2013-05-19

【週俳4月の俳句を読む】小池康生 笑顔のイラブー

【週俳4月の俳句を読む】
笑顔のイラブー

小池康生

 『島を漕ぐ』 豊里友行

先ず、タイトルでフックが掛かる。
島へ漕ぐのではなく、島を漕ぐというのだ。
「島を漕ぐ」。どうやって?おかしなことが書いてある。

琉球の国境線なら海蛇(イラブ―)です

琉球の国境線は、海蛇の泳いでいるところだというのだ。

フレキシブル、自由、おおらかな感じがするが、他の魚類ではなく海蛇と言うところが穏やかではない。句意は、海蛇の動きのように屈折している。

蛇足だが、「イラブー」という音は、元野球選手の「伊良部」を思いださせ、さらに緊張する。この人と、元サッカー選手の中田英寿のテレビインタビューは、不機嫌な空気とインタビューアーに対する拒絶感が茶の間にまで届き、関係のないこちらまで息苦しくなったものだ。

いま、拒絶感と書いて気付いたが、伊良部の背景には中田英寿にはない拒絶感があったのだ。

増税ばかりの蛙の目だけが浮く

「蛙の目借時」となれば、うすらぼんやりした世界だが、掲句は「蛙の目」であり、それだけが浮くとあるのだ。まるでベトコンが沼地からアメリカ兵を見ているような景に、〈増税ばかり〉という取り合わせがおかしい。

櫂となる血潮の腕島を漕ぐ

舟ではなく、島を漕ぐ。

島を漕ぐというのは、〈沖縄で生きる〉ということで受け取っていいのだろうか。無季だが、夏の季感。そもそも、沖縄の季節と、私が使っている歳時記は合わないのだ。掲句の〈櫂となる血潮の腕〉というフレーズは濃厚だが重くない。

全体を通し、どの句も重くはない。向日性と言えるようなトーンが全体に通底している。これは沖縄の特質でもあろうが、作者の特質でもあるのではないだろうか。

手元に写真集がある。

『沖縄1999-2000――戦世(いくさゆう)・普天間・辺野古』。

カメラマン、豊里友行氏の手になるものだ。

「戦世沖縄」と「基地沖縄」の二章からなるのだが、私が印象に残った写真は、いずれも被写体が笑顔だ。
写真集の前半、笑顔の被写体は見られないのだが、後半、日本人もアメリカ人も笑っている。その顔がいいのだ。

全体にアップの写真が多く、氏は顔を撮るのが巧い。

寄りの画が真骨頂とお見受けした。

寄りの中でも、笑顔の写真がいいのだ。

藤原新也が書いていたことだが―――その本が手元にないので、記憶だけで書くことをお許しいただきたいが――――、海外放浪の際、カフェのようなところで現地の人たちにカメラを向けていたが、いつも強張った顔、緊張した顔しか撮れない。ある日、気が付く。被写体の表情は、カメラを持つ自分の表情そのものなのだと。被写体は撮影者の鏡なのだと。

翌日、笑いながら被写体にカメラを向けると、被写体の表情が変わってきたというのだ。

つまり、豊里氏が撮影した笑顔がいいのは、撮影者の笑顔がいいからなのだろう。(面識もない人に勝手なことばかり書いていますが)

もとい。

『島を漕ぐ』十句は明るいのだ。

句のテーマと、作者の明るさという取り合わせが、この十句のなかにあるのではないだろうか。

島を漕ぐエイサー太鼓の月と太陽

沖縄という土地、沖縄という歴史、沖縄という現実のなかで生きていくには、エイサー太鼓の月と太陽が必要だと受け止めた。説明ではなく、歌うように詠う。東京や大阪で生まれる句とは根本的に作りが違う。大阪の日常の垢にまみれた人間には、写真集でチューニングをしてから、句に接すると世界に入りやすい。もちろん、俳句は俳句、写真集と関係ないことは言うまでもないのだが・・・。沖縄を描くということは、イデオロギーや意味に落ち込みやすいが、それを救い、俳句的ひろがりを持つには、作者の場合、この明るさが大きな武器になっていると思えてならない。


『鯉幟』  渡辺竜樹

快楽とはかくも眠たし花ミモザ

そうだ、快楽も眠いし、花ミモザも眠い。そして、花ミモザの絶頂は存外短い。

猫の来て耳ぶつけくる春の暮

「来て」があるので、「くる」で十分気持ち良くはなれないが、猫が苦手な私でも、この句は不思議な面白さを楽しめる。

(おっと、猫が苦手なことは秘密にしていたのだが、書いてしまった。大阪で阪神タイガースが嫌いということを告白するのと、俳句の世界で猫嫌いを告白するのは同じようなもの。やってしまったかもしれない)

この作者は、もちろん猫嫌いではないのでしょうが。それにしても猫愛を押し出さず、猫の質感とリアリティを描くのは珍しいのでは。


『日課』篠崎央子

廃屋の窓開いてゐる春の暮  

窓が開いているだけで、廃屋が実は廃屋でなく家として生きているのではないかという発見がある。でも作者が描きたいのは、この家そのもではなく、この家にまといつく〈時間〉そのものであるような気がする。

それにしても、俳句を読んで何かを書くことは難しい。
面識のない作者の句と向き合うのは特別な行為だ。

俳句は俳句。575の他になんの属性も知る必要はない。
しかし、顔を合わせたかどうかは、わたしの中で、とても重要だ。
句会を共にしたかどうかも大きく左右する。
わたしとって、作者との距離が、作品との距離に大きく左右する。

それが作品の評価に影響するのではなく、作品に入っていくまでのところに時間がかかるし、わたしなりに結構なエネルギーを必要とする。今までにもうっすら、そのことに気づいていたが、今回、原稿を書き終えた途端に、そんな思いが湧きあがってきた。俳句と向き合うのは、ときに力仕事になるようだ。なにもたいしたことは書けなかったが。


第311号 2013年4月7日
外山一機 上毛かるたのうた  ≫読む

第312号 2013年4月14日 
豊里友行 島を漕ぐ  ≫読む
西村麒麟 でれでれ  ≫読む

第313号2013年4 月21日
渡辺竜樹 鯉幟  ≫読む

第314号 2013年4月28日
篠崎央子 日課  ≫読む
松尾清隆 休みの日 ≫読む

 

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