2014-08-17

フライング落選展  「勘」と「意味」のあいだで 鴇田智哉

フライング落選展
佐藤文香「淋しくなく描く」を読む

「勘」と「意味」のあいだで

鴇田智哉


五十句作品であるが、一句一句として読んだ。
そのあと、全体をちょっと見渡してみた。

まずは、私の一押し「」の句。

斑猫やボールを買つて遊びにゆく

〈遊び〉の前に〈ボールを買つて〉のあることが、ミソである。
買ってから遊びにいく、とはどういう状況だろう。例えば、夏休みにいとこの家に行ってそうなった、とか、約束をして野にドライブに出かけた、というような状況が思い浮かぶ。たまたまの今日の巡り合せで、或る相手や仲間と出かけることになったという状況だ。

そうした偶発的な状況に〈斑猫〉が響き合っている。偶発が、何とはなしの導きに引っ張られて起こるかのような、そういう気分が〈斑猫〉に表れているかと思う。

また、〈ボールを買つて遊びにゆく〉の部分の七六のリズムに軽い童心があって、感じがいい。

罌粟の花弁のかたちの色が目にこもる

あの蛍光色、確かに〈目にこもる〉よなぁと。

あの花のあの色は、花弁のかたちと一体になっている気がする。輪郭線のない、色の面であるかのような感じ。かたちがあって色もあるのでなく、かたちと色が一体になっているのだ。

句中の〈かたちの色〉という言い方が、効いているのである。

また、七七五のゆったりしたリズムが、目にじわじわと色が来る時間の感じを出している。

手に枇杷のおさまつてゐる昼の月

〈手に枇杷のおさまつてゐる〉というフレーズに対して、時を表す言葉を置くのでなく、物を表す言葉を置く。それは、ひとつの挑戦で、作家の個性の出しどころとも思う。

〈枇杷〉も〈月〉も「丸い」だけに、いじわるな読み方をされれば、見立てが見え見えだと言われてしまいそうだ。だがこの句、私は面白いと思った。
単なる見立てで終わらせられないような、じんわりとした感覚が残るのである。それは何なのか。

それは、〈枇杷〉を〈手〉におさめたことによって、〈枇杷〉を視覚としてでなく触覚として読者にとらえさせる働きによるのではないかと思った。

生きている作者が間近に触れている〈枇杷〉と、遠く空中にある〈昼の月〉。二つは別の空間にあるが同時に存在している。そこに、肉体感覚を伴った、そこはかとない孤独感が漂うのである。

ふくろふのふくらめばおほきさがよい

〈おほきさがよい〉の断定が楽しい。作者の子供のような納得は、読者にほほえみを誘う。

これは私の勘だが、おそらくこの作者の感じ方の最も素朴な部分は、こういうところにあるのではないかと思う。

おおらかな童心とユーモアを、語感にも内容にも感じる。

〈ば〉と来て〈よい〉で終わるところ、作者ならではの息遣いという感じがして、いいと思う。

茄子の花切傷の痕白く浮く

腕かどこかの傷痕。白く浮くというのだから、古い傷ではあるが、傷の主は若いであろう。夏の夕暮れの風情がある。

〈茄子の花〉は、句の形として唐突だが、白に対する暗く濃い色が印象的で、心のリハビリ中のような危うい雰囲気を出している。

また美術館行かうまた蝶と蝶

〝今日二人は、〈蝶と蝶〉として美術館にいた。そしてまた……〟ということだと思う。

読者には(いい意味で)「今日」という前提がわかり、そのうえで、〈また……また……〉〈蝶と蝶〉の構造の面白さや、〈行かう〉という呼びかけの軽快さを感じる。

〈蝶と蝶〉と言われれば、蝶二頭が戯れる姿が多くの読者に思い浮かぶはずであり、そうした視覚的連想を借りた楽しげな句となっている。

以上六句が、私の一押し「」である。一押しだが複数ある。

次は、いいと思った句「」。

さぼてんのまはりかたばみ少し咲く

ちょっとしたスケッチだ。五十句は長いので、いい意味で主張のない、こういう句が間に入ってくるのはいいと思う。

白シャツの襟のボタンや松の花

〈松の花〉に門出や整列の雰囲気を感じた。

はやい虫おそい虫ゐて豆の花

実際に動きの早い虫と遅い虫が豆の花にいる、という意味にとれるが、その一方で、〈豆の花〉の周囲にちらほらする虫的な残像をとらえているようで、さりげなくおかしげな句。

屋根瓦薔薇はこちらを向いて咲く

〈屋根瓦〉とぶっきらぼうに置いたところがけっこう面白い。〈屋根瓦〉が日で照っていて、それとは離れて〈薔薇〉がある、と解釈した。

貸ボート左の空が明るくて

空間の広げ方がいい。

しめつぽい月の出てゐる花火かな

その時そうだったんだから仕方がないじゃん、みたいな感じを、はっきり言ったところがいい。

枝に手がふれて今踊りはじめる

前半の句またがりのリズムからの〈今踊りはじめる〉という流れは気持ちがよい。

ただ、初めに読んだときは、〈枝〉なのかなぁ……、という思いがあった。〈枝〉と〈踊り〉は、ちょっと離れている感じがしたからである。

しかし今は、〈枝〉でいいと思っている。この〈枝〉には、不意という気配があるから。

あきあかね太めの川が映す山

クレヨン画の絵本のような雰囲気が楽しい。

雪に日差し電車がいつも越える細い川

たどたどしい字余りがうまくいっている。視覚に沿った言い回し。

夏蜜柑のぼりきれば坂ぜんぶ見える

全部見えるのが〈坂〉であるところがミソ。また、「夏」蜜柑であるところも。

以上が、いいと思った句「」である。

次は、とても気になった句「」。

なんらかの鳥や椿の木のなかに

〈なんらか〉という言葉自体は、それなりに魅力的だ。

しかし、この句では、〈なんらか〉という語が、多くの人が使う意味での、普通の〈なんらか〉になってしまったように思える。

表現の裏をかいていったら、表に出てしまったという感じがある……。

宙を抱けばこんなにわかる滝のまへ

〈こんなにわかる滝〉がとても面白い。

ただ、〈宙を抱けば〉に、気合が入りすぎたか。

いや、〈抱けば〉と突っ込んでいったのに、〈まへ〉と後ずさりして納めているところがもどかしいのか。

前後のバランスがちょっと惜しい感じが、私にはしたのである。

ただ、この句に表れている、俳句に抽象的な表現を求める意志にはひかれる。

歯並びに木の香のせまる夏の霧

〈歯並び〉を取り出したところがいい。というか、〈歯並び〉という言葉自体が面白い。

〈木の香〉と〈夏の霧〉がダブるか。

煙ごしに祭のほとんどと逢へる

〈祭のほとんど〉が面白い。

〈煙ごし〉で答えが出てしまった感じが……。

埋立地夜が途方もなく薄い

〈埋立地〉という言葉に対して、〈途方もなく〉という言葉が結びついたのは、すばらしいひらめきと思う。

〈埋立地〉とは〈途方もなく〉あるものなのだ、おぉ、と納得する。

ただ、〈埋立地〉だから夜が薄い、という「理」が、どうしてもついて来てしまうように思った。

鳥やその無名の鳥を冬と思ふ

〈無名〉ではもの足りず、何かが欲しいと思った。

〈無名〉とはどういうことか、〈名〉とはどういうことかを掘り下げていければ、その何かにつながるのではないか。

あきばこをひらいたやうななんの花

〈なんの花〉という花が実在するのだろうか。(「ナンの花」?)そうならこの句は面白い。

そうで無くて、〈なんの花〉は「何の花」ということだろうか。それでもこの句は面白い。

そのどちらであるかがわかるような、表記上の配慮があった方が、この句にはよいと感じた。欲を言えば。

以上が、とても気になった句「」。魅力を感じた句ばかりであるが、批判的な部分は、あくまで私の感じ方ということで、申し訳ない。

と言っておきながら、次は、問題としたい句「」。

白鳥の池を淋しくなく描く

〈淋しくなく描く〉が、わかりづらかった。

〈淋しくなく〉ということは、本来は「淋しい」ものなのだろう。でもそれを「淋しい」と言わず、〈淋しくなく〉と言い直している。また、直接的な「思う」でも「見る」でもなく、間接的な〈描く〉という行為を通して白鳥と向き合っていることも、わかりづらい。

さらに、描く対象が〈白鳥の池〉であるところもわかりづらい。〈白鳥〉〈白鳥の池〉に抱くイメージが、人によってまちまちであると思うからだ。

こういったことを考えながら、〈白鳥の池を淋しくなく描く〉とはどういうことかを、考えてみた。

〝〈白鳥の池〉は本来「淋しい」けれど、それを私は〈淋しくなく描く〉。そうやって私は淡々と日々を送っています〟という感慨なのだろうか、あるいは、
〝周囲の大人から、「〈白鳥の池〉というものは、〈淋しくなく描く〉ものだよ」と言われたり、教えらたりして育ったことの寂しさ〟のようなことを表現しているのだろうか、などと、いろいろと考えてしまった。

ともかく、句中に、或る特定の「性格」を持った一人の主体を想定しないと読めないような感じに、読者として陥ってしまうである。

しかも、そのキャラクターが複数想定されて、解釈が分散してしまうのである。

それは、〈淋しくなく〉の〈なく〉のせいである。この表現は「何かを訴えたげ」なのである。仮にこれが〈淋しく〉であったなら、句中の主体のキャラクターは、割と限定されてくる。(〈淋しく〉に直した方がいい句になるという意味ではない。)

で、結論を言うと、この句は、一句だけでは読みづらい。

もし、この句を作者の押しとして入れるのであれば、五十句中にあと幾つか、この句の伏線なり補助線となるような句を入れたほうがよいと思う。

それはそれで、コンクール応募における作戦である。

ただ、どちらにせよこの句が、「勘」よりは「意味」寄りの句であることは確かである。

五十句作品で、「勘」寄りの句が並ぶ中に、ぱらぱらとこういう句が入ってくるのも効果的な構成にはなると思う。

〈白鳥の池〉の句への補足。
一月や雉さへゐない白い部屋

この句は、いろいろな意味で〈白鳥の池〉の句と似ている。〈雉さへゐない〉のイメージのとらえ方が、人によってブレるだろうから。

ただ、この句は、〈白鳥の池〉よりも、「勘」で読んでみたくなる雰囲気を持つ句ではある。〈一月〉や〈白い〉が謎めいているからである。

句を「勘」寄りで読んでみたいのだけれど、〈さへゐない〉という表現が、「何かを訴えたげ」な言葉であるために、どうしても「意味」寄りな読み方に傾いてしまう。つまり、解釈のための補助線として、ある特定の「性格」をもった主体を想定したくなるのである。しかし、それにしては、〈雉〉のイメージが複数あり、さらに、〈雉〉が季語として使われていないため、〈雉さへゐない〉のイメージ、句中主体のイメージがますます分散してしまうのである。〈白鳥の池〉の句と同様だ。



初めに私は、五十句作品をまず「一句一句として読んだ」と書いたが、
私自身は、俳句はまず、一句一句で独立して読まれるべきものだと思っている。

そのうえで、同じ作者の句が複数並んでいたなら、その句群として読まれるべきだとも思っている。

句群として五十句をまとめるのは、けっこう大変だ。

今回の五十句は、作者ならではの「勘」やひらめきが出ている句が魅力だった。の句である。

私自身がそういった俳句にひかれるというのもあるのだが、〝作者ならではのひらめきが滲み出ている五十句〟と審査員が読んでくれれば、よいなぁと思った。

また、〈白鳥の池を淋しくなく描く〉は、作者のもう一つの面、「意味」寄りの、物語的な面とも思う。

先に書いたように、こうした面を生かす手はあるだろう。

「淋しくなく描く」は、五十句のタイトルでもあったので、〈白鳥の池〉の句には、ちょっと突っ込みすぎてしまったかもしれない。

そのほか、の句への批判的な言葉など、いろいろ失礼があったかもしれないが、あくまで個人的な感想として、お許し願いたい。



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