2014-11-09

俳句の自然 子規への遡行36 橋本直

俳句の自然 子規への遡行36

橋本 直
初出『若竹』2014年1月号 (一部改変がある)


以前(第十八回)に触れたように、子規の「俳句分類」は、約十年の間に十二万を超える近世の句を収集・分類している。これはおそるべき数字で、単純計算で一ヶ月あたり平均一千句を分類し続けたことになる。この間、子規は病床の人になったことを考えれば、そのペースの異様さはただ事ではないのがわかるであろう。

なぜ子規が分類を始めたのかについては、前に既出の説を紹介した。また、そのほかの子規の評伝類でも「俳句分類」が大仕事であったことに触れてあっても、子規の業績との関連は案外に通り一遍の解釈で済まされているように思われる。それらが一応は筋が通った説明でも、なぜにこの異様な仕事が継続されえたのかについて、どうもなにかひっかかり、私には腑に落ちなかった。

簡単に言えば、季語を軸として何が何と組み合わされているのかをひたすら集めて分類するだけのこの作業は、なんでもないことであったかのように大変なことが継続されているのである。しかし、子規はそれなりに高い収集分析能力はあるかもしれないが決してスーパーマンではない。分類し終わったすべてを記憶してもいないであろう。十二万句も集めてしまえば、それが作句のためにあるというなら、逆にその情報をもてあましたのではないのか。しかし子規は健康状態がそれを許さなくなるまで分類をやめられなかった。そういう子規の思考行動を理解するために、自分の視界に入ってくる人の行為の中で、この情熱のありかたに似ているものは何だろう、とずっと考えていたが、ある時、以前に読んだ記事をはたと思い出した。解剖学者の養老孟司氏のことである。それは氏の専門領域の話ではなく、趣味の昆虫採集であった。氏はゾウムシ、特に普通種のクチボソゾウムシを収集されている。

〈ふつうの人は「なにか珍しいものが採れましたか」とすぐに尋ねる。しかし「珍しい」ということがわかるには、「普通」がわかっていなければならない。普通種がわからない人に、珍しいものを説明しても、じつはわかるはずがない。(養老孟司「養老孟司先生のタケシくん虫日記」日経ビジネスオンライン2007年10月17日)

子規もちょうど、昆虫学者が昆虫を収集し、調べ、ひたすら普通種を集めて同種か異種かを判別し、ごくまれに新種珍種を発見してゆくように、俳句を収集し続け分類しているように見える。中でも、養老氏のように昆虫採集を好む人が素人には同じようにしか見えない「普通」の虫を執拗に集め続ける情熱が、子規の分類作業のそれに重なって見えたのである。それはどういうことであろう。

この自然科学的な方法は、初期の段階であれば、ひたすら種類を集め、分類し、区分け(術語、用語としての名付け)してゆくことで、微細な差異が顕在化し、それが積み上げられて「学」が成立することになるだろう。そして集めれば集めるほど「学」としての厚みは増してゆく。つまり正確さを期すためには、律儀にすべて集めざるを得ない。また、このような「科学的」態度をとるとき、たとえば珍種の蝶が高値で取引されることがその態度の枠内においては無化されるように、芭蕉が俳聖であるとか言う「個」の歴史的価値はその枠内において無視されることになるであろう。そしてそのように同質化されることによってある意味で客観的な視点で句群に向き合う視点を獲得することもできる。

子規によって芭蕉が〈正しく〉批判し得るのは、明治の旧派宗匠への批判ということなどは、本当は小事に過ぎぬ副次的なものであって、近世以来の俳諧の既存の評価の価値体系をまるまる無化でき、かつ「学」としての子規の個のレベルを越えた体系的もくろみがそれを担保するからではないのか。そしてすべて集めきって系統分類できてしまえば、一つの記号の体系となり、近世の俳句(俳諧の発句)はすっかりカタログにおさめられて、いわば「俳句学」として大成者たる子規とその後継者のものとなるであろう。それは、新しい「詩」たる近代俳句の踏み台になるはずのものだ。

しかしながら、それはただ集める「学」というだけではすまないであろう。昆虫であれば、その構造から生きていた時の様子を色々想像できる。それで不明の部分は現場に出て生態を観察することになるだろう。子規の俳句分類であれば、句が同時代の文脈に置かれたときどう読まれていたか、いまならどう読めるかを考えることにもなるだろう。そして言葉によって書かれたものおいて現場に当たる、読者と時と場所によって変容する相(アスペクト)の局面を無視はできない。それは最短詩型の俳句であればなおさらのことである。成立した「学」が継続してゆくには、その「正しさ」そのものを永遠に追い求める宿命が待っている。

そう考えてくると、以前(第二十三回)で述べたように、子規の最も数多く詠んだ句が、雪月花(梅)時鳥をはじめとする古来より歌われてきた各季節の代表たる季語群であった理由も、よりはっきりしてくるように思われる。個人の嗜好で詠んでいった結果がそのようであることはあまりにできすぎている。おそらく子規は、先に述べてきたような意味での科学者的な態度で俳句の「正しさ」をおいもとめ、自身の詠むべき季語すら意識的に選んでいたのではないのだろうか。

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