2014-07-27

俳句の自然 子規への遡行33 橋本直

俳句の自然 子規への遡行33

橋本 直
初出『若竹』2013年10月号
 (一部改変がある)

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なぜ、子規は芭蕉句の中で「雄壮」を善としたのであろう。今日から見れば、一般に芭蕉句にそのような印象はあまりないのではないかと思う。もっと言えば、たとえ子規の主張通り『万葉集』などの古代の日本の文学において「雄壮」な歌があるにせよ、そもそも俳句作品を「雄壮」という概念をもって高く評価するということは、その後の歴史をみても、子規以外にはほとんどみられないのではないだろうか。

ここで視点を少し俯瞰していうと、そもそも、子規は何故にここまで芭蕉を批判する資格をもつのだろう。資格という物言い方が不適当なら、それを可能にするもの、読者に聞く耳をもたせることができた理由、と言い換えても良い。そして、ここで言う子規は、現在の一応俳句史上で評価の定まった子規ではなく、「芭蕉雑談」を書いている明治二十年代末の、まったく世評定まらぬ人物としてのそれである。

ひとつには、これは西洋からもたらされた近代知によって前近代全般を批判的に超克しようという明治の必然的な歴史の流れの中の出来事であること。それは常に西洋一辺倒の流れではなく、子規や漱石が十代の頃には鹿鳴館的な洋化の揺れ戻しが起こって一方で漢籍を学ぶことがブームになったりもするのであるが、帝国大学という国家繁栄のための西洋近代知を学ぶ最高学府で人文科学を学んでいた者としての子規は、近代知をもたぬ(きちんと学問をしていない)者と決定的に違う読者をもつ資格を得ていたはずである。それは、工業技術的に馬や帆船に対する内燃機関のような差の姿で現れるものではなく、同じ文化を共有した者とそうでない者の間によこたわる差異として現象するように思われる。喩えていうなら、たとえじゃんけんのような簡単なものであっても、原則としてゲームはそのルールを共有していないものの参加はゆるされないことに似ている。

子規はいわば「俳句」という新しいゲームのルールを策定しようと試みているわけで、それは旧派宗匠の俳諧とはルールが異なるはずである。そして、近代知を共有する人々、すなわち近代社会で知識人として活躍する人々はどちらのゲームを楽しむほうを選ぶのかといえば、勝敗は自ずと決していたということができるであろう。その意味では子規はまぎれもなく前近代としての宗匠俳諧を切り捨てた近代の人である。その子規が、古典作家としての芭蕉の佳句として「雄壮」をあげるということは、どういうことなのであろうか。一つの考える補助線として、『俳諧大要』中の記事がある。「雑(無季)の句」について述べた部分である。

雑の句は四季の聯想無きを以て其意味淺薄にして吟誦に堪へざる者多し只雄壯高大なる者に至りては必ずしも四季の變化を待たず故に間々此種の雑の句を見る古來作る所の雑の句極めて少きが中に過半は富士を詠じたる者なり而して其吟誦すべき者亦富士の句なり。
(『俳諧大要』「第四 俳句と子規」初出明治二八年)

まとめると、雑の句は中味がなくつまらないものが多いが、「雄壮広大」なものは例外で、だから富士山がよく詠まれ、古句を見ても読むに耐えるものは富士の句だというのである。たしかに、日本一高い山である富士はイメージしやすい。

ここで子規の「雄壮」を視覚に絞ってみたとしたならば、「夏草や―」句は眼前にある景色は文字通り草野原でしかない。『奥の細道』の文章がなければ平泉の高館からの風景だという情報も得られない。目に見えぬ「兵どもの夢の跡」という表現に大きな歴史時間的広がりを見ることで「雄壮」になるのである。ただし、もちろんこれらの言葉にパソコンのメモリーのような記憶装置機能をもっている訳ではない。ではその広がりはどこからやってくるのか。一方『俳諧大要』で子規が言う富士の「雄壮」に歴史時間的な広がりをみることは難しいだろう。

つまり、この「雄壮」という概念には時間空間ともに含まれるとともに、それぞれ個別に想定されてもいる。

俳句は短い言葉で世界を表現しようとするから、ほとんどの場合、部分で全体をいうことになるだろう。ということは、そこで部分から全体を把握する文法が共有されていなければならない。というより、むしろ積極的に部分であることによって、全体像を想起させる文法構造が内在するといったほうがよいだろうか。そしてその上で、実態としてはみえない全体像を見たり聞いたりした気になっているだけかもしれない。実はそのことは、俳句に限ったことではない。
絵画にしても、彫刻にしても、対象の持つ次元を常にいくつか切り落とす。絵画においては体積を、彫刻においても色、匂い、触感を、さらに両者において時間の次元を、具象作品は、その全体が対象のある一瞬にとらえられたものだから(レヴィ=ストロース『野生の思考』)
子規が俳句において「雄壮」と呼ぶものの正体は、実際には人類には困難なことである、表現対象の時空を限りなく拡張して全てを神の目線から眺めまわすと同時にコレクションしたいという、男性的な所有への欲望が生み出した文法構造の変容した表現の姿なのかも知れない。それは喩えて言うなら、世界を言葉という部品に置き換え、縮尺模型として組み立て直すということではないか。そして、そのようなことを志向することは、とても近代的な欲動ではないだろうか。









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