SUGAR&SALT 05
何処かに水葬犬が嗅ぎ寄る秋の海 三橋敏雄
佐藤文香
「里」2010年8月号より転載
俳句は一たび作者の手を離れてのちは、そこに使われた言葉の意味と韻律から触発される映像表現に一切を懸けている。厳密には作句以前の作者の思想や環境、時と場所等から忖度されるものを加えて、一句の力としてはならないと思う。厳正独立の一句、そこから言葉は始まらなければならない。(『まぼろしの鱶』後記より)……初めて俳句に関して書かれた文章に衝撃を受けた。随分前に、今では師匠の池田澄子に俳句を見てもらった。雑な作りの私の句に対して澄子さんは「俳句は言葉だから」と言った。だから言葉は丁寧に適切に使わなければならない、といった内容だったと思う。
上の文章を知ったのとは全く別の機会である。
俳句が言葉であることは、私にとっては感動的なことだった。言葉は、文学以前のものだ。言葉と感性は、言葉と経験は、知識は、思想は……別物だ。言葉を信じることならできると思った。
レースのカーテン透く海での死夜がくる (『まぼろしの鱶』)
浸る教科書透明な夏の終り
生きている今から見える、いずれも透明な終焉。
これは三橋敏雄が25年以上ものあいだ海に関わる仕事をしていたことを知らずとも読めるし、私でも書けたかもしれない。俳句は言葉で、私はこの2句につかわれている言葉をすべて知っている。嬉しかった。
ふらんす堂文庫の三橋敏雄句集『海』は「海」をテーマとして152句を作者が自選したもので、その時点での9冊の既刊句集とそれ以後の作品のほかに『まぼろしの鱶』拾遺から10句入っている。
『まぼろしの鱶』後記に「個人的事情や社会的背景への理解を、条件としなければ成り立ち難い作は除いた」とあるが「合わせて三十年間の作、三百二十一句、いかにも精選の趣であるが、ここに収めた作は総てよろしく、収めなかつた作を悉く悪しと思つている訳ではない」ともある。
ちょっと海関係多いな、などという理由で外された句があったかもしれない。また、もしかしたら、本来ならば条件なしに読めるはずの作品なのに、思い入れが強いばかりに作者自身ある条件を付加することを望んでしまい、それゆえ句集に入られなかった名作が、まだあるかもしれない。
長き航海死なれて空の鳥籠と (『まぼろしの鱶』拾遺)
●
0 comments:
コメントを投稿