2012-12-02

〔句集を読む〕 武田肇『フィロゾフたちの回帰』 事物から見る「聖なる名」の欠落 関悦史

〔句集を読む〕
武田肇『フィロゾフたちの回帰』
事物から見る「聖なる名」の欠落

関悦史


『フィロゾフたちの回帰』は、武田肇の前句集『二つの封印の書』以後一年間の未発表作品百句と拾遺編(挟み込みの別紙に三五句)を収めた第六句集である。

全体へのエピグラフとして「聖なる名が缺落してゐるのだ es fehlen heilige Namen」(ヘルダーリン)が付されている。

著者はタイトルの「回帰」について跋文で説明する中で、ポアンカレの回帰定理に触れる。

「ポアンカレの回帰定理」をWikipediaで引くと、これは天体の三体問題の研究から到り着いた定理で、「力学系は、ある種の条件が満たされれば、その任意の初期状態に有限時間内にほぼ回帰する」というのが概要だが、さしあたりはその先の「力学系は初期状態の近傍に戻るだけであり、初期状態そのものに戻るとは限らない」の部分だけ押さえておけば大筋問題ないだろうと思う。

というのは跋文は「そしてつねに、無限小の特異點の導入こそが重要と提言しておかう…」と続くからで、これが武田肇の世界観にして俳句観の、現在のところの基底を成していると思われるからだ。

頻出する聖性と審美のモチーフが、個人的求道にも現実逃避じみた幻想にも結びつかないのは、この哲理への欲求があればこそだ。その哲理そのものをも改めて審美化すべく、五七五の形に研ぎあげ、匣に秘蔵するといった風情が武田肇の句にはある。


大岩の近くは歪む花曇
重なれる數(す)人岐るる山櫻
罪ありと冷し牛吾(あ)を見てるらし
ステンドグラスはづせば重き秋日かな
三階の露人めざむる大晦日
音盤(レコオド)の廢てられてゐる春日かな   ※
繭玉に微かにうごく思料かな   ※
足納(い)れる机も脚の枯野かな
 佃島
七八人月の裏戸に固まりぬ
人のゐるいへの暗さや豆の花

「※」は別紙の拾遺編より。

この辺りも「無限小の特異點」によるずれ、歪みを孕んだ句か。古建築の木材のような量感と落ち着きを持つ詠みぶりの中に、微かに不穏なものが混じる。

男に檻と公眾便所けふの月
 築地本願寺。一童子のわが前に立ちけるを露拂ひと見て
千歳(せんざい)の後(しり)に隨きゆき初詣
少女(をとめ)てふ撥條締むるまで卯波
軍艦島を少年ゆめむ靑みつつ


耽美趣味的な句にもそうしたずれ、歪みは潜んでいるがこの作者の場合特徴的なのは、「月」「千歳」に代表される、回帰する長大な時空と個物との間の止揚的な関係がつねに意識されていることだ。本願寺の初詣でたまたま前に並んだ子の後(しり)もたちまち千年の時の回帰に位置づけられるのである。

完熟の黑い聖母(ネグラ・マリア)に腋の壺
扇風機父の裸を見たる者   ※



「腋の壺」とは腋壺(腋の下)を開いた言い方か。ヨーロッパ各地に点在する「黒い聖母」像の異教性を「完熟」つまりは異なる要素同士の止揚と見、「腋の壺」の艶めかしい滑稽を同居させている。

二句目は旧約聖書の「創世記」中、ノアが末息子ハムに裸で寝ているところを見られ、その子カナンに呪いをかけるエピソードを踏まえているのだろう。扇風機ならば風で裾をめくったり、裸で当たる者がいたりもするだろうが、「父の裸」で旧約的時空と、近親の裸体という滑稽がともに呼び込まれる点は一句目と同様。「扇風機」が何やら呪いを受けた姿にも見えてくるが、現実にはどちらも聖母像、扇風機という事物があるのみ。

求道性とも神秘主義(それは結局権力欲なのだが)とも違う、この聖性への接し方は「聖なる名」の「缺落」の中での見者を目指すものとも言えるだろう。

物を透し、「無限小の特異點」を悪意の形で詠み込んだ作として、筆者が偏愛するのは次の一句である。

蠅そとへのがれて人となりにけむ


※本書は著者より寄贈を受けました。記して感謝します。

1 コメント:

関悦史 さんのコメント...

ネット上に情報がほとんどないようなので問い合わせ先を追加します。本書は銅林社2012年12月刊。問い合わせは電話03-3990-8204、またはメール、takedahy@solid.ocn.ne.jpへ。