西原天気句集『けむり』を読む おまけ篇 1
モビール俳句
小津夜景
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モビール、というのはデュシャンの造語らしい。
ある時、モンドリアンの絵を見たアレクサンダー・カルダーは「この明快な絵画が動きだしたら、もっと面白いのに」と感じ、そこからモビールを考案した。このモビールに、カルダー本人は「動く抽象画」「宙に浮かぶ図形」という主題を見ていたようだ。で、ここでもう話はいきなり西原天気の『けむり』に突入するのだが、下の句、見た目からしてモビールによく似ている。
あかさたなはまやらわをん梅ひらく
この句の要となるのは「梅」である。この語を錘として掲句はゆらゆら動いている。はじめの「あ」からおわりの「ん」まで、50音表を水平方向に移動するのかと思いきや、ふいに一瞬だけ「を」へ沈んでみせるといった掲句の調子は、まるでモビールの水平揺動&空中浮遊をそのまんま形にしたようだ。
そう、まさに「動く記号」「宙に浮かぶ文字」として。
おそらく、このような浮遊感覚は「いろはにと」からは生じない。「あかさたな」だからこそ、こんな風に句そのものがうごきだす。「あかさたな」は「いろは」と違って意味をもたないし、音もあっけらかんと解放的、そしてなによりも地を這いくねるような重力感や線分性から縁遠い。と、そんな理由で、実際のモビールに吊るされた色んなモチーフが、おのおの何処かで繋がりながらも独立してゆらめくごとく、掲句の文字もまた《接点のある不連続》を行き交う記号として漂っている。
ちなみに、この《接点のある不連続》を行き交うタイプの運動は、どことなくおぼつかない時間の上を、バランスをとりながら渡る光景へと化けて、西原天気の他の句にも姿を表している。たとえば、微妙な均衡感覚が主体によって観察されつつ時間が推移する例としては《三時から三時一分へと蜻蛉》が、また時間を移送する例としては《風鈴を指に吊るして次の間へ》がすぐさま思い出されよう。また天秤というモビールの仕組みそのものを詠んだ《分銅と釣り合つてゐる風邪薬》といった例もあり、いずれの句からも、わずかな空気の流れと時間の動きとを読者は感じることができる。
(いったいこの作者は「時間という不確かなものが、何処かしら繋がっていて、しかも渡り得る」ということを、一種の奇跡として感知しているらしい。これは本人の日常的な身体感覚なのだろうか? もしそうだとしたら、とてもシュールな人生である。)
モビールに限らず、キネティック・アートの本質とは時間の形態化にあり、その実際的な表現はデュシャンやモホリ=ナジの作品に始まっている。特にモホリ=ナジは光の調性を利用して時間の運動を表した多くの作品を残したが、私は下の句をはじめて読んだとき、その影ではなく光の切り取られた麗らかな風景に光のモビール、あるいは動くフォトグラムを感じないではいられなかった(なにしろこの句の作者は、彼自身の根源的主題である水とその流れとを、光のカーテンのように感受している人だ)。
にはとりのかたちに春の日のひかり
カルティエ=ブレッソンに深い影響を与えたモホリ=ナジのフォトグラムがそうであったのと同様、私にはこの句の風景が「カメラをつかわない写真」のように思われる。日が移りゆくに従って、にわとりのかたちも少しずつ変わってゆくだろう。そしてそんな変容を享受しつつこの「宙に浮かぶかたち」のたゆたうさまは、西原天気のつねに感受する《かがよう境界》をもきっと表現しているに違いない。
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以上、西原天気『けむり』の作品とキネマティック・アートとの類似は「流体領域」本編のテーマだったが、こちらのおまけ篇ではキネティック・アートとの接点を、ほんの少しだけ、話題にしてみた。
〈了〉
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