何かを追い求める姿
宮本佳世乃句集『鳥飛ぶ仕組み』鑑賞
大石雄鬼
『豆の木』第17号より加筆して転載
知っている人の句集を読むとき、当然その人の姿が脳裏に浮かぶ。『鳥飛ぶ仕組み』を読むときも、宮本佳世乃自身の姿を思い浮かべながら読むことになる。宮本さん自身の第一印象はにこにこしていて人懐っこいこと。でもその目は、何かを訴えかけるような真剣な眼差し。彼女は屈託のない明るさというより「中身の詰まった明るさ」という印象。「何かを追い求める姿」がかいま見え、より印象的である。それは最初会った時も、今でも同じである。句集を読んでまず目を引くのは、
はつ雪や紙をさはつたまま眠る
水仙がしあはせな雪閉ぢこめる
色町や雪のうさぎに雪ふれり
ブラウスのきれいに見ゆる星祭
といったやさしい心の俳句。おそらく心の中は、印象と同じようにやさしさが満ち溢れているはずだ。でも句の表現をもう少し辿ると、さはつていないときの不安や、閉ぢこめられたしあはせな雪や、雪がふつてゐないときの雪のうさぎや、きれいに見ゆるという本当はきれいでないかもしれないブラウスという負の世界を感じ取ることができる。やさしさとひとしずくのさびしさ。彼女の心には何があるのか。
尖りたる海のありけり星祭
ざりざりと梨のどこかを渡りゆく
祝卒業雑木林のひとつになる
春の炉の指にかぶつてゐる光
たねなしぶだう赤ん坊眠りをり
春水や東へたまるフラミンゴ
石鹸の薄くなりゆく春の日々
夏柳あひだをあけて歩きをり
テーマや詠み方はいろいろであるが、さびしさとやさしさが同居していることがはっきりわかる。宮本さんはおそらくさびしさや哀しみを感受しやすいタイプなのだろう。「尖りたる海」「ざりざりの梨」「ひとつになる雑木林」「指にかぶつてゐる光」「たねなしぶだう」「たまるフラミンゴ」「薄くなる石鹸」「あひだをあけて歩く」。一句の中に収められたこれらの表現と、そして対照的な季語を中心にしたもう一つの言葉たち。さびしさとやさしさが響きあいながら、いろいろな意味で(陽陰を兼ね備えて)きらきらした世界を醸しだしている。
もちろん、この句集、それだけにはとどまらず、描写として心惹かれる作品はいくつもある。それもデフォルメして印象深く操っている。
火男の流るる足や木の芽風
鳩の目の離れてゐたり花の雨
行行子タオルの裏のけばけばす
蜻蛉の翅の透けたる喫茶店
桜東風同じ高さに注ぐビール
ふゆざくら山のうしろのとんびの巣
鍵盤の裏を過ぎゆく祭かな
曼珠沙華安全ピンのすぐひらく
かたすみのかたいすすきを描く絵筆
視線の確かさ、捉え方の確かさ。そしてそれを心の底に定着させる何かがある。
一方、自選句や周りの様子を見ると、次の句に定評があるようだ。
若葉風らららバランス飲料水
まもなく三鷹曇り空のうぐひす
鳥飛ぶ仕組み水引草の上向きに
これらの句、たしかに面白いし、新鮮で屈託がない。「鳥飛ぶ仕組み」が句集名になっているように、これらは彼女のお気に入りようである。でも、句集を読み進めていくと、僕にとってはこれらの句は手放してしまってもよいように感じられてくる。これらの句を宮本佳世乃の行くべき方向としてしまうのはもったいない気がするのだ。それは、にこにこしている宮本佳世乃であり、僕という個人から見ると、どうも心の底に落ちてこない。むしろ次の句はどうだろう。
きらきらと夏を歩いてきて洗ふ
あぢさゐのほとんど白となり海よ
ころころと冬の泉を払ひけり
薔薇園の紐をひとかたまりにする
これらの「洗ふ」「ほとんど白」「ころころと~払ひ」「ひとかたまり」の語が、宮本さんの心の芯を捉えている感じがする。なにかの違和感。句の中の違和感がそのまま宮本さんの心の中の違和感、いろいろなものが詰まった感覚。そしてそれは追い求める彼女の姿ではないかと、僕なんかは思ってしまう。さらに読み進める。
ふきのたう眼鏡の底は水たまり
野蒜もつ手のおほかたはあいてゐる
土用東風少しざぶんとする時間
夕焼を壊さぬやうに脱ぎにけり
夏の墓何もしないで帰つてくる
冬眠の前にさびしくなつておく
ひまはりのこはいところを切り捨てる
白桃の種のまはりをもてあます
生きてゐるからだのあまり葛の花
死に行くときも焼きいもをさはつた手
僕は、宮本さんの生活の様子をすこし聞いている。それに起因しているかはわからないが、これらの句、こちらの心に響いてくるものが大きい。宮本さんの経験したことを心底、自分のことのように理解するのは難しいかもしれない。でも、誰もが想像力というものを持っている。自分のことに置きかえて、自分の肉親が亡くなったらどうだろうということは想像できる。それは実際とは違うかもしれないが、過去の経験からそのときの心に湧きあがることを多少でも想像することができる。
そして俳句はというと、その想像の少し先のことを提示してくれているのではないか。想像という過去の経験に基づくものが他者(作者)の経験に導かれ、想像の形を大きく壊さない程度で、少し先の未知なる世界を実感させてくれるようなのだ。そこでは作者自身の目や指や手や心やからだや服や行動を通し、想像できなかった少し先の結果を読み手に提示してくれている。
「夏の墓何もしないで帰つてくる」。その墓は、亡くなったごく近い肉親の墓であろう。しかし、現実に圧倒されるかのように何もしないで帰ってきた。何かをしにいく…たとえば花を供えるとか、線香をあげるとか、墓石に水をかけるとか、周りの草を刈るとか、何かをするであろう。しかし、現実という大きな力の前で何もしなかった、できなかった。過去の経験からの想像では浮かばない光景である。しかし、このように「想像の少し先」を提示されると、きっとそうであるかもしれないと、心の中が共鳴していくことに気づく。
「冬眠の前にさびしくなつておく」も、これは作者の比喩かもしれないが、人間にしても、冬眠する動物にしても、そうやって眠るものだと「想像の先」が納得させてくれる。
そして、ここにあげた最後の「死に行くときも…」の句は、特に心に深く残った。「焼きいも」は僕たちの子供の頃の思い出につながり、それはおいしく、楽しくもある。しかし、石焼きいもをもう一度思い出してみれば、外側は焼け焦げており、どこか暗さが残る。その印象が、全体を軽い印象に導きつつも死の現実を強く語っている。「焼きいも」という素材が明るく軽い分、重たい現実そのものがぐんと湧き上がってくる。きっと死とは、このように身近で、そして現世との境界も淡いものだと、想像の先の現実を見せられたような心地がする。
そして次の句は、宮本さんが心を他のものに託しながら慟哭している(ように僕には見える)。
てのひらの闇ごとわたす螢かな
ペンギンは瞳を閉ぢて夜の火事
泉泣きながら釦だらけの谷
まなうらへ百回水を打つ少年
どしやぶりの鳥かごを持つ半夏生
むささびの眼がふつと弓を引く
宮本さんの俳句は、どの句も無理が感じられない。おそらく他の人が詠めばやりすぎと思えるような俳句、意味がわかりづらい俳句も、すんなり伝わってくる。「てのひらの闇」「ペンギンの瞳の火事」「釦だらけの谷」「水を打つまなうら」「どしゃぶりの鳥かご」「眼の中で弓を引くむささび」。イメージは鮮明でかつ新鮮である。新鮮であればあるほど、読み手にはどこか拒否の心が芽生えるものだが、それがない。それは技巧の力かもしれないが、宮本さん自身が持っている心の深さ、重みの役割が大きいのかもしれない。
彼女の経験が、そして彼女の真剣さが人生に重みを与え、人生の重みが俳句に深みをもたらしている。人生を見据えた中身の詰まった感覚が、そして常に何かを追い求めている彼女の姿がこの句集を支えているようでもある。句集をなぜ読むかといえば結局、作者の心に近づこうとする行為。作者の視線の先を共有する行為。俳句に求めるものは最終的には作者自身の心と思い。宮本さんには何かを追い求める姿で次の境地を見せていってほしい。そう思える句集である。
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