西原天気句集『けむり』を読む おまけ篇 2
水と時間
小津夜景
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西原天気『けむり』を読んでいるとき、ふと「水を利用した脱時制的光景ってどんなものがあったっけ?」といった疑問が頭に浮かんだ。それでたまたま思い出したのが下の詩、高啓の「尋胡隠君」。
渡水又渡水 水を渡り また水を渡り
看花還見花 花を看 また花を看る
春風江上路 春風 江上の路
不覚到君家 覚えず 君が家に到る
この詩、我知らず君の家に到っている、と告白する〈私〉の通い路は水上にある。無意識の営為よろしくオートマティックに〈私〉を運んでゆくこの水は、とてもなめらかな流体のテクスチャーを感じさせる。
もっともこれは水の質感であって、〈私〉の時間のそれではない。〈私〉の意識に流れる時間は「又」「還」というリフレインが示すように決してなめらかではなく、繰り返される乗り換え=切断が存在するようだ。
どうやら、この詩の〈私〉は、外在的には水上というスムースな経路をゆきつつも、その内面下では次の流れへの経常的な《乗り換え》を経ないことには「君が家」に辿り着くことができない、ということらしい。
それゆえ〈私〉は「時間という不確かなかたちの、何処かしら繋がっている部分を、奇跡的に渡りつぐ」といった《接点のある不連続》をいくどなく賭してゆくことになる。
一般的に見て、水の調性は「地(座標)に根ざさない時間の図」を表象するのに大変便利なものだ。
高啓の詩では《接点の或る不連続》といった時間の図が水と掛け合わされることで、〈私〉の在り方は拡散系、線分系、円環系といった日常的な時間意識のパターンから申し分なく乖離させられている。
そして勿論この詩の醸し出す幽玄さに、時制をもたない中国語の動詞の力が深く関与していることは言うまでもない。かくして過去完了とも未来完了とも決して交わることのない「尋胡隠君」の水の旅は、中国語のオハコともいうべき幽霊的な「脱時制的世界」を十全に繰り広げるのである。
ところで、この詩の文字を頭韻にして「君を尋ぬる歌」という作品を書いた紀野恵という歌人がいる。高啓の詩は五言絶句なので、紀野の短歌は20首連作となる。起句(渡水又渡水)のみ引用すると、こんな感じだ。
渡らする為存するにあらざりけりそなたこなたのあはひの水は
水鏡砕くがに椿落つたりな三年前の恋びとおもふ
又ゆめを見つると言うて欺けば欺かるると知りつつゑまふ
渡りきと確(しか)と思へどささ波のさらとも立たで水面夕星(みなもゆふづつ)
水に棲む如かる君の思はるる袖ゆらぐ藻の、言は水泡(みなは)の
高啓のそれとはうってかわって、紀野の作品では水をめぐる時間と〈私〉との関係がこまやかに叙述されている。
1首目の水は、こちらとあちらを隔てる絶対的な境域を象徴している。2首目では、その絶対的境域を花がくぐりぬける瞬間〈私〉の心に昔の恋人の姿が甦るが、この水が「鏡」と表現されているところを見ると、どうやら〈私〉はジャン・コクトー『オルフェ』さながら冥府への入り口を水面に見ているようだ。
4首目は、確かに渡ったと思った水が微動だにしていなかった残酷が、美しい夕暮れとの相乗効果において描かれている。そして3、5首目では、このような感覚を生きながらえる〈私〉が、現在の恋人のことをも「私の今を欺く人」「私がゆくことのできない水中に棲む人」などと感じつつ、顕在する時の流れからはぐれた、あるいはその流れに全く乗ってゆけない夢のごとき世界を漂っているさまが記されている。
この連作における水の表象するものは、いわゆる生と死と呼ばれるタイプの《接点のある不連続》である。
紀野の作品は高啓のような「いくつもの時間の切断を渡ってゆくと、知らないうちに《そこ》へ辿り着いている」不連続性とも、また「流体領域」本編で見た西原天気の写生のような「渡っても渡っても《ここ》にいる」不連続性とも違って、非常に安定的な二元的構造のそれを起点としている訳だ。
しかしながらそこに描かれる生と死は、連作という方法の中でさまざまな叙述的混乱にさらされ、ついには時間の画定などなんの意味もなくなるような無秩序(時制の混乱状態)に陥ってしまう。
ひとつの歌が詠み終えられた瞬間、あたかもその歌の意味に打ち消し線を引くかのごとく次なる歌が詠みつがれ、〈私〉の過去、現在、未来の閾はしだいに反故にされてゆく。そして最後には、この連作における生と死とが(はじめの5首がそれを決定的に暗示しているように)まったく等価な眩暈にすぎないことが暴かれるに至る。
このようにして「君を尋ぬる歌」は、さまざまな時制に身を浸しつつも、その時間に従って〈私〉が生きることはないし、ましてや死ぬこともないといった「非人間的な脱時制」の世界に帰するのである。
ところで、このような「地(座標)を引き裂くような時間の錯乱図」を書いてしまった〈私〉本人は、一体どこに存在することができるのだろう?
私は次のように思う——時空という先験的形式を失った〈私〉は彼女にとってのもうひとつの先験的形式、すなわち定型という器の中にみずからを安置しているのではないだろうか、と。
なぜなら、そもそも定型で書くとは、人がそれぞれに有する固有の時空感覚から亡命することを意味し(無論この亡命がラジカルなそれとなるか、あるいは反動的な「私性返り」を患うことになるかは書き手如何による)、また内在的には「生きつつ死に、死につつ生きる」ことを夢見る脱時制者らのための《浮き舟》を編むことに他ならないからだ。
〈了〉
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