【週俳2月の俳句を読む】
祝福の水 内村恭子氏の句を読んで
ぺぺ女
朝の椅子まだ濡れてゐる桜蕊
雨で花びらを失って、朝の空気に初めて直に触れた蕊。
外に出されていた椅子はそのままの形で一晩を濡れて過ごす。
いっとき咲いて散る花と、季節を通じて同じ形を保ちゆっくり劣化していく椅子とを、等しく輝かせる朝であり、等しく濡らす水分である。
無生物にそして生物に、なんの情緒の配分もせず与えられた光と水は、大いなる祝福のひとつの姿であろう。
ケセラセラ立夏の雨の嬉しくて
ケセラセラ、の乾いた感覚があってこその雨の喜び。
それは寒暖の関係などと同じく、ものごとの両端を知っていることでより強く得られる感覚である。
濡れることを自覚するには乾いている状態がまずあることが必須である。
それは光と闇との関係もそうで、悲喜、幸不幸といった心的概念にもあてはめることができるだろう。
ケセラセラという言葉は、幾多の体験を積み重ねた上で、それら体験への執着を手放してこそ口にできる言葉である。
邂逅別離、生老病死、どれをもそのまま受け入れるということ。
ケセラセラは、大きな悲しみ大きな喜びを経た人が、それらに膝を折ったり道を曲げたりせずに生きてようやく得る感覚である。
出会った事象に等しい価値を与え、それを受け入れる。
そんな人が、今この季節の緑、雨の粒のきらめきを真に嬉しいと思っている。
この句の上機嫌さはアランの幸福論を連想させる。
黒あげは道は乾いてをりにけり
同じように黒く、しかし濡れていて柔らかい生物と乾いた固い無機物。
生き始めることは濡れはじめることだ。
死ぬことは乾くことだ。
その両方があり、両方がつりあってこの世を形作っている。
蝶は飛んで去り、いつかは土の一部になり、道は生き物に踏まれながらその下で次の生き物を育む。
自由に飛び回りはじめる蝶と踏まれて埃を舞い上げる土の道を、同じ黒色で目に浮かべたわたしは、生きて死ぬこととその循環をこの句から連想した。
聖五月ケニヤの空を早送り
ケニアのだだっぴろい土の上にあれば、空の動きはよく見える。
土上の生物の小さな動きを超えて、空はその色や雲を早送りしていく。
生きていることはちっぽけなことだ。循環する空の大きさに比べれば。
貧困や餓死をもそのありようのまま、まず生きて存在していることを祝福しているような、広さと大きさを感じる句だ。
内村恭子氏の両腕は自分を抱く腕ではなく、事象を感じるために世界いっぱいに広げている腕だ。
その手に落ちてくる事象をすべて大小優劣なくとらえる。
その腕を広げている自分さえ、一事象となり世界の点として存在している。
自己を世界の中心に決して大きく据えたりはしない。
ケセラセラ、清々しい水をめいっぱい飲ませてもらった気がします。
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