【週刊俳句時評89】
結社のこれからetc. (3)
「未来図」「鷹」「澤」「玉藻」4冊の記念号から
上田信治
≫(1)
≫(2)
この夏刊行された、結社誌の記念号の話の、最終回です。
4.
小澤實主宰「澤」は、毎年、記念号として、本来総合誌に期待されるような高い視点に立った特集を組みます。
1周年の記念号から、毎号の特集テーマを挙げてみましょう。
1周年記念号「風景句」
2周年記念号「季語を楽しむ」
3周年記念号「特集1・恋の句 特集2・北園克衛」
4周年記念号「挨拶句」
5周年記念号「大正十年前後生まれの俳人」
6周年記念号「久保田万太郎」
7周年記念号「二十代三十代の俳人」
8周年記念号「田中裕明」
9周年記念号「定例句会百回」
10周年記念号(3号連続)「1 角川賞相子智恵と新撰21」「2 澤の十年」「3 通信句会百回」
11周年記念号「永田耕衣」
12周年記念号「震災と俳句」
13周年記念号「アナザー文学としての俳句」
壮観と言っていいでしょう。
「作家特集」の筆者の選択など、まさにこの人という人が選ばれて、必読の内容となっています。
http://www.sawahaiku.com/ebook.html
上記ページから問い合わせれば、PDFファイル版が入手できる号も多いようです。
●
14周年の今年は、7周年目につづく若手特集「五十代以下の俳人」。
「五十代以下」が若手かという、俳壇内外からのつっこみは、甘んじて受けましょう。だって、七年前の若手特集のときは、猿丸さんがまだ30代だったんだから、しかたないじゃないですか。
目次は、こちら。
青木亮人、今井聖、片山由美子、坂口昌弘、仁平勝各氏による「意中の五十歳以下の俳人」、「群青」「玉藻」「天為」誌の50歳以下会員の紹介、「澤」50歳以下俳人を代表して、相子智恵、池田瑠奈、押野裕、限果、榮猿丸、椎野順子、瀬川耕月、野崎海芋、堀田季何、森下秋露の自選20句、など、非常に盛りだくさん。総ページ332ページの大冊です。
筆者(上田)は、若手要覧記事「五十歳以下の俳人二百二十人」を作成し、小澤主宰との対談記事に参加しています。
小澤 俳句という詩型にとって、今新人は誰なのか、どうなっているのか、ということは、いつも関心をもっているつもりです。それから「澤」という会をやっているからには、「澤」の新人の世に出てもらいたいという思いも、もちろんあります。それから俳人協会で、会員の高年齢化について考えるという機会があって、それもこの特集に関係しています。
(対談「新人輩出の時代 五十歳以下の俳人を読む」より)
15000人を数える俳人協会会員のうち、50歳以下の会員は300人に「遠く」満たないのだそうです。遠く満たないというのは、220人くらいってことでしょうか。確実に2%切ってる。
そんなもんですかね。
ここで、ぎょっとしたほうが「記事っぽい」のでしょうが、自分の知り合いで、俳人協会の会員に積極的になりたいっていう人も、そんなにいない感じですし、こんな数字に危機感をもってもしかたがない。
●
要覧記事「五十歳以下の俳人二百二十人」(以下「要覧」)について。
どうやって作ったかと言いますと。
この7年の、角川「俳句年鑑」、総合誌、各新人賞の予選通過者、結社内部からの推薦、そこに澤誌から10人程を加え、300人超の作家をまずリストアップ。
それぞれの半年分の作品を、俳句文学館でコピーしたり(手伝ってもらいました)、結社内のお知り合いに写メして送っていただいたりして、集めまして。あとは、一人で読んで、一人で選びました。
半年分と区切ったのは、それくらいなら全部読めると踏んだからです。
引用句数は、一人1句〜4句。
そこに傾斜をつけたのは、読者のお楽しみのためでもあり、自分の考える作家の重要度を示したかったからでもあります。
半年分の作品から、何句でも引用したくなる、あきらかに「今」充実している作者がいる。そのことは、見て分かるようにしたかったのです。
そして、約90人の作者に短評を付しました(「2行で作家論」を目指しました)。
●
作ってみて感じたことは、いろいろあります。小澤主宰との対談では、
「書き手には旬がある」
「作家は固まって出る」
「この十年は、新人輩出の時代」
「心象優位の時代」
「取合せは試され「過ぎ」?」
といったトピックに触れましたので、それ以外のことを書きます。
◆「作者はいる」
遠藤千鶴羽、川里 隆、北沢雅子、金子光利、本多 燐、岩上明美、益永涼子、塩見明子、吉田昼顔、川越歌澄、日隈恵里、小関菜都子、堀木基之、橋本小たか、竹下米花、紺野ゆきえ、服部さやか、藤井南帆、紀本直美、原田浩佑、稲垣秀俊といったお名前、恥ずかしいことですが、これまで意識したことがなかった。しかし、結社誌等にたいへん充実した作品を発表されています。
ここに、自分にとって既知である、依光陽子、近 恵、甲斐由紀子、望月 周、高室有子、斎藤朝比古、辻美奈子、彌榮浩樹、馬場公江、月野ぽぽな、内村恭子、小倉喜郎、杉山久子、男波弘志、青山茂根、飯田冬眞、山田耕司、押野 裕、山田露結、津川絵理子、高山れおな、五島高資、榮 猿丸、相沢文子、佐藤郁良、杉浦圭祐、鴇田智哉、関 悦史、後閑達雄、九堂夜想、花尻万博、立村霜衣、塩見恵介、明隅礼子、田島健一、原 知子、曾根 毅、岡村知昭、堀本裕樹、宮本佳世乃、三木基史、中内亮玄、鶴岡加苗、五十嵐義知、如月真菜、篠崎央子、矢野玲奈、相子智恵、髙勢祥子、森下秋露、小川春休、池田瑠那、阪西敦子、西山ゆりこ、山下つばさ、日下野由季、北大路翼、津久井健之、藤 幹子、村上鞆彦、藤本夕衣、御中虫、冨田拓也、佐々木貴子、髙柳克弘、南十二国、藤井あかり、矢口 晃、大谷弘至、杉田菜穂、松本てふこ、涼野海音、神野紗希、西村麒麟、小川楓子、外山一機、佐藤文香、山口優夢、谷 雄介、野口る理、兼城 雄、生駒大祐、平井岳人、福田若之、三村凌霄、小野あらた、堀下 翔という作家を加えてみれば……。
俳句の若手の人手不足を嘆くことはない。あるいは、人手は足りないのだけど、作品は生まれているといえるかもしれない。
いや、みなさん、素晴らしいですよ。飛行機に乗るときは、別々の便に乗ってくださいね。
◆「作家は十年か?」
小澤主宰との対談で、自分は、山本夏彦が繰り返しエッセイに書いている「のぼって三年、維持して三〜四年、下降して三年」ということを引き合いに出して、「書き手には旬がある」ということを言いました。
小澤さんは「俳句もそうですか。もっとじっくり変化していくという印象ですが、そうでもないですか」と、やんわりと異を唱えられた。
そのあと、いろいろ考えたんですが、たとえば阿波野青畝でいえば『萬両』(昭和6)『國原』(昭和16)ときて、『春の鳶』(昭和27)には〈水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首〉がある。『紅葉の賀』(昭和37)には〈月の山大国主命かな〉がある。
青畝、爽波、敏雄のような作家は、30年から40年にわたって、一と山二た山と、作品の展開があり、大俳人というのは、えらいものだな、と思います。
たぶん俳句においては、「マンネリ」「反復」が前提になっているということと、そして、作品の「打率」「歩留まり」が低くて当たり前とされていることが、作家の「持ち時間」を増やしている。
あるいは、高齢作家の、手に入った技術の自動運転のような作句ぶりが、しばしば高く評価されることを見ると、俳句の場合「作家性」というものの意味が、どこか違っているのかもしれません。
それにしても、他ジャンルの標準からすれば、十年というのは、ふつうに優秀な創作者が「一つの方法」の可能性を試し尽くすのに十分な時間だったりします。
自分の印象によれば、多くの作家の場合、第一句集、第二句集に最良の達成があり、六十代でもう一勝負チャンスがある。
今回の「要覧」でも、若くして注目された作家が、現在、生彩を欠いていると見えた例は少なくなかった。俳人も、十年書いていれば、正念場がおとずれます。
作家が、この世に持ちこむものは、たった一つのものだと言う人もいます。たぶんその「たった一つのもの」のための「方法」が、「もう一つの方法」へ変成し、展開していくことが、もう一と山を作るためには必要なのでしょう。
◆「結社の風(ふう)というもの」
今回、総合誌と年鑑の掲載作家の名前を収集することから作業を始めたので、「結社」に属する作家が中心のリストとなりました。
思ったのですが、結社やグループには「風(ふう)」というものがありますね。
語調を引き締めるという意識があるグループと、ないグループ。了解性に重きを置くグループと、そうではないグループ。作者も作品もはっきり違う。
たとえば、了解性に重きを置くのは「狩」「銀化」「ホトトギス」などです。語調を引き締めてくるなと感じたのは「未来図」「澤」など。語調を引き締めないと言ってしまうと、悪口になるので言いませんけど、総じてゆるやかだったり、緩急がなかったり、というグループもある。
俳句性というものをどう考えているのかが、自分には理解できないグループもありました。
そういえば、このことについては、長嶺千晶さんの「晶」のもうすぐ出る号に、小文を書かせてもらったんでした。
結社は、ある俳人が夢見た俳句を「上位概念=理想」として、分け持つ集団である。
集団内の作品や作者の価値は、その「理想」に照らして測られ決定される。つまり「理想」は、兌換貨幣における金【ゴールド】のようなもので、それは集団の内部においてもっとも上位の、公的【パブリック】な価値である。
しかし、集団の外ではどうか。
他集団の成員は「よそ」の作品とそこに含まれる「理想」を、ためらうことなく自分たちの「理想」に照らして値付けするだろう。(「晶 no.9」「エスペラントの夢」)
秋桜子の離反以来(昔ですね)、結社が複数存在するということは、イコール、それぞれの結社が中心とする価値が、互いにとって地方通貨のようなものにならざるを得ない、ということです。
しかし、それらのローカルな価値は、必ずよりパブリックな価値によって裏書きされている(はずです)。そう信じているから、今回、90を超える結社・グループに属する作家を一人で読むということが可能になるわけですから。
よりパブリックな価値とは、つまり、「いい俳句」という諸理想の理想、「上位概念の上位概念」であるわけです。
とすれば、作家が、結社に拠るということは、心によりパブリックな価値を秘めつつ、ローカルな価値に殉じることでしょうか。
もともとそれ以外に道はないのだと、小澤さんなら言うかもしれない。小澤さんは「座」がなければ「俳句」はない、と考えているはずなので。
●
今回、記念号を取り上げた「未来図」「玉藻」「鷹」「澤」は、4誌それぞれ、違う理想や夢を集団として分け持って、その生命力を保っている。
それは、かなり驚くべきことです。ミームの多様性という意味では、間違いなくよいことでしょう。また、それぞれの記念号の特集記事から、結社というものの生産力を再認識しました。
一方で、それぞれの価値が、測り合い、試し合う「市場」がないという現状、総合誌よりも結社誌の特集号にジャーナリズムが存在するという現状は、俳句というジャンルに「運動」が生まれるチャンスを、限りなく遠ざけているように思われます。
たとえば、これら4誌が電子化して、ただで、誰でも読めるようになったら、どうでしょう。状況は変化するでしょうか。
誰も読まないかなあ、、、でも、評判が、一句単位とか、一エッセイ単位で流通するようになったらどうだろう。諸価値の行き交う市場が、芽生えやしないか。
いやそれは、www(ワールドワイドウェブ)草創期の夢ですね。今となっては、草不可避ってやつかもしれない。
「澤」はPDF版の販売がある(記念号は1冊1000円)ということ、あらためて記しておきます。
(この項終わり)
●
2014-08-03
【週刊俳句時評89】 結社のこれからetc. (3) 「未来図」「鷹」「澤」「玉藻」4冊の記念号から 上田信治
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿