2014-01-26

【句集を読む】 流体領域 西原天気『けむり』を読む 小津夜景

【句集を読む】
流体領域 西原天気『けむり』を読む

小津夜景



はじめに

西原天気『けむり』を読んでまず驚かされること、それはこの本に含まれる「水分の多さ」だ。

  春燈の湿りぐあひをなんとせむ
  秋燈のひたひた満ちてゐる畳
  風ぼおと海を濡らせば明石かな
  かき氷この世の用のすぐ終る
  ハンカチを干していろんなさやうなら
  ハンカチにつつむ東京暮色かな
  紙魚の這ふ月に静かの海があり

燈が湿ったり、ひたひたと満ちたり、風が海を濡らしたりといった表現は、見た目の大変慎ましい修辞と言える。また溶けやすいかき氷という素材と世の営みのトリヴィアリティとの結合とか、濡れそぼり染みとおすハンカチを媒介とした別離や暮色の提示とか、紙魚を海へと音韻移動させつつ液体の痕跡と実体とのオーヴァーラップを図る手法とかについても、各句は単体で読まれる限り、アナロジーやら音韻やら先行句との比較やらを糸口とした、ごく平明な解釈へと収まってゆくに違いない。

ところで、私が上記の句をはじめに引用したのは、これらの作品の表現や技巧を品よく味わったり平たく纏めたりするためではなく、実はここに共有されている或る気分が、この作者の作品においてしばしば反復されるテリトリーを端的に示しているような気がしたからである。この「気分」ならびに「テリトリー」とは何か。とりあえずおおよその感じを最初に名状してしまうと、それは「水分への愛」であり、また「流れゆく世界」である。


1 水という喩

先を急がず、まずは『けむり』の具体的な水分量をひとつの例から確認しよう。以下に引用するのは降雨量の例だ。この本は巻頭の《はつなつの雨のはじめは紙の音》を皮切りに、雨の句がきわめて多い。

  初しぐれ紙の匂ひのする町に
  あまがへる昼降る雨のあかるさに
  さくらんばう深夜のところどころ雨
  レコードの溝の終りは春の雨
  足もとに雨の来てゐる茸かな
  体内はまつくら茸山に雨
  にはとりを眠らせ夜の雨は満つ
  世界ぢゆう雨降りしきる苔の恋

ここに抄出した句は、あくまでも実体としての雨のイマージュを表象すると思われるが、ここで手始めに着目してみたいのは、これらの雨が隠喩でないにも関わらず、その情景の妙と膨大な量とによって「何かのメタファー」ではなく「メタファーそのもの」としての働きを顕然させている、といった興味をそそられる現象についてだ。メタファーという語は μετα(越えて)+φορά(運ぶ)こと即ち「別の場所への移動」を原義とするが、読者はこの本のあちこちで降りつづける膨大な雨量を感じつつ句を眺めているうちに、この雨の情景を越えたところにある別の情景が、奇しくも滲み見えてくるような意識に陥ってしまう。つまりこれらの雨は単に作品中に降るだけでなく、作品言外にゆらぐトポス(それは思い出かもしれないし、ただの幻かもしれない)を浮き上がらせ、読む者の意識をそこへ運んでゆこうとするのである。

こうした雨の例に限らず、さまざまな水の調性を秘めた句が『けむり』にはひしめいている。そしてどの句にあらわれる調性も、多くの場合たんなる描写の装いをもち、比喩性を感じさせる言語的条件をなんら有していないのだが、その内容はつねに階層的な文脈(別の空間での出来事、或いは別の空間そのもの)との共起関係を含んで成り立っている。たとえば下の句なども上の句同様、水の感触をうまく利用することで、そこに描かれた光景からいまだ描かれざる光景への移送を読者に体感させうる構造となっている。

  蓮ひらく下にたつぷり暗い水
  揺れてをりボートの底の水たまり
  春の夜のピアノのやうな水たまり
  瞳孔に水面のありて鳥渡る
  すこし死ぬプールの縁に肘をのせ
  東京の雪のはじめのマンホール
  やはらかき耳のしくみに雪降れり
  降る雪やテープが終りまで廻る

ここでは「蓮の下」「ボートの底」「夜のピアノ」「瞳孔」「プール」「マンホール」「耳」「テープ」などの素材が、水とさまざまに関係することで、ここ以外のどこかへ通じる境域の表示足りえている。このように作者は、雨以外の水のイマージュに関わるときも、ここではない別の場所へと読者を誘導するしくみの調整に大変熱心なのだ。


2 流れへの愛

ところで、西原の好む水の調性が、その透明性でも原初性でも親和力でも不可欠性でもオアシス&ヒーリング性でもなく、あくまでも《流れ/l'écoulement》の性質に集中していることは特に注目されるべき点だろう(écoulement の辞書的意味は、物理現象、時、人、金、の流出・推移・流動・蕩尽ならびに体液・老廃物の分泌・漏出)。殊に、水の縁語が使用されない場合も含めた相当数の作品が「あふれるもの」「ながれるもの」「たゆたうもの」「すぎゆくもの」といった4つのパターンの印象形成力に因っていることは、以下の抄出に見るとおりである。

・あふれるもの
  どんぐりが泣くほど降つてをりにけり
  起し絵のなかの男が泣いてをり
  感涙のあと鯛焼をひとつ買ふ
  水澄めりダムをまぶたと譬ふべく
  発情のかそけし虹の立つごとし
  ばねひとつ胸より出づる春の暮
  噴水と職業欄に書いて消す
  昼寝にも水母の満ちてきて困る
  梅田へと人の集まる朧かな(群衆の流出)
  ぽんかんを剝いたり株で損したり(貨幣の蕩尽)
  冬銀河かくもかなしきとき便意(老廃物の漏出の兆し)

・ながれるもの
  流れ星まぶたを閉ぢて歯を磨く
  星ひとつ流るる電子レンジかな
  雪解けの山から電気髭を剃る
  ゆびさきが電気に触れて春の月
  しびれあひほのぼのとなる水母かな
  マフラーを巻いて帯電したまへり
  波音が夜空をつたふ籠まくら
  砂粒の声して秋の夜の短波
  秋ゆふべ砂鉄のごとく惹かれあふ
  春眠の砂の流るる斜面かな
  首都高はひかりの河ぞ牡蠣啜る
  さらさらと流るる春の座敷かな
  四畳半ごと寒流をゆく気配

・たゆたうもの
(浮遊)
  天心へ空気袋のやうに月
  春昼のたまごのなかの無重力
  三冬へ紙の軽さで鳥が浮く
  まばたきの軽さに浮いてあめんぼう
  七曜をたゆたふ春の金魚かな
  かはほりの漂ふチークダンスかな
  地下鉄にゐると金魚になつてゆく
  春服のたゆたふ蛍光色の首都
  ひんやりと消防服の吊るさるる
(揺動)
  はつなつの土手ぶらぶらと入籍す
  分銅と釣り合つてゐる風邪薬
  風鈴を指に吊るして次の間へ
  翼竜を糸で吊りたる薄暑かな
  けしの花まだ重心の定まらず
  蟷螂の古式ゆかしく揺れてをり
  レコードのかすかなうねり山眠る(うねりに兆す波形)

・すぎゆくもの
  しろながすくぢらのやうな人でした
  しまうまの縞すれちがふ秋の暮
  立ち読みの背中を過ぎる昼の鮫
  うたかたのすぢみちにゐる金魚かな
  きらきらと仏間をよぎる金魚かな
  卓袱台に秋すぎゆきし仮寝かな
  次の世のその次の世の夏蜜柑

これらの句群は、西原が世界を掴まえるとき、それが何であれ《流れ/l'écoulement》への偏愛すなわち《溢れ、流れ、漂い、去るもの》への傾倒に則してコンヴァージョンする性癖をもつことを如実に物語っている。この偏愛と性癖は、図らずも溢れ出た情動や生理であるとか、粒子的ないし波動的事象にふるえる日常であるとか、ふわつきゆらめくような感覚であるとか、またそんな動きのさなか何かと交差したような気配や記憶であるとかいったリリシズムを醸成することが多いようだ。


3  映画という「流れる視線」

またさらに面白いこと、それは《流れ/l'écoulement》への偏愛を源流とするこうしたリリシズムの余波が、句の内容にとどまらずその在り様にも及んでいる点である。

  囀りやサンダル履きで事務の人
  相談のかたはらに置くシクラメン
  風船を貰はむとする大人かな

これらの句は、作者の目に映った光景を「そのまんま」詠んだ、という設定で書かれた作品だ。ただしその書きぶりには過不足なき写生の風体、すなわち「作者の見ているものが、その意識(すなわち言語的把持)とぴったり一致した」かのごとき一種の線形感覚がどこかしら薄い。五感を開け放って物象を受け入れ、そこで得た感覚を言語というシステムの内部で瞑想しなおし、その帰結として一句が完成したというよりも、むしろ心では別のことを考えつつ、ちょっと目の端に入った感じ、ちらっと盗み見た感じ、あるいはカルティエ=ブレッソン風に気取れば《images à la sauvette 逃げ去るイマージュ *注1》を、ほとんど措辞に気を払わず書き留めたような句構えを、これらの描写は装っている。

これは偶然の結果ではない。西原の書く「そのまんま」というのは、客体をつかまえようとする主体の我欲(あるいは没我)がおしなべて希薄であり、またその帰結として掲句のごとく、気負いのない淡白さがつねに保たれているのが特徴なのだ。まるでそこには「物をよく見すぎない態度」への積極的な取り組みによって、写生がかっちりと時間へ嵌まるのを回避し、宙ぶらりんのどこかに句を漂わせておこうという気配すら感じられる。

物象への食いつきがきわめて弱い、こうした写生の在り様というのは、西原の場合いったい何に起因しているのか? ここで私はその理由を、掲句における時空の切り取りがフレーム単位ではなく、シーン単位で考えられているためである、と説明してみたい。これまで見てきたように、この作者の書きぶりというのは、多くの場合《流れ/l'écoulement》の性質を自在にコントロールすることで、実際に描かれた顕在的光景から他なる潜在的光景への移送ないし推移を暗示させるパターンを踏襲しており、その結果どの句もまるで映画フィルムのごとく、読者に別のシーンへの《連れ出し》を予感させるオーラを秘めていた 。そのことから私は、外界の流体的把握を強く望む作者の心的傾向が、掲句のように水と一見無関係な作品にも、リアルの本質たる動態性ならびに主客の非線形性を組み込もうと稼働しているのではないか、と推察するのだ。

この《外界の流体的把握》とは、見るものと見られるものとの関係をめぐる従来の写生論に対し、明確な差異を提出する発想である。主観とも客観とも距離をもつ、カメラのような「脱認識的なまなざし」にとらえられたイメージ。またそれによって全体をざっくりと「認識外把握」ないし「リラックスした関心(ベンヤミン)」化する方法——おそらく、西原自身における「この句は写生である」という命題は「客観写生」や「主観写生」といった句中の成分ないし文体から見た分析的判断でなく、主体と客体との関係がどう展開してゆくかという綜合的判断に関わっている。

  マネキンが遠いまなざしして水着
  白南風や潜水服のなかに人
  盆梅のそばに受付嬢ふたり
  壁紙の花野にもたれ純喫茶

先の句と同じく上の句も「心象と物象との交わるところがそのまま自然な重ねあわせに見える」よう腐心された、いわゆる写生とは似て非なるものである。とりわけ『けむり』の手法を有機的に俯瞰するならば、こうした描写が「感覚」と「意識(=言語的把握)」のあいだの同一性——これを俳句業界で特殊な価値をもつらしい主体/客体の即時的=無媒介的調和から生じる安定感(いわゆる腰の低さ)とか、もはや句の外部から何らの作用も受けないエントロピーの低さ(いわゆる動かない句)などといっても構わないが——を目指した《対象をテクストとして確定化したもの》でありえないことはひときわ明白だ。

これらの写生様式は《対象をテクストとして確定化したもの》というよりも、むしろ《環境をコンテクストとして暫定化したもの》と言った方がおそらく正しい。文脈(コンテクスト)とは、世界と呼ばれる本文(テクスト)と本文(テクスト)を思いのままに繋ぎあわせると同時に、それらの移送や推移に作用を及ぼす位相である。またコンテクストはそれ自体が意味を目指す訳ではないため、知覚はあくまでもリラックスした関心(=認識外把握)の状態、すなわち事物を主観にとりこむといった意図から解放されて、環境の中を自由に泳ぐことが可能だ。これを先述の映画フィルムの例に絡めて言えば、西原の句は本編(テクスト)と本編(テクスト)を随意につなぐト書き(コンテクスト)のエピソードに酷似している。そのエピソードはあたかもコントロールされていない知覚に映し出された像を決め込み、読む側に特殊な認知をうながす類の意味性を免れているが、それでいてどこか印象的な雰囲気を醸し出し、そこに映っていないシーンへの《連れ出し(=前後関係・文脈)》として周囲に作用しつつ、かつ自らも流れ去ってゆく「動く風景」として存在する。

  二科展へゴムの木運び込まれをり
  ヒッピーに三色菫ほどの髭
  伊予柑のやうな書店のおねえさん
  白長須鯨に「おお」と言ふ子かな

かくして、西原の志向する「そのまんま」とは「私ではないものを、私の中にとりこむこと」(主体が客体を代理=再現すること、ないし、私が世界をネタに己の主体化=言語化を実現すること)を目指す「ペルゼンリッヒ(人格的)な物語的リアリズム」と全く正反対の、どことなくエントロピーが高く、句の外からの作用を拒まないどころか逆に我々(この「我々」には作者その人も含まれる)の意識を句の外へ連れ出してしまいかねない、全くもって腰の据わらない即物性となる*注2。こうした描写を具現化するため、この句集はその辺をぶらぶらと低徊する態度(おそらく彼自身はこうした逍遥を、ジャック・タチ的なスローライフとしてイメージしているのではないか)をどこまでも崩さない。そして(1)自己の感覚に訴えてくる外界を「対象」や「客体」とではなく、自らをそこに含む「現場」や「環境」として捉え、(2)その把握に立った上で、絵画的な静態フレームに置換された「事実・体験といった本文(テクスト)」ではなく、映画的な動態シーンへ移植された「挿話・動静といった文脈(コンテクスト)」をそこから掴み出し、(3)ペルゼンリッヒ(人格的)な物語的リアリズム」とは無縁の、あくまでも「ザッハリッヒ(即物的・要を得た・不偏不党の)なリアル」を描くのである。


4 時制をすりぬける世界

ところで、先に私がこの作者の写生を「心では別のことを考えつつ、ちょっと目の端に入った感じ」と評した折、同時にその句構えを「ほとんど措辞に気を払わず書き留めたように」見えるとも述べた。また私はこれら二つの特色に対し「そこには『物をよく見すぎない態度』への積極的な取り組みによって、写生がかっちりと時間へ嵌まるのを回避し、宙ぶらりんのどこかに句を漂わせておこうとした気配すら感じられる」と補足したが、そもそも一体、なぜ物をよく見ると時間が固着されてしまうのだろうか? 

ひどく大雑把に言ってしまえば、それは日本語の動詞に時制があるためである。それゆえ五感の感覚したものを言語のシステムに編集する際、句は必ず《静態・瞬間・永遠》などの時間的ないし無時間的位置づけに定着せざるをえない*注3。そしてこのこと自体は自然の成り行きだ。

とはいえ《流れ/l'écoulement》を偏愛しなおかつ《外界の流体的把握》を強く望むこの作者にとって、そのような物象の現れ方はひどく物足りないに違いない。彼をとりまく環境は、主体/客体の擦り合わせ作業(=遠近法的作図)が生み出す慥かなリアリズムではなく、あくまでも流れるリアルとして表象されなくてはならないのだ。もちろんどんな俳句も言語から成る以上、彼の作品もなんらかの時制において表現されなければならない訳だが、そんなディレンマの緩衝となるのが、なにげない措辞を装う「ト書き風テイスト」の句であると予想される。

繰り返しになるが、世界の中にテクストではなくそのコンテクストを見出すとは、本編と本編のあいだをつなぐト書きとして自らの環境を眺めることを意味する。西原が世界から採取する「動く風景」すなわち「むしろちょっと目の端に入った感じ、ちらっと盗み見た感じ、あるいはカルティエ=ブレッソン風に言えば《images à la sauvette 逃げ去るイマージュ》をひょいと釣り上げたような句構え」や「実際に描かれた顕在的光景から他なる潜在的光景への移送ないし推移」とは、静態フレームから動態シーンへの意識転換と並んで、この「ト」に内在する性質の運用によって可能となる。

ここで重要なこと、それはこのト書きが、時間でも無時間でもなく、脱時制(浮遊する時間)の様相をもつ記述法であるという点だ。脱時制の言語には他にも標語とか、真理条件とか、名詞文とか、さまざまなスタイルのものが存在する。けれどもそれ自体重要な本文として注目されてしまうのを拒絶し、あくまでも反述志・反驚異・反感動といった佇まいのまま、挿入のポジションに徹する、そんな形式はト書き以外にない。この記述法は、流れ(非線形)漂う(脱時制)リアルへの実現を図るに、他のスタイルと比べてより条件に適っているのである(ところで、一般に俳人は、俳句の非人称的感性を強く強調する割に、なぜかそれを脱時制的にこしらえるといった議題には興味がないようだ——時間の存在する世界は人間的世界とイコールであるにも関わらず。多くの場合、俳人の語る「俳句のもつ非人称的感性」とは単に「物象に主体の位置を譲り渡すこと」でしかない。だがこうした反主体的素振りによる世界の表象化が、俳句以外の芸術領域にも広く見られる「ペルゼンリッヒな物語」すなわち転倒した自意識でしかないことは先述の通りである)。西原の句の措辞がいつでもシンプルな何気ない風を装っているのは、単純に審美的な成因からのみでなく、おそらく脱時制的光景をプレゼンテーションするにあたり、句の「ト書き風テイスト」を維持するためだと思われる。措辞への心くばりが露骨になり過ぎると、せっかくの描写が「世界を本文(テクスト)へと画定したもの」に陥ってしまうため、その手の繊細さは人目に触れないようこっそり気をつけている、という訳だ。

この点をさらに考えてゆくと、西原が脱時制(浮遊する時間)の試みにおいて現象学的ないし精神分析学的実験を避けている点にも、一定以上の意味があるような気がしてくる。たとえば、身体論的両義性や自動筆記との親和性が高い句というのは、措辞の在り方において、本文臭があまりに強すぎるという嫌いがある。仮にその句がどれだけ淡白かつ片言風であったとしても、いやなにげない触知めけばめくほどその思わせぶりな印象は強烈になり、読者に対し「ここに読まれるべき世界のテクストがありますよ」といったオーラを放ってしまうのだ(本文臭が強いという点では、極度にイノセントな筆致や、秘することにより大いに見せるといった無表情の美なども、その扇情的な詩性ゆえに回避されるべきなのかもしれないが、これらのスタイルには時間論をめぐる考察の蓄積自体が存在しないため、今は話の論外とする)。加えてもうひとつ、身体論的両義性や自動筆記などを意識した俳句にみられる時間への取り組みは、「存在の在り方」を言語によってねじ伏せかねない認識法だという難点もある。それらが繰り返すエポケーないしオートマティスムの根底にあるのは、事物の即時的=無媒介的理解(あるいは無理解)といった形而上学的志向*注4に他ならないため、脱時制のみならず非線形の側面から見ても、ザッハリッヒなリアルを探求する『けむり』では応用しにくい方法だと言えよう。


おわりに

以上『けむり』を読みながら、西原天気の特質と思われる気分ならびにテリトリーを、いくつかの系統に分けて観察してみた。最初は水の調性を基にこの作者のもつ原初的な感性に触れ、次にその感性が《流れ/l'écoulement 》への偏愛として4つの作句パターンを形成していることを見た。さらに作者の《外界の流体的把握》といった心的傾向が、独自の写生を繰り広げていると思われる句を眺め、最後はその写生においていかなる技術が意識されているのかを大まかに補った。

西原天気は《流れ/l'écoulement》への愛に立ち、《連れ出し(=前後関係・文脈)》を体現するザッハリッヒなリアル領域を執拗に書こうとする。またこの領域の実現にあたり、映画に由来する運動感覚あるいはエクリチュールが意識されている点が『けむり』において最も際だつ斬新さだった。おそらく映画とは、時制をすりぬけたリアルを表出することに関して、もっとも思考の蓄積があるジャンルであり、西原の試み以外にもまだ多くの俳句への転用が期待できるだろう。

最後に、ただ単に素敵な句というのではなく、この句集に収められたことでその輝きをいっそう増したと思われる作品をいくつか鑑賞して、この書評を終わりにしたい。

恋人の涙腺を這ふあめふらし

雨に仕込んだトロンプ・ルイユと描かれたシーンとが、断然映画的なエスプリを醸し出している一句。プレヴェールやヴィアンやクノーなど、シュールレアリズム時代をくぐりぬけた文学に存在した「足るを知らない軽さ」を深く感じさせる。

これもあのデュシャンの泉かじかめり

この句も水にまつわる言説ならびに現場のシチュエーションが、コンテキストのみを命綱さながらに繋いで流れゆくゴダールのワン・シーンのようで美しい。便所(汚ければ汚いほど良い)で用を足しつつ、ふと浮かぶのが上記のごとき理知的なたわごと、しかも図らずも溢れ出てしまったその無意味なインターテクスチュアリティをリセットするかのごとく最後にかじかんでみせるなんて、ちょっとクールすぎて「本当にこれでいいの?」と言いたくなるが、やりすぎは遊びの本懐中の本懐であるゆえ、当然オッケーなのである。

アンメルツヨコヨコ銀河から微風

なんといっても「アンメルツヨコヨコ」との大変ワープな婚姻関係によって弾みを得た「銀河」の語が、絶大なる非線形エネルギーを発しているさまが素晴らしい(それと、かくなる「銀河」がきわめて小市民風な「微風」と邂逅するオチも)。外界の流体的把握といった作句精神が作品全体を覆い尽くしたこの作品は、流体マニアであるこの作者しか醸し出すことのできないであろうしみじみとした情味に満ちている。

死がふたりを分かつまで剥くレタスかな

私はこれを、西原の水への原初的感性がもっとも昇華された形であらわれた屈指の作品だと考える。メタファーとリアルの波間を縫ってきたここまでの行程を振り返れば、レタスという水分たっぷりの素材を剥きつづける光景に、どうして幽かな雨音を聴き取らずにいられるだろう? この句の字面を眺め返せば眺め返すほど、剝きつづけるレタスとは、降りつづける雨以外のなにものでもない、と私には思えてくる。この作中主体はレタスを剥くことによって、彼の現場をみたす静かな雨音を立てているのだ。

そしてレタスを剝き果てた地点は、もはや雨音の聞こえない場所である。雨はこちらだけに降り、あちらには存在しないようだから——いや。そうではない、思い返してみれば、そもそも西原の愛する《流れ/l'écoulement》とは常に、いまだ出会わざる世界の本文を予感させる《かりそめの位相》にすぎなかった。つまりそれは「どこ」と名指し得る領域に流れていた訳ではなかったのだ。だとすれば私は、この書評の冒頭で「流れゆく世界」と仮に名状しておいた「テリトリー」の定義を、最後に次のごとく言い直すべきなのかもしれない、すなわち——西原天気が流体への愛によって司る「テリトリー」とは「流れゆく世界」ではなく「かがよう境界」だったのだ、と。

それは《決してテクストとは成りえないリアルなここ》と《潜在的なテクストとしてのみ存在するここ以外》をかろうじて隔てる、はかない布のようなものである(図らずもレタスの葉がその形状から暗示しているように)。それはまるで光のカーテンのように、みずみずしくゆらぐ水煙でしかない。それは世界に潜むさまざまなテクストのあわいに煙るだけだ。それは世界の内側を流れていない。またその外側にも。ヴィトゲンシュタイン風に言えば、西原天気にとって流体というテリトリーは世界に属するものではなく、世界の《限界》を意味していたのだ。


〈了〉


*

*注1 ここで私はカルティエ=ブレッソンの作品を「次のシーンへの『連れ出し』を予感させるオーラ」と「リアルの本質たる非線形性の保守」の好例として挙げている。『決定的瞬間』と題された英語版写真集が世界に与えた衝撃によって、その原題『逃げ去るイマージュ』(à la sauvetteは「鼬ゴッコの」ないし「逃げ回る」が原義)が人々に一時忘れられたことはよく知られる事実だが、彼の作品の重要な特質が、瞬間=永遠性の凝固よりもむしろ「凝固以前のひろがり」にあることは、しばしば指摘される通りである。加えて写真集の表紙が彼自身の作品ではなく「永遠に反復される暫定性」をこれまた軽やかに具現したマチスの切り絵だったこと(→http://www.photoeye.com/auctions/Enlargement.cfm?id=5890)も、彼とイマージュとの関係を端的に示しているのではないかと思われる。カルティエ=ブレッソンもまた、本人の意図をはるかに越えたところで「世界の一挙的再現性」という神話的言説(これを単純に「ポエム的発想」と言っても構わないが)にとりこまれた一人だった。「決定的瞬間は、人々が求めたポエティクスだった。第2次世界大戦は、人々に再び価値の再構築を求めた。写真のリアリズムへの信仰は未だ温存されており、再構築の為には足掛かりとなるドキュメントが必要である。しかも、そのドキュメントは価値の再構築に必要な歴史、社会的意味に充填されて、新たな価値による世界表象と直結すべきものでなければならなかった。ここに『決定的瞬間』のポエティクスが胎胚する。写真イマージュは世界表象の言説的再構築に巻き込まれると同時にそれに寄与することにもなった。ブレッソン(原文ママ)にもこの言説空間の外に完全に立つことはそもそも無理なことであった」(犬伏雅一「決定的瞬間というポエティクス」大阪芸術大学紀要『藝術』30号34頁 http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou30/kiyou30_03.pdf

*注2 例えば、俳句の内部で考えられているモノ派的迫真性や即物的手法というのはあくまでも人格的リアリズムであり、本来的な即物的リアルと無関係である。そこでは物と私との関係が断ち切られていないどころか、むしろ物に対する己をむなしゅうしたところの観察(主客の相互観入による同一化)を基本原理としているからだ。言語を物象の再現性へ寄与させるといった重ねあわせの原理が疑われないとき、その者の為すのはあまりに「伝統」的な遠近法的作図に基づく線形表現なのである。

*注3 句中に事物の運動や時間の推移が詠み込まれていることと、句が動態的であることとは、全く同じではない。たとえ動的な要素が詠まれていようとも、その情景と作者との関係に線形性が見出されるようなら、それは《静態・瞬間・永遠》といった時間的ないし無時間的位置づけをもつのであり、西原の試みとは趣向を異にする(これを逆に言えば、カルティエ=ブレッソンの写真やマチスの切り絵がどれだけ完璧な静止図をもっていようとも「動いて」いるのと同じことだ)。『けむり』の句群は、つねにシーンの外側の風景が自らの湧出を待ち構えている。また句に描かれたシチュエーションは、常に潜在的空間をその状況の外(=作品言外)に予感させており、カルティエ=ブレッソンの写真やマチスの切り絵さながら、いつでも脱コンテクスト化されてしまう。かくのごとく世界となる本文(テクスト)は弛まぬ潜在性として、西原の描き出す文脈(コンテクスト)以外の場所に眠っているのでる。

*注4 ただし、身体論ないし自動筆記的な要素をもつ句では、形而上学的志向から来る主客の線形性を払拭する方法として、 動詞の現在形が多用される傾向があると思われる。これは動詞の現在形がその原型と多くの場合同型であることをトリックとした、脱時制的時空の表出をめざす試みとみなし得るのではないだろうか。またこの試みには西原の発見した手法(コンテクストのシーン化、連れ出しの原理、ト書き風エクリチュール等)とはまた別の、生きた時間を抽出するための興味深いコツが散見されるが、この句集の感想とは関係のない話なので詳しい考察は割愛したい。




 

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