2013-03-31

朝の爽波61 小川春休



小川春休





61



毎朝一句、爽波俳句の鑑賞を、たまに土日に一回休んだりしながらも昨年の一月からずーっと続けてきた訳ですが、先週は月・火・水曜と三日続けて鑑賞ができない日がありました。結論から言いますと原因は「春の風邪」なんですが、高熱でインフルエンザが疑われたためによく効く薬を出してもらえず、その結果熱の高い期間が長期化、その間にぐんぐん体力消耗…(しかもこんなしんどいときに一日半ほどしゃっくりが止まらなくなるという…)。そんな自身の状態もあって、ふと爽波さんはどのくらい病気をしていたのか気になり、年譜をたどってみました。

・昭和14年(1939)16歳 初夏の頃、健康を害し二か月余りを鎌倉の叔父の家にて療養。このとき書斎にあった「ホトトギス」を耽読して、投句を思い立ったとのこと。
・昭和24年(1949)26歳 九月、胸部疾患のため、自宅療養に入る。この療養は結構長くて、職場復帰は翌年四月です。十七歳で素十俳句に心酔し、俳句作りと祇園浸りを目当てに京都大学入学、学徒出陣、中国・鹿児島と転戦の後復員して東京に戻り、戦中に父を戦後に母を失い、結婚して得た長男を失い、という十年間に肉体が疲弊したものか。
・昭和29年(1954)31歳 十月三十一日「青」の一周年大会を催した後、小患にて療養とあります。
・昭和30年(1955)32歳 昨年秋からの病も回復し、正月から復職するも、二、三月は風邪で病臥の日を過ごしています。
・昭和41年(1966)43歳 一月、酢牡蠣による食中毒で四日間病臥。
・昭和46年(1971)48歳 一月二十一日、徳島市内でタクシー乗車中追突され、むち打ち症で徳島大学病院に入院(奇しくもこの日は爽波の誕生日)。軽度の耳鳴りが後遺症として残る。
・昭和55年(1980)57歳 十一月、風邪で十日ほど病臥。
・昭和56年(1981)58歳 十一月、京極杞陽が逝去し、追悼文を執筆した後、半月ほど病臥。
・昭和61年(1986)63歳 八月、鎌倉笹目に住む伯母が逝去するも、自らの体調のことなどで葬儀に参列できず。
・昭和63年(1988)65歳 九月、妻が渡米する息子と共に日本を離れ、二週間ほど一人暮らし。夜になっても戻らない猫のことを心配する日が続き、心身疲労。十月から十二月にかけて風邪で体調を崩し、十一月はほとんどの句会を欠席。
・平成3年(1991)68歳 暮から正月にかけて、風邪で休む。六月末頃から腹部の痛み、七月に入院・検査するも消化器系統の検査異常無し。二十日ほどで退院、自宅療養となる。八月、通院先の病院にて膿胸の診断を受ける。また、脊椎に影があることが判明。九月、再度入院。十月十八日、逝去。

エッセイか何かで爽波さんは、自ら蒲柳の質と言っていたので、年譜に残らないような軽い不調はもっとたくさんあったものと思われます。年譜では膿胸、脊椎に影とありますが、膿胸はアルコール・喫煙とも強い関係があるのだとか…。


さて、今回は第三句集『骰子』の「昭和五十九年」から。今回鑑賞した句は、昭和五十九年の夏の句。年譜上、特にこれという記載はありません。記載がないのは元気なしるし。

指一本出してつつきぬ冷し瓜  『骰子』(以下同)

つつくのに指を出すのは当たり前ではあるが、それを抜け抜けと言いのけた所に面白みが生まれる。冷やし瓜は甜瓜(まくわうり)などを冷やしたもの。現在では冷蔵庫で冷やすことも多いが、掲句の詠みぶりには、清水などにぷかぷか浮かぶ瓜が相応しく思える。

見てあれば休んでばかり藻刈舟

夏、水面に夥しく繁茂する藻を刈り取る。そのために藻の中に乗り入れる小舟を「藻刈舟」といい、棹や鎌で藻を刈り取る。長時間見ていればこその「休んでばかり」ではあるが、はたから見ればそんな藻刈舟を観察し続ける人物も可笑しいというか不審である。

気が向けば山ほども藻を刈るといふ

一句前の句が〈世を拗ねて藻を刈りてゐる男かな〉。水面に繁茂した藻を、小舟を乗り入れて刈り取るが、暑さのせいもあってか動きは緩慢。あまりやる気がありそうに見えない。「気が向けば」とは藻刈氏の弁だが、「といふ」に少し疑念が見え隠れする。

色違(たが)へかなたこなたの刈藻屑

水面に繁茂する藻を、小舟で刈り取って進む。その際に刈った藻がこぼれて、小舟が刈り進んだ跡に並んでいるのが見える。その色の違いは、単に元々違う色であったというより、刈られてから時間の経った藻が、日に乾いて瑞々しさを失ったのであろう。

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