2014-02-23

朝の爽波105 (最終回) 小川春休



小川春休



105 (最終回)



さて、今回は第四句集『一筆』に収録された最後の年「昭和六十三年」から。今回鑑賞した句は昭和六十三年の秋から初冬にかけての句。この年の十月から、角川「俳句」の連載座談会のために一年間毎月上京をしています。そうした仕事の疲労もあってか、十月から十二月にかけて風邪で体調を崩しがちの日々が続いています。折しも昭和天皇の御病状の思わしくない時期と重なったため、いよいよ落ち込み気味で過ごし、十一月はほとんどの句会を休まざるを得ないほどだったそうです。そういう背景と考え合わせると、爽波にしては〈鉦叩その音も湿りがちの夜ぞ〉〈立つてゐることに疲れて末枯るる〉などマイナートーンの句が多いような気もしますね。

思い起こせば二年前の一月、爽波作品の一日一句鑑賞を開始しましたが、今回で爽波の最後の句集『一筆』の最後まで鑑賞したということになります。当初は一年ぐらいで終わるかなぁ、と思っていたのですが、いざ鑑賞を進めてみると、これまで自分が見落としていた佳句が予想以上に多くて。長々と連載させていただき、週刊俳句の中の人の皆様、お付き合いくださった読者の皆様に心から感謝申し上げます。

芭蕉破れすすみ家訓は掲げられ  『一筆』(以下同)

芭蕉の葉の破れるのにも程度があり、秋風に吹かれて裂けていた葉が、強風によってさらにその裂け目を深くしてゆく。この家訓も、長い年月を経たものであろう、芭蕉に吹く風が家訓の下も吹き抜ける。この一時、屋外の自然と屋内の生活とが同調している。

悲鳴にも似たり夜食の食べこぼし

言うまでもなく悲鳴は聴覚が捉えるものだが、受ける印象は聴覚のみにとどまらず、様々な要素を内包している。食べこぼされた夜食も視覚的なものだが、その印象が悲鳴の印象と重なる。そうした作者の個人的な印象が、生々しい臨場感を持って体感される。

鉦叩その音も湿りがちの夜ぞ


「昭和天皇」との前書のある句。昭和天皇が崩御されたのは昭和六十四年一月七日。掲句は昭和六十三年の秋の句で、日々その病状が報道され、国内が自粛ムードに包まれた頃の作である。爽波の作としては素朴、平明な部類の句であるが、率直な感慨が窺われる。

あるときは引く蔓に身を委ねつつ

伸びていた豆などの蔓も、収穫が終わると取り払われる。蔓性植物は弾力を持ち、力任せに引っ張ったのでは蔓が絡まり合って、余計に引きにくくなってしまう。蔓に身を委ねるとは、瞬間の不思議な動作であるが、その方がすんなり蔓が抜けるのかも知れない。

立つてゐることに疲れて末枯るる

秋も深まると、草木の先の方から色づいて枯れ始める。さて掲句、「立つてゐることに疲れ」たのは人であろうが、草や木のことのようにも思える。いずれにせよ、かなり長い時間「立つてゐ」たようだ。草木と人とが同調して、人までも末枯れてしまいそうな。

猟犬はあるじのベレー帽が好き

地方によっても異なるが、十一月ぐらいからが猟のシーズン。お決まりのベレー帽を被った主人の出で立ちに、いよいよ猟のシーズンが到来し、自らの活躍の場がやってきたと嬉しそうに主人を見上げる猟犬の様子が目に浮かぶ。飾りの無い率直な表現が微笑ましい。

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