2014-04-20

悪漢俳句:断章 西原天気

悪漢俳句:断章

西原天気



ジョン・グッドマンという俳優。いちばん印象に残るのは『デヴィッド・バーンのトゥルー・ストーリー』(1986年/デヴィッド・バーン監督)で、婚活中のテキサス男を演じたもの。



それにしても、この「ジョン・グッドマン」という名(本名)。日本語でいえば「善人太郎」といったところでしょうか、と、英語の知識も英米文化の知識もなく言ってみたのですが、役柄・キャラも「善人」そのもので、なんということだ! この姓名は! と吃驚してしまうのです。

監督のデヴィッド・バーンは、あのトーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンです。みずからこの映画でレポーター=見学者の役割を演じています。こちらはけっして「善人」タイプではなく、ちょっと皮肉屋で、もともと目に冷静と狂喜を同居させたようなルックスです。

と、まあ、なぜ「悪」についてお話しするのに、「善人太郎」なのか。その根拠はさておいて、そういえば、色川武大に「善人ハム」という短篇があります。登場する「肉屋の善さん」は、戦争で勲章をもらい、脂身が嫌いなので(?)霜降り牛肉を置かない、麻雀の弱い「善人」です。この話には「善人」の2文字では片付かない機微が溢れているのですが、そのへんは実際に読んで味わっていただきましょう。

ここで言いたいのは、作者の色川武大もまた、デヴィッド・バーンと同じく、善人タイプではないということ。色川武大/阿佐田哲也が数々の悪漢小説(ピカレスク)の名作を残したという点でも、「善」とは程遠い。

ところが、これはデヴィッド・バーンにも言えることなのですが、色川武大のような「悪」と関連付けたいような人たちの目を通すと、「善」は、原則論や道徳臭からみごとに解放され、独特の輝きを放ち始める。「善人の良さをほんとうに知っているのは、悪に親しんだ人たちなのではないか」と、ワケのわからないことを考えたりします。

一方、善と悪は、それほど単純に割り切れるものでも、対立するものでもない。そのことも心にとどめておきましょう。

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ピカレスク、これ、欧米文学史的な把握はさておき、日本版ピカレスクの名作として、阿佐田哲也の一連の麻雀小説・ギャンブル小説を挙げることに異存のある人はいないでしょう。とにかく、面白い。ひりひりする。かなしくもある(ちなみに、これ悪漢の条件でもありますね。おもしろ、ひりひり、かなしみ)。

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悪漢と悪人は、ニュアンスが違う。悪漢には、ちょっとした痛快、明るさがあります。

凡人にも、小市民にも、心の隅に悪漢に憧れるところがあるのは、悪漢のもつポジティブな(?)要素のせいでしょう(同義反復、御免なすって)。

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あ、そうそう、むかし、同時期に2冊、これは珠玉のピカレスクだなあ!と感心した本があります。

大川豊『金なら返せん! 大川総裁の借金返済日記』。中村うさぎ『女殺借金地獄 中村うさぎのビンボー日記』(角川書店、1997のち「だって、欲しいんだもん! 借金女王のビンボー日記」と改題、文庫化)。

どちらも、無法。

大量消費社会、あるいは拝金主義はびこる現代の、隙間か、あるいは先端か、返すアテも返す気もなく蕩尽を繰り返す2つの物語。大川豊も中村うさぎも、とびきりの悪漢(ピカロ)でした。

(「悪漢俳句」と題しながら、なかなか俳句の話が始まりません)

また別の時期には、これも2つ、ピカレスクだなあ!と感心しつつ、また、ひりひりとした胸の痛みを感じつつ読んだのが、団鬼六『真剣師 小池重明』と小林信彦『天才伝説 横山やすし』。こちらは著者が、ではなく、評伝の登場人物。将棋指しの小池重明、漫才師の横山やすし。才能豊かなゆえに、凡人の枠からはみ出してしまう悪漢もたくさんいます。

小池重明と横山やすし。2つの物語は似たところもあれば、まったく違うところもあります。相違は、これらの評伝の語り部たる著者、団鬼六と小林信彦の資質の違いによるものかもしれません。悪徳と密接な作家・団鬼六の心優しさが際立つこと、注目点です。

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さて、そろそろ、俳句の話もしておきましょう。

俳句における悪漢は?と問われて、まず思い浮かぶのは、裏悪水です。発表された俳句作品は、当面、「悲しい大蛇」10句。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2010/02/blog-post_3991.html

俳句作法からの脱法・無法。残酷で怜悧な作風。

「こいつには人間の血が通っているのか?」と憤る方も多いことでしょう。はい。「俳句自動作成プログラム」なので、人間の血は通っていないのです。

この「悲しい大蛇」は、裏悪水の生みの親ともいうべき山田露結さんの句集『ホームスウィートホーム』に付録。そこで不肖・私は解説文のようなものを書く機会を与えられましたので、そこから引いておきます。

一方、俳句でよく言われるところの五七五定型であるとか季語であるとか切れであるとか、そんな決まりのようなものに、まるで頓着しない。いわば無法者です。俳句形式を制服のようにきちんと着用する俳人諸氏からは「非道い!」と誹られるに充分な外見です。
 登場するシロモノ、これまた非道い。なにしろ、あなた、男根です。臓器です。美少女の嘔吐です。
 というわけで、なんだかとてもワルそうで、抽斗にはエロでグロな物体・事象が呪物のように蓄えられている。そんな裏悪水ですが、読後に、なんとも言えぬ爽快感があるのは、どうしたことでしょう。
 考えるに、これは、私たちの悪への愛、悪への憧れというだけでないようです。ひとつには裏悪水の口ぶり。妙に恬淡として、伊達さえ感じます。どんな状況にも「それもよかろう」と、受けて立つでも身をかわすでもなく、きわめてクールに、洗練された挙措を保つ。なんとも美しい悪漢ではありませんか。さらには倦怠や虚無。魅力的な(とくにオンナにモテる)悪漢に特有の属性も備えています。
 つまり、この人には「裏」も「悪」もある。そのうえで「水」のように透明でなめらかな特性を併せ持ち、読者の身体へ、するすると滑りこんでいきます。ああ、なんと悪辣な。
山田露結句集『ホームスウィートホーム』(2012年12月/ 邑書林)つけたり「悲しい大蛇」解説:西原天気)より
悪漢に憧れる凡人・善人の面目躍如な一文になっちゃってます。

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裏悪水ほど悪辣でなければ、人間にも、ちょっとした悪事は働けます。

  不健全図書を世に出しあたたかし  松本てふこ

イケナイ本は世の中にたくさんあります(世に出す人たちのおかげです)。不健全図書は法に触れなければ犯罪ではありません。「その昔、思春期に差しかかった子供たちには誰にも聞けないことを盗み見て裏の世界を知るための指南書のようなものだった」と、好意的な人もいらっしゃいますが、不健全の烙印は免れない。

イケナイものは、しばしばとても愉しいのに、「イケナイものはいけない」と大声で叫び続ける人たちがたくさんいるようです。彼らはそれを「善行」と信じて疑わないのでしょう。それも、他人のためにする善行と。

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  銀座明るし針の踵で歩かねば  八木三日女

  全人類を罵倒し赤き毛皮行く  柴田千晶

ピンヒールもフェイクファーも、悪漢ヒロインの武装のようなものでしょう。

  扇子の香女掏摸師の指づかひ  佐山哲郎

香り高い扇子もそうかも。

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悪漢な俳句は、いろいろと見つかるはずです。ただ、多くはない。悪漢俳人となるとなおさらです。

「俳句をする」という行為のメインにあるのは、悪事とは程遠いものなのでしょう。いわゆる「自然を愛でたり」「日常些事を切り取ったり」「心情をモノに託したり」(ああ気持ちの悪いクリシェ。語の上でだけでなく行為としてのクリシェ)は、悪漢のやることではないので。

俳人の「俳」は「人でなし」と、軽口では言っても、「人でなし」な句にはそうそうお目にかかれません。しかしながら、それは当然です。(実際はどうだかわからないにしても)「善良」な人が「慎ましく」暮らしている、というのが、「俳句的ノリ」の主成分なのですから。

誤解のないように言っておくと、俳句における悪漢・悪意・悪行は、実生活上のことではありません。「ノリ」の話、スタンスの話です。

悪漢的なまなざしの句は、もっとあっていいのではないか。悪漢好きの私としては思います。

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今回の特集「悪い俳句」についての解題を簡単に。

小津夜景さんの「ロマンティックな手榴弾」は、ノワールな俳句(黒い俳句)にいわば搦め手からアプローチしたもの。いつもながらの筆の冴えに加え新趣向の「文体の遊び」が見出だせて、愉しい。最後の掲句。ここで私自身は快哉かつ大笑い。私の友人の句ということもあり参照を挙げておきます。
http://tenki00.exblog.jp/4116418/

藤幹子さん「刺すために BL(ボーイズラブ)と成員相互間善悪判断基準」にある阿部完市《少年来る無心に充分に刺すために》。秋葉原無差別殺傷事件(2008年6月8日)の際に、この句を関連付ける文章を読み、違和感がありました。ナイフと限定してよいものかどうか。藤幹子さんのこの記事は、そこから遠くに連れていってくれるものです。

石原ユキオさん「俳句警察24時~『遊戯の家』に潜入せよ!~」は、やはりこの特集に金原まさ子さんはハズせないことを改めて思い知らされる記事。

金原まさ子さんの句群は、モチーフはもちろんなのですが、俳句のしきたりという観点で、いま最も無法者かつ乱暴者な俳句でしょう。昨今は若い俳人も増えているといわれますが、そんななか、100歳を超える金原まさ子さんが俳句的因習から最も自由であるという事態は、なにか重大な事柄を示すものかもしれません。

古井戸秀夫さん「色悪 江戸のピカレスク」を転載させていただいたことは、今回の特集の名誉。ありがたいことでした。

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「いい俳句」という語を見て(例えば『ku+』創刊号の目次)、内容の如何にかかわらず、興味をそそられない人、「もう、あくびが出て出て」という人(例えば私)がいます。この特集「悪い俳句」は、そういう人向きです。

といっても、この「悪い俳句」が「いい俳句」と二項を形成するものではないことは、見ておわかりのとおり。ここに特集したのは、正確にいえば「ワルな俳句」。

『ku+』創刊号の特集に少し触れておけば、そこで上田信治さんも書いているとおり、「いい俳句とは?」という野暮をあえてやった。そのことを賞賛すべきであり、そこに流れる/同時に上田信治さんの俳句観に流れる、ある種のオプティミムズをこそ、貴重なものと拍手喝采すべきなのです。

(ただし、「いい俳句」とは?などといったアンケートに応じてくださった皆さんの回答を腑分けし、分析するなんざあ、相当なワルですぜ)

そのだんで行けば、悪漢俳句に、ある種のペシミズムを見て取ることも可能でしょう。

恐縮ながら拙作。

  とある日の全句にビートきよし臭  西原天気

過去未来の全句にある日、あるいは本日あなたが私がつくる全句に、ビートきよし臭が漂う。悪意に満ちた一句、のつもり。

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そろそろ終わりましょう。最初に挙げたジョン・グッドマンの歌っていた歌を覚えておいででしょうか。

People Like Us

「われわれみたいな人たち」というこの語には、同じ社会階層・社会集団という含意があり、帰属意識やプライドが色濃い。

「善人太郎」が歌うこの歌の、外に、悪漢はいます。

集団からはじかれて、いや、そんなところにいるのはまっぴらごめんと飛び出した人たちが、生きていく術を見つける。それが悪漢稼業というものでしょう。

悪漢俳句もまた「まっぴらごめん」なスタンスを身につけた句です。俳句をする人たちの、「俳句をした結果の俳句」の、さまざまの帰属意識の外側にいる句。

凡庸な句をつくりつづける私たち/私を、その特異な輝きをもってして魅了する。それが悪漢俳句であると、凡庸に締めくくっておきます。


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