2014-07-27

スカートの中の青空 内村恭子句集『女神』を読む 松本てふこ

スカートの中の青空
内村恭子句集『女神』を読む

松本てふこ


ふらここにフラゴナールの青き空

小学生の頃、世界中の美術館を100巻シリーズか何かで紹介する1冊500円のグラフ誌に凝っていたことがあって、フラゴナールの「ぶらんこ」もその時に知った。

ぶらんこに乗った女性の、風に飛ばされそうな帽子、スカートの襞とペチコートの白さ。

木陰に隠れて自分のスカートをのぞこうとする貴公子を蹴り上げるような体勢でぶらんこを漕ぐ彼女には、こちらに飛び出してきそうな鮮やかさがあった。小学生だった頃は「こんな、男がスカートの中をのぞいてるだけの絵がかしこまって美術館に飾られてるなんて、変なの」と思ったものだ。

当時はよく分かっていなかったけれど、今見ると画面の左右に貴公子とぶらんこをあやつる従者とをくすんだ色合いで配置し、中心にぶらんこに乗る女性を光いっぱいの色合いで描いており、俗っぽい題材が冷徹な色味の選択と構図で捉えられている絵なのだと分かる。


内村恭子の句集『女神』には、掲句のように自然なかたちで、西洋美術史を彩る画家だったり文学者の名が出てくる。ワトーが描いた霧が日本の秋とつながり、オキーフの描いた骨の白さが夏を呼ぶ。ブラッドベリの死が遠い銀河の輝きを濃くし、春の宵をしみじみと感じながら、ランボーと酌み交わしたくなる。作者が西洋の絵画や文学に親しんできたからこそ、友達を呼び寄せるような気軽さで定型の中に固有名詞を詠み込むのだろう。

掲句のふわりとした頭韻、放り投げられた女性の脚のような下五。

この句のぶらんこに人は乗っているだろうか。誰も乗っていなくて、ただ人を乗せるべき場所に青い空が見えているのだろうか。誰かが乗っていて、青い空を眺めているのだろうか。さっきまで乗っていたけれど降りてしまって、青空の下で乗り手を失ったまま揺れているのだろうか。どれでも面白い。どの青空も少しずつ表情が違っていそうだ。

どの読みを採るにせよ、掲句を読むたびに中国の古俗から生まれた「ふらここ」という季語がロココ絵画と出会ったことにより、21世紀のきっと何て事の無い公園のぶらんこが持つ無限の可能性を描きうることになった不思議さをしみじみと感じ、楽しくなってしまう。


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