2014-01-26

空蝉の部屋 飯島晴子を読む〔 14 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 14 〕


小林苑を


『里』2012年6月号より転載(加筆)

太股に肉戻りたる曼珠沙華
   『八頭』

昔、仕事で訪れた熊本県のある町の小さな食堂の一輪挿しに彼岸花が活けてあってギョッとした。どのテーブルにも一輪ずつ。彼岸花と書いても、曼珠沙華と書いても、あの世に咲いているようで、どこかあの世の匂いがする。死人花という呼称もあるくらいだ。それが活けてあるなんて。

彼岸花の別名、曼珠沙華は、めでたいことが起こる前兆として天上から降って来るという仏典が由来なのだというから、あの世といっても極楽で、誰もが不吉な印象を持つわけではないのかもしれない。

畦にも道端にもたくさん咲いていて、この辺りでは見慣れた日常的な花なのだと見直すと、どのテーブルにも一輪ずつの紅い花はいっそ清楚ですらあった。

掲句、太股、肉という文字に肉感的な生命力があり、曼珠沙華の赤がそれを補完する。前号で「女の業」と言ったのだけれど、この句にもそんなところがある。ふてぶてしいまでの蘇生力、この世のものではないところからくるエネルギー。たとえば鬼女に生まれ変わるような、そんな物語を思ったりもした。

晴子に『曼珠沙華』という随筆がある。< 曼珠沙華日はじりじりと襟を灼く 橋本多佳子 > を冒頭に置き、多佳子に曼珠沙華の句が多いと述べ、「彼女の熱い世界から見てもさもあろうことではあるが、もう一つのわけは、多佳子が夫を亡くしたのは、…(略)…丁度、この花の咲く頃であり、曼珠沙華は多佳子にとっては忌日の花であり、文字通り彼方の岸の花であった」と多佳子の話を軸に、この花への思いを書いている〔※1

彼岸に咲いてはいても多佳子の曼珠沙華が華麗であるのに対し、晴子のそれは、季節の変り目を実感させてくれる、触れてはいけない、そして「透明なイメージ」の花なのだという。「透明なイメージ」とは、触角や嗅覚の記憶のない、姿は確かに知っているのだが実体のないものということなのだろう。近づいたら消えてしまうかもしれない、というような。

晴子の句集には、掲句のほか、< 曼珠沙華瞳のならぶ川向う  『蕨手』>、揚句のつぎに置かれた < 川波の高ければこそ曼珠沙華 >、やはり二句並んでいる < 水勢に水勢に搦む曼珠沙華  『儚々』> < 今生の闇凜々と曼珠沙華  『同』> が収められている。紅梅、菫、山百合など、晴子句にたびたび登場する花たちに比して曼珠沙華の句はこれだけだ。それも、川や今生の闇の向こう、手の届かぬところに咲いている冷え冷えとした「透明なイメージ」としてのそれである。

掲句は様子が違う。自解もあり、「この年は別に体調が悪いわけでもないのにじりじり痩せてくるようで…(略)…毎朝浮かぬ気持で一日が始まるのであった。ところが或る朝、股を揃えると、少しではあるが(隙間ができていた)両股の間が狭まっているように見えた」ということで、ここから季節の区切りを感じ「又生きるか」と思う曼珠沙華の句になったというのだ。

太股に肉が戻るとはそういうことかと合点してみると、ずいぶん健康的な句ではないか。この句の曼珠沙華は彼岸に咲いているわけではなく、他の曼珠沙華の句に比べると身近に咲いて、秋の爽やかな風に揺れている。

では、最初の印象が消えてしまったかというと、そうでもない。この曼珠沙華には女ならではの強靭さが確かにある。しかし多佳子のような湿度はなくて、乾いている。それまでに橋本多佳子や三橋鷹女など、女の情念を露わに書くということが女流の方法としてあり、晴子世代まで来て、女性的なるものを突き放して書くことができるようになったのではないかという気がする。晴子はその先鋒であった。

『鑑賞・女性俳句の世界』全六巻には時系列に多くの女流俳人が論じられている。晴子論は宇多喜代子が担当し、飯島晴子という俳人をいきいきと描いてみせる。晴子の遅い出発に触れ「飯島晴子の俳句人生には『若げの至り』とか『若書き』という傍目にも見苦しいしくじりやスキあらば忍び込もうと思わせるスキや、馬鹿馬鹿しい無益な時間というものがないのだ〔※2と断じる。

女がどういう人生を選択しえたかは時代とともにある。遅い出発であったことも併せて、晴子は大きな時代の変化を体験して最初から自立しており、怨みごとや嘆き、甘えを捨て去って、俳句を造形したのだ。

随筆『曼珠沙華』は、< 曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ 山頭火 > < 肌のよき石にねむらん花の山 路通 > を並べ、次のように終わる。「どちらも、漂泊者の、はみ出し者のこころである。路通のさくらの方がおおらかなのは致し方ないが、山頭火の曼珠沙華も、ちょっと幻想的で、メルヘンの気分がどこかにあって、なかなかよいと思う」。

そうか、この曼珠沙華の気分、よくわかる。掲句を取り巻く空気は「透明」で明るい。明るいけれども、晴子がすっくと立っているのは、やはり紅い花の群生する「異世界」なのだ。


〔※1『飯島晴子読本』収録 『俳句とエッセイ』一九七六年十月
〔※2「一本の杭 飯島晴子」『鑑賞・女性俳句の世界』第四巻 二〇〇八年四月

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