ラベル 内村恭子 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 内村恭子 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017-09-17

〔今週号の表紙〕第543号 ニキ・ド・サンファルのタロットガーデン 内村恭子

〔今週号の表紙〕
第543号 ニキ・ド・サンファルのタロットガーデン

内村恭子


ローマの北東、車で約2時間の海に近い小さな村の丘の上にニキ・ド・サンファルのタロットガーデンがある。

ガウディのグエル公園に刺激を受けたといわれるこの公園には、タロットカードをモチーフとしながらもニキ独特の解釈の加わった造形作品、有名なナナ、ドラゴン、蛇、鳥、死神などが点在している。



南トスカーナの明るい陽光の下では、タロットという重さはなく、オリーブの木々に囲まれて、多用された硝子のモザイクが輝いている。



中を通り抜けられる彫刻というか建物も多く、老若男女が楽しそうに散歩している。外界から隔てられ、そのスケールは圧倒的な迫力を持ちながらも、中に入れば包み込まれ浄化されるような作品群だ。

ニキが友人から土地の提供を受け、数十年の歳月をかけて作り上げた世界。パートナーのティンゲリーとのコラボ作品も見どころのひとつだ。



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫こちら

2014-07-27

スカートの中の青空 内村恭子句集『女神』を読む 松本てふこ

スカートの中の青空
内村恭子句集『女神』を読む

松本てふこ


ふらここにフラゴナールの青き空

小学生の頃、世界中の美術館を100巻シリーズか何かで紹介する1冊500円のグラフ誌に凝っていたことがあって、フラゴナールの「ぶらんこ」もその時に知った。

ぶらんこに乗った女性の、風に飛ばされそうな帽子、スカートの襞とペチコートの白さ。

木陰に隠れて自分のスカートをのぞこうとする貴公子を蹴り上げるような体勢でぶらんこを漕ぐ彼女には、こちらに飛び出してきそうな鮮やかさがあった。小学生だった頃は「こんな、男がスカートの中をのぞいてるだけの絵がかしこまって美術館に飾られてるなんて、変なの」と思ったものだ。

当時はよく分かっていなかったけれど、今見ると画面の左右に貴公子とぶらんこをあやつる従者とをくすんだ色合いで配置し、中心にぶらんこに乗る女性を光いっぱいの色合いで描いており、俗っぽい題材が冷徹な色味の選択と構図で捉えられている絵なのだと分かる。


内村恭子の句集『女神』には、掲句のように自然なかたちで、西洋美術史を彩る画家だったり文学者の名が出てくる。ワトーが描いた霧が日本の秋とつながり、オキーフの描いた骨の白さが夏を呼ぶ。ブラッドベリの死が遠い銀河の輝きを濃くし、春の宵をしみじみと感じながら、ランボーと酌み交わしたくなる。作者が西洋の絵画や文学に親しんできたからこそ、友達を呼び寄せるような気軽さで定型の中に固有名詞を詠み込むのだろう。

掲句のふわりとした頭韻、放り投げられた女性の脚のような下五。

この句のぶらんこに人は乗っているだろうか。誰も乗っていなくて、ただ人を乗せるべき場所に青い空が見えているのだろうか。誰かが乗っていて、青い空を眺めているのだろうか。さっきまで乗っていたけれど降りてしまって、青空の下で乗り手を失ったまま揺れているのだろうか。どれでも面白い。どの青空も少しずつ表情が違っていそうだ。

どの読みを採るにせよ、掲句を読むたびに中国の古俗から生まれた「ふらここ」という季語がロココ絵画と出会ったことにより、21世紀のきっと何て事の無い公園のぶらんこが持つ無限の可能性を描きうることになった不思議さをしみじみと感じ、楽しくなってしまう。


2014-03-16

【週俳2月の俳句を読む】ぺぺ女 祝福の水

【週俳2月の俳句を読む】
祝福の水 内村恭子氏の句を読んで

ぺぺ女


朝の椅子まだ濡れてゐる桜蕊  内村恭子(以下同)

雨で花びらを失って、朝の空気に初めて直に触れた蕊。
外に出されていた椅子はそのままの形で一晩を濡れて過ごす。
いっとき咲いて散る花と、季節を通じて同じ形を保ちゆっくり劣化していく椅子とを、等しく輝かせる朝であり、等しく濡らす水分である。
無生物にそして生物に、なんの情緒の配分もせず与えられた光と水は、大いなる祝福のひとつの姿であろう。


ケセラセラ立夏の雨の嬉しくて

ケセラセラ、の乾いた感覚があってこその雨の喜び。
それは寒暖の関係などと同じく、ものごとの両端を知っていることでより強く得られる感覚である。
濡れることを自覚するには乾いている状態がまずあることが必須である。
それは光と闇との関係もそうで、悲喜、幸不幸といった心的概念にもあてはめることができるだろう。
ケセラセラという言葉は、幾多の体験を積み重ねた上で、それら体験への執着を手放してこそ口にできる言葉である。
邂逅別離、生老病死、どれをもそのまま受け入れるということ。
ケセラセラは、大きな悲しみ大きな喜びを経た人が、それらに膝を折ったり道を曲げたりせずに生きてようやく得る感覚である。
出会った事象に等しい価値を与え、それを受け入れる。
そんな人が、今この季節の緑、雨の粒のきらめきを真に嬉しいと思っている。
この句の上機嫌さはアランの幸福論を連想させる。


黒あげは道は乾いてをりにけり

同じように黒く、しかし濡れていて柔らかい生物と乾いた固い無機物。
生き始めることは濡れはじめることだ。
死ぬことは乾くことだ。
その両方があり、両方がつりあってこの世を形作っている。
蝶は飛んで去り、いつかは土の一部になり、道は生き物に踏まれながらその下で次の生き物を育む。
自由に飛び回りはじめる蝶と踏まれて埃を舞い上げる土の道を、同じ黒色で目に浮かべたわたしは、生きて死ぬこととその循環をこの句から連想した。


聖五月ケニヤの空を早送り

ケニアのだだっぴろい土の上にあれば、空の動きはよく見える。
土上の生物の小さな動きを超えて、空はその色や雲を早送りしていく。
生きていることはちっぽけなことだ。循環する空の大きさに比べれば。
貧困や餓死をもそのありようのまま、まず生きて存在していることを祝福しているような、広さと大きさを感じる句だ。


内村恭子氏の両腕は自分を抱く腕ではなく、事象を感じるために世界いっぱいに広げている腕だ。
その手に落ちてくる事象をすべて大小優劣なくとらえる。
その腕を広げている自分さえ、一事象となり世界の点として存在している。
自己を世界の中心に決して大きく据えたりはしない。

ケセラセラ、清々しい水をめいっぱい飲ませてもらった気がします。



第354号 2014年2月2日
内藤独楽 混 沌 10句 ≫読む
第355号2014年2月9日
原 知子 お三時 10句 ≫読む
加藤水名 斑模様 10句 ≫読む
第356号 2014年2月16日
瀬戸正洋
 軽薄考 10句 ≫読む

第357号 2014年2月23日
広渡敬雄 ペリット 10句 ≫読む
内村恭子 ケセラセラ 10句 ≫読む

2014-02-23

内村恭子 ケセラセラ 10句

画像をクリックすると大きくなります。


週刊俳句 第357号 2014-2-23
内村恭子 ケセラセラ
クリックすると大きくなります
テキストはこちら
第357号の表紙に戻る

10句作品テキスト 内村恭子 ケセラセラ

ケセラセラ  内村恭子

ふらここを残し屋敷は庭園に
新学期女子の三人組ばかり
木苺の花幼年の白き無垢
ケセラセラ立夏の雨の嬉しくて
朝の椅子まだ濡れてゐる桜蕊
若楓真昼の腕をさしのべて
黒あげは道は乾いてをりにけり
聖五月ケニヤの空を早送り
木下闇トレイルランのまたひとり
裏窓に銀の軌跡をかたつむり