2014-02-16

奇人怪人俳人(12)革命前夜のアスリート・水原秋櫻子 (みずはら・しゅうおうし)今井 聖

奇人怪人俳人(12)

革命前夜のアスリート・水原秋櫻子
(みずはら・しゅうおうし)

今井 聖




まさに釣瓶落し。
秋の日暮は一気にやってくる。

昭和五年の秋の夕刻、埼玉県粕壁町(現春日部市)の旧制粕壁中学(現春日部高校)のグランド脇にあるテニスコートではパーンパーンと玉を打ち合う音が響き激しいラリーが続いている。

玉がよく見えないほど暗くなっているにもかかわらず二人の男は延々とコートの上を走りまわる。

審判もいない。ポイントが上がるたびに、どちらかがスコアを言いながら玉を追う。

もうすでに何本目かのデュースが繰り返されている。勝負が決まりかけると決まって相手の方が点を入れるのだ。

二人とも足がもつれ息が上がっているのにまるで何かに憑かれたようにやめようとはしない。部活帰りの下校の生徒がときどき見物に立つが、やがて呆れたように立ち去っていく。

ムキになっているこの二人。

一人はこの学校の教師、加藤楸邨、二十六歳。
もう一人は水原秋櫻子、三十九歳である。

どうしてこの時期にこの場所でこの二人がテニスなんかをやっているのか。



「ホトトギス」昭和五年九月号に、「或る風景」という題の秋櫻子のエッセイが載っている。

そこには埼玉県K町という表現で月三回の秋櫻子の粕壁行きのことが出ている。内容は粕壁郊外散策の話。

秋櫻子は元荒川に沿ってステッキを振りながら上流に向かい、停めてあるボートを借り、地元の子供二人を乗せて川を下るという内容である。

三十代の秋櫻子がステッキを携えているのがいかにも当時のモダンボーイの風情。

秋櫻子は後年、自著『高濱虚子並びに周囲の作者達』(文藝春秋新社・昭和二十七年刊・後に『定本高濱虚子』として平成二年に永田書房から再版)に粕壁行きの経緯を書いている。

「私は、夏のはじめから、埼玉県粕壁町の安孫子医院に月二回(筆者注・エッセイでは三回になっている)手伝いに行くことになった。ここの院長安孫子氏(注・安孫子安治)はむかし私の父(注・水原漸)の助手(注・水原産婆学校の副院長)であり、私の子供の頃、粕壁町に医院をひらいたのである。熱心な基督教徒で、医院の構内に会堂を建て、町の人の信望も厚かったが、すでに老年なので診療をつづけることが苦労である。幸い長男(注・安孫子白羽・あびこはくう)が東北大学の医科に在学して、卒業近いのであるが、その帰来するまで、私に手伝ってもらえぬかという話があった。私も忙しい中であるが、古い縁故のあることではあり、且つ埼玉あたりの景観も見て置きたいと思ったので、この申し出を承知したわけである。」

一方で昭和四年三月に東京高師第一臨時養成所を出た楸邨は粕壁中学に国語教師として赴任する。(八年後、秋櫻子の援助で東京文理科大に入学する前の話である)

赴任早々、楸邨は俳句をやっていた同僚たちの中で幹事役だった菊地烏江(きくち・うこう)に「俳句をやらないと仲間に入れてやらない」と脅されて、それまで自分で短歌など作っていたのがシブシブ俳句を作り始める。

当時、烏江たちは村上鬼城門下だったので楸邨も最初は鬼城の作品を学んだ。

とは言え、初学の頃の話である。楸邨自身が語るこの頃の作句の失敗談に、「一杯の柚子湯を飲んでしまひけり」という句を大真面目に作って仲間の句会に出し一同爆笑だったとのこと。楸邨にもそんな頃があったのだ。

テニスデスマッチの片方はこんな句を作っていた青年。対して相手は今をときめく「ホトトギス」の同人である。

ちなみにこのとき俳壇の帝王虚子は五十九歳。当時は平均寿命が短かったとはいえ今の俳人の平均より一回り以上若い。



烏江は楸邨を俳句に引き込んだ人物であり、楸邨にとっては忘れられない男となる。

楸邨第一句集『寒雷』中に「菊地烏江釧路へ去る」という前書で三句載っている。 

古利根の浮巣のみだれおもふべし
浮葉さへ今年は早き霜いたる
鳰を見ぬ国としきけばはろけしや


これら三句からも楸邨との付き合いの親密さがうかがえる。

秋櫻子は、楸邨の粕壁赴任の年には虚子によって「ホトトギス」同人に推され、翌五年には、第一句集『葛飾』を上梓。

俳壇は「ホトトギス」独り勝ちの時代である。そこの同人になられた偉い俳人がこの田舎にお来しになるというニュースをいち早く嗅ぎ付けた中学の教師たちは、秋櫻子の来診の日には安孫子医院の前で待ち受けて教えを乞い、秋櫻子はこころよくそれに応じた。

「馬酔木」は「ホトトギス」の衛星誌として大正三年に創刊。創刊時は「破魔弓」だがこの時点では「馬酔木」。主宰は佐々木綾華。秋櫻子は同人で、主宰になったのは昭和九年である。後に粕壁中の面々は多くが「馬酔木」投句者となり、その後、「寒雷」の創刊に参加することになる。

吟行をして俳句を作る。テニスをする。野球をする。卓球をする。これが秋櫻子と粕壁中学教師たちとの付き合いの実態。そして秋櫻子のスポーツに賭ける情熱は俳句のそれに勝るとも劣らないものがあった。



テニスのラリーはどうなったのか。そもそもこのデスマッチ、どちらがどういうふうに言い出したのか。

このときのことを楸邨は『加藤楸邨読本』(「俳句」臨時増刊・角川書店昭和五十四年)に書いている。

「「楸邨君のテニスなら大したことはないね」といふので一度水原秋櫻子先生とテニスの試合をしたことがある。」

この話には前段がある。秋櫻子率いる馬酔木チームと粕壁中学教師チームが野球をして下馬評に反して粕壁側が勝ってしまった。遠来の馬酔木チームは一同悄然。

そこでテニスなら負けないという悔し紛れの提案がプレイングマネージャー秋櫻子からあったのである。

偶然かどうか、同じ本にこのときのデスマッチについて秋櫻子も書いている。楸邨の文章では審判が桂樟蹊子(かつら・しょうけいし)だったと書いてあるが、秋櫻子の文では菊地烏江(きくち・うこう)が審判をやる予定だったが来なかったので審判を置かずにやったとある。

ひょっとしたらこの二人、このときだけでなく何度も試合をやったのかも知れない。

秋櫻子の方の文章は「粘りづよさ」という題。

「一セットで六ゲームとったら勝、但し五対五になったら、あとは二ゲーム連取しなければいけないのである。時刻は薄暮であった。兎に角勝負だけはつく」

ところがどちらが先行しても二ゲーム連取することができない。いつまでたっても勝負がつかない。どちらかが止めようと言えばそれで終るのだが。

「こちらからそれを言い出すと後々までもひけめを感じなければならぬ。私は知らぬ顔をしていたら、楸邨君もまた知らぬ顔をしている。随分強情な男だなと思ったが、勝負はどうしてもつかぬ」

ラインが見えなくなるほど日が暮れて勝負は結局つかずに終る。帰りの電車ではお互い疲れてずっと無言を通したとある。

文中、秋櫻子はまず自分のテニスの腕前を開陳。

「テニスは東大時代に始めたが、慶応の産婦人科教室のチームと闘い、ダブルスでは秋櫻子組一組でむこうの七組全部を破ったことがある」

要するにその辺の素人テニスとはちょっと違うよということを強調してある。とすると楸邨の腕前もなかなかのものだったようだ。

文章はこのあと、楸邨の印象「強情な男」がやがて「粘りづよい男」に変り、さらには「信頼のおける男」になったという結論に至る。

テニスのデスマッチが秋櫻子にもたらした楸邨への信頼感は、翌昭和六年の春に重大な決意をまず楸邨に打ち明けるという場面につながっていく。



昭和六年一月号からホトトギスに連載された「句修行漫談」は中田みづほと濱口今夜の対談でありその三月号は「水原秋櫻子と高野素十」をテーマとした。

そこで論じられた趣旨は「写生」の素十を称揚して「主観」の秋櫻子を難ずる内容であったため秋櫻子はホトトギス離脱の意思を固める。秋櫻子はもともと素十のガリガリの「客観」に強い疑問を抱いていたのだった。「甘草の芽のとびとびのひと並び」や「おほばこの芽や大小の草三つ」などの傾向を秋櫻子は否定的なニュアンスで「草の芽俳句」と呼んでいた。

三月号を読んだ秋櫻子はついにキレた。

その折りも折り、いつもの診療の帰り、他の教師たちと合流する前に楸邨が梅を見に行きましょうと声を掛ける。

「そろそろ梅の咲く頃となった。相変らず粕壁に出張していたが、ある日楸邨が来て、庄内古川の梅を見に行こうと誘った」

梅を見ているうちに夜になり、やがて雨が降ってきたので農家の納屋のような建物の廂の下に入って二人で雨宿りをする。そのとき楸邨に「この頃ホトトギスの方はどうなっています?」と聞かれる。

秋櫻子はしばらくためらうが、「この人に対する信頼が口をひらかせた。「僕は近いうちにホトトギスをやめるかも知れない。」」と打ち明ける。テニスのデスマッチが生んだ「信頼」である。楸邨はそれに対して「一度去った以上はしっかりなさらなくてはならない」と応ずるのである。

「少し小降りになったので私達はその軒下をはなれ、また堤上を急いで鰻屋へ行った。そこには烏江や白村(注・石井白村は粕壁中の教師で馬酔木投句者、後に寒雷に参加)がすでに句を案じつつ私達を待っていた。」

ここから「革命」は一気に加速する。

同年七月十九日、同じ鰻屋で秋櫻子は「ホトトギス」訣別前の最後のご奉公を企画する。虚子以下主要同人が参加する武蔵野探勝会を粕壁で行うことを提議し、その幹事役になることを申し出るのである。

句会の場所もその鰻屋、句会のあと皆に鰻を振る舞ってそれを最後に「ホトトギス」を辞する筋書きである。

「私は粕壁に行って楸邨その他のひとに、適当のコースを選ぶことを頼んだ。真夏のことで、古利根から庄内古川まで歩きとおすのは無理だから、まず古利根のほとりをすこし歩き、そこへ自動車を待たせて置いて、庄内古川の鰻屋まで運んでもらうことにした。」

この歴史的宴の手配と裏方は楸邨を始めとする粕壁中学の教師たちということになる。

この鰻屋の名は「新川亭」。
僕は二十年前に地元の人の案内でこの鰻屋を訪ねたことがある。

東北自動車道を岩槻ICで降り十六号線を北に向かうと春日部市に入る。そこから東に向かうと古利根川が流れており、そこを渡ってさらに東にしばらく進むと庄内古川に行き当たる。

庄内古川べりにその店はあった。「新川亭」という大きな看板が掛かっていたが、すでに店は閉鎖されていた。

図々しいとは思ったが、店の戸をたたき、お願いして家のかたにお話をうかがうことができた。

その二年前に店を閉じた新川亭は五代つづいた老舗の鰻屋で、既に亡くなられた四代目のご主人の奥様が、秋櫻子のことを知っておられた。

「当時は、このあたりは一面に葦が生えていて秋櫻子先生はよくひとりでお見えになりました。粕壁中学の先生方といらっしゃって句会をなさることもございましたが、いつもはおひとりでした。もの静かで上品なかたで、この川がお好きだったようでよく何か書き留めておられました」

「最後の句会」の場所は既に取り壊してしまったが、藁屋根の建物で八畳二間と十畳の座敷が並んでいたそうで、おそらくその仕切りの襖を外してそこで句会が行われたのではないか。

老婦人は秋櫻子先生に揮毫していただいたものですと言って五枚の色紙を見せてくれた。

とぶ鮒を紫雲英の中におさへけり

この句は秋櫻子第一句集『葛飾』の中に「多摩川の春」と題して

とぶ鮒を紫雲英の中に押へけり

と改作して載っている。庄内古川の鮒を多摩川に脚色したものか、あるいは実際に多摩川で作句したものを老婦人に揮毫したのか。

垣の梅古利根川に倒れける

この句は昭和八年刊の『新樹』の昭和七年の抄に「春雑詠」と題して

垣の梅古利根川へ倒れゐる

になっている。いずれも秋櫻子の推敲の痕が読み取れる。

他の三枚は、

蘆伸びぬ生簀に下りて鳴く燕
釣りよせて鮒大いなる土筆かな
大き波くづれて初日のぼりけり


この三句については句集採録を確認できなかった。

ここでのもてなしを済ませたあと、同年七月号の「ホトトギス」に載った三句。

墓拝む前に萍あふれをり
魂送すみたる供華に草の露
田を植ゑて沼は沼としなりにけり


この三句を最後に秋櫻子の名前は永久に「ホトトギス」から姿を消す。

同年同月号の「馬酔木」を見てみよう。

百合山羽公、佐野まもる、軽部烏頭子、瀧春一、佐々木綾華、高屋窓秋の名が雑詠欄上位に並び、石井白村も三句載っている。

波郷、楸邨もいる。

杣が家に渓越えきたる鶲かな 松山 石田波郷
朝の門掃くより遍路来りけり

何人か置いて、

花樗黄母呂の武者にこぼれけり 粕壁 加藤楸邨
馬曳いて野馬追の武者水を乞ふ

二人の俳号の上の地名がいかにも時代を髣髴とさせる。

そして三ヶ月後十月号には、近代俳句史上、最大の転換点となった論文「『自然の真』と『文芸上の真』」発表に至るのである。



ところで野球の方はどうだったのか。

野球は「馬酔木」軍、テニスはいつも粕壁中学教員軍の勝ちだったと秋櫻子自身の文にある。

秋櫻子は一高時代野球部に所属していたから本格的であり、野球の技量に於いてはこのメンバーでは群を抜いた存在であった。この対抗戦の折は捕手を務めた。

後年の写真の風貌を見ると秋櫻子と捕手はまことに適合しているイメージがある。捕手は九人の扇の要であり作戦中枢を担う。対抗戦の「馬酔木」軍常勝の影にはこの捕手ありといったところであろう。

ホトトギス離脱の件りから行くと秋櫻子と素十は不仲だったかのような印象があるが、それは俳句の傾向の違いに限ってのこと。もともと素十を俳句に引き込んだのは秋櫻子。それも医学部時代の趣味の野球が縁である。

大正九年東大二年生(当時は旧制高校が今の教養課程の年度に当るから今で言えば学部四年生に当たる)の折、血清化学教室で一学年上の素十がすでに俳句を作っていた秋櫻子に「俺も句会に連れていけ」と命じたのが二人の「俳縁」の始まり。

一学年上と言っても秋櫻子は一高入学に二浪しているので生年は秋櫻子が一つ上である。

『定本高濱虚子』の平井照敏さんの解説文によれば秋櫻子は一高首席合格の秀才ということになっているが二浪しているところは却って秋櫻子の人間味を感じさせる。

二人は六大学野球の観戦をし、落語を聞きに寄席に通った。今で言えばまさに同じゼミの親友。あまり勉強しているふうもないのに知識とセンスは抜群だったと自著の中で秋櫻子は素十を誉めている。

医学部では教室間で野球チームを作って対戦した。血清化学教室チームでは素十が投手で秋櫻子が捕手。

教室間対抗戦は白熱し、精神医学教室の内村祐之まで登場するに到った。内村祐之は鑑三の息子。一高時代は主戦投手を務め、学生野球の雄であった早慶両校を撃破し伝説となった名投手である。内村は後年、プロ野球のコミッショナーとなる。その内村のチームにも勝ち、素十秋櫻子のバッテリーチームは優勝を飾る。どれほど強かったのかがうかがえる。 

粕壁で秋櫻子が撒いた俳句の種と野球の種は、その「革命軍」の残党の多くが拠って創刊された「寒雷」に受け継がれた。

楸邨の「寒雷」創刊後二年、昭和十七年三月号の「寒雷」は一ページ約四百字詰三枚の紙幅を割いて「寒雷野球部一回戦の記」を載せている。その冒頭をご紹介しよう。

「かねがね達谷山房俳句会(注・楸邨宅)の席でたれとなく、野球をやらう、といふ気炎が立ち上りかけていたが、それがふとした機縁でまとまって、時しも頃は霜月もまさに尽きんとする日曜日の午後、楸邨主将の下に馳せ参じた寒雷在京会員は府立八中(注・楸邨の勤務校)の校庭に大野球戦を展開した。相手方は、東都高専野球界の雄、高師(旧東京教育大、今の筑波大)野球部。
ただし、新人、第三軍であるが、とにかく不足は決してない強敵である。しかし勇将の下に弱卒ある筈はなく、寒雷軍は四対三のスコアを以てこの強敵を破った。蓋し、寒雷史上特筆大書、以て後世に伝ふべき大事と言うべき快事件である。」

おどけてはいるが、三軍であれスポーツも含めた教育学の殿堂東京高師の現役軍を破るとは恐るべき実力である。

このチームで楸邨は主将で四番ファースト。打つ方では二度三振を喫したが、逆シングルで一、二塁間のゴロを捕球する超美技を演じたとある。

この「戦記」は「とにかく創設草莽の際、此の強敵に快勝したのは一致団結、真実感合の精神を発揮したためである様だ。」と結んである。

「俳句の中に人間が生きるように」とマニュフェスト「真実感合」を以て創刊された「寒雷」が草創期に一ページを割いて野球の中継をやる。この破天荒はまさしく秋櫻子から受け継いだものだ。

しかしこの号の翌月四月に楸邨は「馬酔木」を離脱することになる。皮肉な巡り合わせである。



アスリート秋櫻子の得意種目は実はテニスと野球だけではない。

「新川亭」探訪の折り、先述の「安孫子医院」も尋ねてみた。明治四十年生まれのご高齢ということで院長の安孫子白羽さんは医業を引退されていたが会ってくださった。

「秋櫻子先生は俳句のほうはもとより、医師としてもとにかく偉いかたでしたから、最初はとても近寄り難く思われました」

しかしそんな緊張も人柄にじかに接するとほぐれていった。

「温厚なかたでいつもにこにこと優しく、医療ではメスも振るわれるのだが、少しもそういう外科的な感じはありませんでした。句会でも丹念に出句された句全てを批評されました。」

白羽さんは秋櫻子を囲んでの句会にも出席し「馬酔木」にも何年か投句されたとのこと。

「秋櫻子先生は野球とテニスがお上手だったんでしょ」

僕は聞いてみた。

白羽医師は頷いて、

「それだけじゃないですよ。卓球もお上手でした。先生も楸邨さんもここでよくやりました。この間までそのときの卓球台を畳んであったんですが処分しまして」

診療が終わったあとの待合室に卓球台を拡げてやったらしい。

「どっちが上手かったんですか」

僕は突っ込んで聞いてみた。

「秋櫻子先生は、それはお強かったです。楸邨さんもうまかったですが、秋櫻子先生にはかないませんでした」

東北大学時代卓球部におられたという白羽さんが言うんだから間違いない。
ひえー!卓球もかよ。どんだけー



後年の秋櫻子は医業では皇室の御典医(宮内省医寮御用係)となり多くの皇族の子を取り上げる。

俳人としても昭和三十七年には俳人協会会長となり四十一年には芸術院会員となる。

主宰誌「馬酔木」は清新な抒情を掲げ「ホトトギス」と俳壇を二分する対立軸として現代俳句の道筋を拓き後進を育て輩出していく。すべて順風満帆の展開である。

あのとことんまで勝負にこだわったアスリート秋櫻子も歳を経るにしたがって丸くなりもうひとつの大きな趣味、油絵の方に収斂して行ったのか。

ところがどっこい。そうじゃないんだな。さすがに体を動かしての運動の方はやらなくなったようだが、今度は野球観戦の側に立つ。「西鉄ライオンズ」の熱狂的ファンと化すのだ。

ルノワール、セザンヌ張りの抒情的な風景を俳句で描いてきた秋櫻子がナイターの句を量産し、しかもその内容たるや勝負にとことんこだわり切歯扼腕しているおのれを隠そうとしない。

それらの句をいくつか挙げる。それらの制作年そしてその年の「ライオンズ」の成績と秋櫻子の年齢を付記してみる。内容の「切歯扼腕」はライオンズの年度成績と相関関係にある。ちなみにパリーグは六球団だからその中での順位である。

ナイターの負癖月も出渋るか『旅愁』
ナイターや遅月赤きとりこぼし『旅愁』
昭和三十六年「三位」六十九歳。

待宵やナイター一つ負け越して『晩華』
ナイターやツキのはじめのはたた神『晩華』
星くらくナイター勝を拾ひけり『晩華』
昭和三十九年「五位」七十二歳。

ナイターのやぶれかぶれや稲びかり『殉教』
ナイターのいみじき奇蹟現じけり『殉教』
昭和四十四年「五位」七十七歳。

ナイターのかちまけ知らず蚊遣香『餘生』
轡虫ナイターもつれ果て知らず『餘生』
ナイターのここが勝負や蚊喰鳥『餘生』
たぬき寝の負ナイターをきけるらし『餘生』
ナイターや論議尽きねど運尽きて『餘生』
昭和五十二年「六位」八十五歳。

八十五歳になった芸術院会員の秋櫻子がテレビの前で「違うだろ。そこは外角にカーブだろ」なんて呟いている姿が想像できる。何せ元捕手。昔取った杵柄である。

試合が劣勢なので腹を立てて布団に入ったが実は逆転を信じての狸寝入りだというのも可笑しい。どこが『餘生』なんだというくらい元気。ここにはテニスデスマッチでムキになった秋櫻子がまだ息づいている。

一方で「切歯扼腕」を抑制した「馬酔木」調の抒情的ナイター句もある。これらは俳句理念と感情との調和。

ナイターの光芒大河へだてけり『古鏡』
ナイターの遠空染めて雨月なり『殉教』
運河よりナイターの灯へ蚊喰鳥『蘆雁』
ナイターを見下ろす坂の八重櫻『蘆雁』
ナイターや灯も一点の蛍籠『餘生』
ナイターへ新樹の虫の群れ移る『餘生』

過日「馬酔木」に秋櫻子と野球についての小文を書いたら秋櫻子のお孫さんである徳田千鶴子主宰からお手紙を頂いた。

「私は秋櫻子からドロップの投げ方を教わりました」

孫の女の子にドロップの投げ方を教えるおじいちゃん。
やっぱりこの人、このコーナーに登場する資格十分である。



春の夢を見た。

秋櫻子を取り巻く昭和初期の俳人たちのスポーツ熱を見るにつれ、今の俳壇の覇気のなさというか、バーバリズムの希薄さをつくづくと感じた。若いもんは何をしとるんじゃというつもりはない。

いまこそ俳人平均年齢よりは少しは若いわれら相集って老体にムチ打ち「水原秋櫻子杯」争奪大野球大会(ソフトボール可)でもやったらどうかと思うのだが。

第一案は秋櫻子系の末裔たちで結社ごとにチームを作りトーナメントをやる。

第二案はホトトギス系VS馬酔木系の「新川亭の乱」の再現。

仮に第二案ならクリーンナップを能村研三、今井聖、小澤實。DHに中原道夫だあ。

「ホトトギス」軍は坊城俊樹、稲畑廣太郎、星野高士のクリーンナップ。DHは木暮陶句郎だな。

いい勝負になる。

球場は正攻法で行けば正岡子規記念球場、または史実に基づく春日部高校グラウンド。或は松坂大輔、涌井、成瀬らを輩出し僕が三十年も勤務した横浜高校グラウンドも借りられる。

今から走り込めば夏には間に合うぜ。

(了)


水原秋櫻子 三十句撰

蟇鳴いて唐招提寺春いづこ
馬酔木咲く金堂の扉にわが触れぬ
梨咲くと葛飾の野はとの曇り
葛飾や桃の籬も水田べり
高嶺星蚕飼の村は寝しづまり
春雷や暗き厨の櫻鯛
むさしのもはてなる丘の茶摘かな
なつかしや帰省の馬車に山の蝶
白樺に月照りつつも馬柵の霧
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々
蓮の中羽搏つものある良夜かな
ふるさとや馬追鳴ける風の中
むさしのの空真青なる落葉かな
寄生木やしづかに移る火事の雲
白樺を幽かに霧のゆく音か
ひかり飛ぶものあまたゐて末枯るる
わがいのち菊にむかひてしづかなる
寒鯉はしづかなるかな鰭を垂れ
降る雪の底にして鴨の青うごく
木瓜の雨ほのかに鯉の朱もうかぶ
高空に草紅葉せり火口壁
野の虹と春田の虹と空に合ふ
木瓜の朱は匂ひ石棺の朱は失せぬ
蝶失せぬ早瀬落ち合ふ渦の上
冬菊のまとふはおのがひかりのみ
懸巣飛び老いし伊昔紅踊るなり
病みしとき夢かよひしはこの冬田
綿虫やむらさき澄める仔牛の眼
妻病みて旅つづくなり冬鴎
湯婆や忘じてとほき医師の業




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