきつとあるだらう。

うん、あつた。水戸街道の小菅あたり、綾瀬川に掛かる橋らしい。真上に首都高速小菅ジァンクションが掛かつてゐる。このジャンクションを通る人はこの先、この下が水戸橋かと思つて下さいね。

水戸黄門が妖怪を退治したのに因む命名だと、あるウェブサイトに記されてゐた。真偽は知らぬ。

僕が黄門様な訳も無いし、これから読む二十三編の落選作が妖怪な訳も無いけれど、なんといふ誤変換よと、楽しくなる。

ただ、このタイトル、気に入つてゐる。

俳句にとつて、付かず離れずなんてもう古いのではないか。波多野爽波が難解だと毛嫌ひされ、田中裕明が正しい理解もないままに打ち捨てられてゐた時代を過ぎ、今この二人に注目が集まつてゐるといふのは、「離れてゐるのに付いてるみたい」な俳句が面白いよねとなつてきたからではないか。

この理解からは、

帚木が帚木を押しかたむけて 爽波
大き鳥さみだれうををくはへ飛ぶ 裕明

には近づけないけれど、少なくとも、

大金をもちて茅の輪をくぐりけり 爽波
更衣一神教に遠けれど 裕明

などの理解を助けてはくれるだらう。

大金と茅の輪に、更衣と一神教に、それぞれ何の因果も無いのと同じやうに、落選展と水戸橋にもなんの因果もないのであつた。



では始める。

恋愛が模型の丘に置いてある 福田若之


「現代」を「今」の言葉で「自由」に書かうとして「さびしい」んだね。この人は。

模型の丘を言葉通り街の模型とか玩具を想像するよりも、現代の都市の丘をかう表現したと読む方が面白からう。

遊歩道が整備され、芝が貼られ、立ち木が程よく配置された中に、四阿やベンチが設けられてゐるやうな人工的な丘。

そこには恋愛発生器が置いてあり、恋愛もまた人工的に作り出される。

いや四阿やベンチと同じやうに、男女がキスをしてゐるやうな恋愛模型が置いてある図か。

動物の本能が生ましめる恋愛を離れた、模倣としての恋愛。綺麗事。人を好きになることまでをマニュアルに頼らなければならなくなつた現代の若者像か。

のどかだねカチューシャは凶器になるね 同

も面白いけれど、全体を通すと「書かう」としてゐる意識が目障りであつた。

からだから滲み出す倦怠感がもつともつと句の奥に沈潜すると、ユニークな書き手になるのではないかな。



銭湯の番台に煮るおでんかな 杉原祐之

≫読む ≫テキスト

五十句目で漸くチェックが付いたのだけれど、この句にしても「まんま」感が拭えない。

推敲すればこの題材から十句は生まれるだらう。その下書きで終はつてゐるといふことだらう。

〈おでん煮えゆく銭湯の番台に〉〈女湯遠しおでん煮る番台に〉〈番台に煮えるおでんへまるはだか〉……百句くらゐ書けさうな予感がしてきたから、やめよう。それだけ、素材としては昭和半ば生まれの男を刺激したといふことだ。

〈年礼→新しく〉〈宿直→朝一番〉〈朝日→眩しく〉〈遠花火→終点〉〈空地→虫〉〈御用納→シュレッダー〉

おいおい。俳句を甘く見過ぎてゐやしませんか。



大桜の日裏の枝の濃かりけり 前北かおる

≫読む ≫テキスト

あと〈前に富士背に上総富士浅蜊掻く〉〈各棟へ道分かれゆく菫かな〉かな。

ただ、掲句には注文がある。「大桜の」の〈の〉は要らないでしよ。〈日裏の枝の濃かりけり〉がしつかりした把握なのに、この〈の〉で間延びさせてしまつた。

それとこの人は、一句に材料が多すぎるよね。

〈城門・駐車・藪椿〉〈石畳・白杖・彼岸寺〉〈店先・電車・桜餅〉〈糸桜・日本・郵便局〉〈春昼・鳩・イルカショー〉。

踏み込み不足だから材料が増えるのだらう。もつともつと我慢の句作りをしてほしいなあ。



関節の足らぬさるすべりの咲けり 飯島葉一郎

≫読む ≫テキスト

面白さうな人発見。目を瞑りながら物を見てゐる俳人とでもいふのだらうか。

シュールといへばさうなんだらうけれど、この人は、目と実景の間にある見えない壁を取り払ふことで始めて見えてくる景色を書いてゐるのではないだらうか。

写生派や極楽派は、見てゐるものを疑はないんだよね。

見てゐる目が曇つてゐるかも知れないし、目と実景の間にたくさんのフィルターが掛かつてゐるかも知れないのに、疑はないんだよ。

さるすべりは植物であるといふことを疑はないから、さるすべりの関節が見えないんだよね。でも、葉一郎さんにはそれが見えてゐる。

穴子百匹夜の大動脈にもぐる 同

この大動脈つて何だらう。

穴子のつぶらな目が二百、僕の心臓めがけて泳いで来る図を想像してごらん。総じてこの人の俳句は、僕を身震ひさせてくれるんだよ。

異端の正統派。

ただ、五十句で読んでみると、後半バテたのかな。〈椅子に椅子積み重ねてや春の暮〉とか前半はいつぱい印を付けたけれど、後の方にいくと〈モモイロハリエンジュの蕊いつまでも頭上にある〉など数句にしか印がつかなかつた。

そして〈河童〉〈舌〉〈言葉〉など特異な材料の重なりも気になるなあ。

大きく化ける人だよ、きつと。



はくれんやちひさな駅で乗り換へる 高梨 章

≫読む ≫テキスト

この句はすごく気持が良い。句に広やかなものが流れてゐるからだらう。

ただ、あとの四十九句とのギャップが僕には理解出来ない。

そもそもなぜ「音楽」といふタイトルなのだらうか。

風ひかる音楽室に水充ちて〉はあるけれど〈音楽室〉と〈音楽〉は違ふだらう。

そして五十句のあちこちにちりばめられた短律や長律の句の語感は、ちよつと僕とは相容れない音感の持ち主のやうだ。ごめん、読めない。



永き日や擦つて燐寸に火の点けば 上田信治
五月の雨自分の靴が歩いてゆく 同
てふてふの誰とも遇はず日の暮に 同
月おぼろ二つのごみを一つにし 同

≫読む ≫テキスト

「二つ」がタイトル。

〈月おぼろ〉の句が及第点であることをちやんと理解してゐる人といふことなのだし、……、あれ、一句目が〈二つある小さな方が春の橋〉なんだね。

これさあ、狙ひが見え見えではないのかなあ。

で、この句、議論出来るよね。〈小さな方が春の橋〉でいいのか〈大きな方が春の橋〉のほうが面白いのか。僕は〈大きな方〉へ挙手するな。

それと、後半に行くにしたがつて「て」の多用が気になつたよ。

(以下、次号)

0 コメント: