2013-10-13

【週俳9月の俳句を読む】原郷 月野ぽぽな

【週俳9月の俳句を読む】
原郷

月野ぽぽな


愚かなるテレビの光梅雨の家
「ミント」 髙柳克弘

「テレビの光」と言われて、テレビの映像も光源であることを再発見。本来前向きなイメージを持つ「光」が「愚か」だというところにも目が留まる。放映されている内容が「愚か」なのかもしれないが、もっとテレビの本質的な部分、観るものの心のありどころの如何にかかわらず一方的に映像を放出するそのあり様に対して「愚か」さを感知しているのかもしれない。たとえば誰も見ていない付けっぱなしのテレビ。梅雨の湿った空気に一層艶を増してその光は空しく踊る。この一句からは豊かさの象徴とされたテレビの様を通して、それを巡る人々の延いては社会の、豊かさゆえの虚しさといった気分が漂ってくる。



緑雨いま泣きながら食む夫の肉
「モザイク mosaic」 佐々木貴子

人間が人間を食べるカニバリズムという行為。死者への愛着から魂を受け継ぐという儀式的意味合いを持つという。日常生活でも「食べてしまいたいほど可愛い」という表現があるように、愛する者と一つになりたいというのは自然な衝動であり、それはもちろん愛欲にも繋がっているものであろう。この句の照らす景を実ととることももちろん可能であろうが、これを句中の話者の心情の喩として捉えてみると、この深く激しい愛の形が普遍のものとして息づきだす。緑雨の瑞々しさがこの情動の若々しさを示唆している。



めだかああママなんて言う人はきらいです
「前髪ぱっつん症候群(シンドローム)」 内田遼乃

この世に生まれ落ちたばかりの人間は寄る辺なき存在であり育ててくれる大人の愛情、多くの場合は親の愛情なしには生きられない。やがて自我が芽生える頃になると、それまで一心同体であった親に反抗することで自分の存在を確認してゆく第一次反抗期を迎え、さらに自我が確立される頃になると、第二次反抗期を迎える。これは思春期にあたり、心と体がアンバランスな時期であるため第一次より複雑で強力。親の愛情は束縛と感じられ勝ちである。

「ああママなんて言う人はきらいです」という口語表現によるストレートな心境の吐露は、成人の読み手にその頃の気持ちを思い出させるパワーを持つ。「めだか」を句中の話者の自己投影としてとらえると、一句すべてが語りとも成り得るが、ここは「めだか」で切って読んでみるとする。話者の心なぞ露知らずひょうひょうと泳ぐ「めだか」の佇まいと、心境との二物衝突が得も言われぬ初な可笑しみを生み出してきはしないか。



草の絮降る石を運んでゐる人に
「草の絮」 村田 篠

草の絮が飛んでいる中を人が石を運んでいる。句が語っているのはただそれだけのことなのだが、遥かな懐かしい気分が漂うのは何故だろう。

「草の絮」は人類の発祥するずっと前から続いている、植物の種を運び次の世代に命を繋ぐ営み。「石を運ぶ人」は人間の労働の姿。この石は庭石かもしれない、墓石かもしれない。現在の場面かもしれないしはるか昔の城や、ストーンヘンジ、はたまたモアイ像の建造場面かもしれない。「石を運ぶ人」というシンプルな措辞は長い時間を包み込む余地や地域を限定しない懐の深さを持ち、読み手の想像力を刺激する。

人間の労働をいたわるかのように降る草の絮ーーこの一句には太古から綿々と続く人の営みと植物の営みの出合いがある。ここには互いの命の響き合いがある。かつて生き物同士がいたわり合っていた世界――原郷がある。懐かしい気分はここからくるのだ。



秋立つや氷に賞味期限なく
「客のゐぬ間に」 小早川忠義

「氷に賞味期限なく」には虚をつかれた。凍っているので腐らないだろうから当然と言えば当然なのだが、水には賞味期限があるので、氷にもあるのではないかと思ったりした。調べてみると、溶けない限り氷に賞味期限はないらしい。正確には、氷のように品質の変化が少ないものについては賞味期限を省略しているということだ。夏に買っておいた氷は使われないまま秋を迎えた。そこに、ある寂寥感が立ち上がるかもしれない。



歯ぶらしと歯が濡れてをる月夜なり
「くるぶし」 今泉礼奈

就寝前に歯を磨きながらまたは磨き終わって、窓から月を見ているのだろうか。ふと芥川龍之介の「元日や手を洗ひをる夕ごころ」に通ずるものを感じた。この一句に月夜の情緒に溺れず、何気ない日常を掬いとる静かな俳の目を見る。



おお男娼(おかま)コート絡(から)まる野菜市(やさいいち)
「二人姓名詠込之句」 仁平 勝

昨今大人気である有機栽培の野菜販売を謳い文句にする青空市は、健康と美容に敏感な人々で混雑し身動きも取れない程。コートの女性が転びそうになりもたれかかってきた。「あらごめんなさいね。大丈夫?」それは美しく化粧をした男性だった。

そうそう、タイトルにある二人の名前を見つける楽しみがまだ残っている。掲句に詠み込まれているのは、共に評論家としても知られ、親交もあったという二人、詩人の大岡信と小説家の丸谷才一。連俳の歴史には、折句が代表するように、句に名前を詠み込む形は存在する。座を共にした人々への挨拶の意も込めて座を盛り上げ、その一時の快楽を心から共有するために。俳諧の魅力のひとつである「遊び心」がここに。



さびしいとさびしい幽霊ついてくる
「さびしい幽霊」 北川美美

似た者同士は引き寄せ合うと言う。さびしい人にさびしい人、ではなく、さびしい幽霊が寄ってくるというところに、この句の可笑しみと愛おしさがある。恐がったりしないよ。今夜はゆっくり語り合おうか。



第332号 2013年9月1日
髙柳克弘 ミント 10句 ≫読む

第333号 2013年9月8日
佐々木貴子 モザイク mosaic 10句 ≫読む
内田遼乃 前髪パッツン症候群 10句 ≫読む

第334号2013年9月15日
村田 篠 草の絮 10句 ≫読む

第335号2013年9月22日
小早川忠義 客のゐぬ間に 10句 ≫読む
今泉礼奈 くるぶし 10句 ≫読む
仁平 勝 二人姓名詠込之句 8句 ≫読む

第336号2013年9月29日
北川美美 さびしい幽霊 10句 ≫読む

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